日本の法体系では「私立学校設立の自由」が認められており、それによって、学校を作って独自の教育をしたい者は、そのことが可能になっている。形式的にはそうである。しかし、実質的には自由ではない。私立学校を設立するためには、多くの認可事項をクリアしなければならないし、設置者負担主義原則があるから、学校の設立・維持にかかる費用をすべて負担しなければならない。かつて、不登校になった子どもたちのための学校を設立しようと運動したひとたちがいた。そして、寄付を募り、私のところにも依頼状が来たが、過疎地域の土地代の安いところにつくる計画でも、なかなか資金は集まらなかった。何十億もかかる。まして、市街地に学校をつくろうと思ったら、よほど大きな組織でない限り、不可能である。こうした現状は、形式的権利はあるが、実質的権利はないに等しいというべきなのである。そして、国民の教育権論の立場からすると、公立学校が主戦場だから、私立学校設立の実質的な自由などは、ほとんど議論されていない。
さて、独自の理念に基づく学校をつくることが、容易に行われることがよいのか、あるいは日本のように、かなり高い基準を満たさなければならないほうがいいのか、それは人によって考えかたが違う。日本のような厳しい認可主義であれば、存在する私立学校の水準は保障されている。
アメリカのように、認可という行政手続がないと、実態のない学校も存在してしまうことになる。(アメリカは民間の学校が集まる協会があって、その協会が申請を受け付けて検査をする。入会が認められると、その協会加盟校として信用をえる仕組みだ。)かつて、日本の研究者に博士号をとりやすいと称するアメリカの大学から、たくさん勧誘がメールで舞い込んだ時期がある。NHKが取材したところ、その大学は、アパートの一室しか実態がなく、講義などはほとんど行われておらず、書類のやり取りで博士号を認める、つまりお金で博士号を買うシステムであることがわかった。そこで、博士号を取得しても、例えば、公募をかけた大学で、博士論文のチェックをせずに、書類だけで認めていたら、博士として遇されてしまうことになる。そういうことも起こってしまうのである。高校などでも、写真をみて受験したが、実際に入学したら、設備はまるで貧弱だったということもあるに違いない。日本では、そういうことは起きないといえる。つまり、日本のような厳格な認可行政をして、実質的な私立学校設立の自由が制限されていても、設立された学校の質が保障されているから、そのほうがいいと考えは、もちろんありうる。
しかし、日本のように、独自の教育内容や方法をほとんど認めない行政であれば、個性的な教育は行われず、従って個性的な人材は育ちにくいともいえる。そして、私立学校も含めて、国家が決める基準に忠実に従った学校しか存在しえなくなる。
この判断は、あくまで人によって異なるから、学校設立の自由を「実質的に」認めるかどうかは、民主主義的な手続きによって決めることである。ただ、私は、実質的に認めるほうが、教育全体が豊かになり、豊富な人材が育つし、また特別なニーズのある子どもたちの要求にも応えやすくなるという点で、認めるべきであると考えており、この文章もその立場で書いている。
さて、では、実質的に学校設立の自由を認めるとは、どういうことなのか。
結論的にいえば、
・学校であることで要求される基準を、高く設定するのではなく、必要最低限をクリアすればよいことにすること
・学校の運営費用を公立学校と比較して、あまり差のないものにすること。運営費への公的補助を拡大すること。
以上である。
国際的にみて、この条件の下で、独自の教育内容や方法をとる学校の設立を認めている事例としては、代表的には、オランダとデンマーク、そして、アメリカのチャーター・スクールがあり、それぞれ認める方式が異なっている。
オランダは、憲法で公立私立学校の財政的平等が規定されているので、学校の創設・運営にかかる費用負担は平等である。尤も、私立学校の場合、創設時の施設は自前で準備する必要があるが、運営費用はすべて平等になる。公立も私立も、地域によって多少異なるが、生徒数の基準があり、その基準を超えると、私立でも公立と平等に補助が受けられる。基準に到達しないと、補助金が打ち切られる。それは公立でも同じである。
