国民の教育権論は、実は当初から決定的な弱点があったが、1950年代、政府文部省が、戦後の民主主義的な改革を否定し、国家統制を強めようという施策を次々と打ち出したことに対して、教育運動として抵抗する勢力にとって、その勢いを鼓舞し、正当化する議論として、強い影響力をもった。
しかし、いわゆる勤評闘争で、保護者や地域住民の支持を訴えに入った教師たちに、「あなたたち教師は、子どもを評価しているではないか、なぜ教師は評価されてはいけないのか」という疑問が寄せられたという。おそらく、そのように言われた教師たちは返答に詰まったのではないだろうか。
国民の教育権論は、教師の専門性に委ねる理論であるが、教師の不祥事、不合理な校則、体罰など、教師と子どもたちは、いつもいい関係だったわけではない。教師に対する不満などは、いつの時代にもあった。そうした不満を誘発するような教師たちを、親や子どもは歓迎しないし、教師の専門性から教師の自由を引き出す理論は、教師と保護者のトラブルを解決することができない。(学校の生活指導における不十分性や体罰、校則などの問題から、国民の教育権論の構造を批判したのは、今橋であるが、これは次回に詳しく論じることにする。)
また、もうひとつの問題は、教師も、親も価値観はひとつではない。多様な価値観が存在し、互いに対立する場合もある。トラブルになることもある。旧字体こそ正しい漢字であるという信念から、授業で旧字体を教え、使っていた教師がいた。これは、学習指導要領に違反するので、行政側から問題とされて、排除されたと記憶するが、これは、教師の教育の自由ということで、国民の教育権論は、その教師を擁護するのだろうか。実際には、国民の教育権論の立場に立つ教師たちは、政治的、イデオロギー的に対立するから、擁護はしなかったに違いない。
もっと広く、宗教などに関わる信仰の自由などの、より根本的な価値に関わることになると、国民の教育権論の教育の自由の論理とは、異なる形に進行しているし、それを許容している。たとえば、エホバの証人が、競争的な種目、特に武道などの授業を拒否することは、次第に認められるようになっている。つまり、教師の教育の自由は、制限されていることになる。
教師の教育の自由を認めるならば、南京事件はなかった、慰安婦は当時国家によって、認められていた仕事であると教えるのも、許容する自由なのだろうか。
こうした国民の教育権論の構造になじまないことについて、基本的には、国家教育権に反対する立場の人から、批判もなされてきた。
西原博史は「思想・良心の自由と教育課程」(『講座現代教育法1 教育法学の展開と21世紀の展望』三省堂 2001年6月)という論文で、次のように書いている。
「個人の主観的権利として機能する思想・良心の自由を、公教育の制度構築の要素として欠落させるなら、教育法学の「21世紀の展望」を語るに際して根本的な欠陥が生じる。」p217
「国民の教育権論は、価値観の多様性を引き受けることを拒んで、結局は、国民として望ましいと判断した価値判断を前提に、その価値判断を義務教育を通じて国民に押しつけていく道筋を選ぶことになる。」そして、兼子仁は多少配慮していたが、「集団として組織化された親による教育内容の決定を構想する段階で、その位置づけは崩れ始める。多くの親による要求内容の集約を目標として選択する理論は、むしろ多元性の縮減を目指すことになる。」p219
つまり、結局は、教育の「自由」ではなく、特定の立場を親や子どもに押しつけることになっていると批判しているのである。その結果、堀尾論では、子どもの学習権を主張しているが、実際には、子どもは無権利状態であるという。p220 そして、永井憲一は、人格的価値体系を子どもに押しつけることを許容しているとまで批判している。
さて、こうした価値の問題については、真理、あるいは民主的価値がある、そこに立脚することこそが正しいという見解もありうる。確かに、歴史の理解などで、明らかに国民の立場からおかしなことが教えられることに対して、正しい理解はこうだということを示すことができる場合もあるかも知れない。そうした「真理」を前提とした教育の自由なのだ、と。
しかし、教育の多様性は、価値観的立場だけではなく、教育方法などにも及ぶ。
世界には、様々な教育手法がある。シュタイナー教育、モンテッソーリ教育、フレネ教育、ドルトンプラン教育、イェーナプラン教育、サドベリバレイ教育等々をみても、これらのひとつの教育方法で子どもを教育してほしいと思う保護者がいたら、そうでない教育をしている教育を受けさせられることは、受け入れがたい。そういう場合は、私立学校を選択すればよいということで、済むだろうか。公立学校の場合には、どのような教え方をするのか、について、特定の方法を国家が指定することを、国民の教育権論は肯定するのだろうか。特別な教え方をすることは、私立学校に任せて、公立学校では、国家なり専門的な教師が教え方を決めて、それを子どもは受け入れるべきだ、ということが、教育の自由の実現とはとうていいえない。教師の専門性が認められれば、教え方の自