デンマークは、そうした基準も存在せず、学校の運営費用の一定割合が補助される。財政状況によって異なってくるが、だいたいは75%程度である。教育内容に対する規制はない。
この両国の共通点は、学校での教授の自由が保障されている点である。
それに対して、アメリカのチャーター・スクールは、既存の公立学校とは異なる教育を行いたい主体が、教育委員会に詳細な計画を含んだ申請書を提出し、審査に合格すると、5年間運営費を全額補助されるという仕組みである。従って、形式的には公立学校である。5年経過した時点で再審査があり、認められれば更に5年間延長される。チャーター・スクールも当初の施設は、自前で用意する必要がある。アメリカの公立学校は通学区指定があるが、チャータースクールは通学区指定を解除する必要がある。チャーター・スクールは教育内容の審査があるので、オランダやデンマークとは異なるが、ただ、公立学校のように学習指導要領に拘束されるのではなく、逆に要領とは異なった教育を求めることが前提だから、かなりの程度教育の自由が認められているといえる。
学校設立の自由は何故必要なのか--教育の自由との関連で
国民の教育権論では、「教育の自由」は、公教育が親からの委託であることと、教育の本質から説明される。浦野東洋一は「教師の教育の自由を、親(保護者)と協力しつつ、子どもの発達に奉仕する権利というように憲法上解釈すればよいのではなかろうか」と、楽天的に書いているが(「学問の自由と教育の自由」『教育と教育基本法』平原春好編勁草書房p158)そのような解釈が説得力をもつとは思えない。これまで、教師の教育の自由を認めた判決は、杉本判決のみであり、他は、ほぼ認めていない。学説的にも、浦野が引用しているように、個人的自由ではなく、「子どもの学習権・人格の自由な発達権や親の教育の自由によって強く規定されている」(結城忠の引用)と考えるほうが有力であろう。
しかし、親の教育の自由といっても、家庭における教育の自由と、私立学校を選択する自由というレベルでの親の教育の自由であれば、親が公立学校を拒否して、公立学校と教師を拒否する自由(私立学校を選択する自由)であるに過ぎない。教育の自由にこうした限定が必然的に付随するのは、学校に教育方針がないことと、親と子どもに選択権がないからである。学校設立の自由とは、独自の教育目的、内容、方法を提示して学校を設立し、運営する自由のことである。もともと、独自の教育を提示しているのだから、その範囲で教育を行う自由が存在しうる。もちろん、教師は、その教育を受け入れることで採用されるわけである。しかし、そうしてできた学校を、通学区指定などで子どもに強制するとしたら、そうした自由を認めるわけにはいかないことも自明である。
逆にいえば、ある教育方針が明示されていて、それを受け入れて、その学校に入学するならば、その方針を実行する自由が存在するし、それに異論をはさむ者はいないだろう。つまり教師の教育の自由は、予め明示された教育を受け入れた子どもたちが在籍していることによって、実現可能になるのである。教育の自由と学校設立の自由が不可分の関係であり、それを媒介するのが、学校選択の自由であることがわかる。
そして、更に重要なことは、学校設立の自由は、新しくつくる学校に対してだけ適用されるものではなく、既存の学校についても、いわゆる「学校づくり」という形で、教育方針や内容を設定していくという作業をも含むように拡大することが可能である。(ちなみに、オランダでは、公立学校も独自の教育方針をすべてもっている。)
学校選択制度が提起されたときに、学校は個性的な教育をするべきで、そうした方向が求められるとしたが、学校選択に反対した国民の教育権論の立場は、個性的な教育などは不可能で、単に偏差値による一元的な競争にしかならないという認識を示していた。そして、学校に格差ができ、教育の荒廃が進む、と。だが、個性的な教育を奨励されていたのだから、教育の多様性を生む絶好のチャンスだったのではないだろうか。なにしろ文部科学省が後押ししていたのだから。
それに反対した国民の教育権論は、学校はどこでも同じような教育をするのがいいということなのだろうか。そういう時代ではないと思うのだが。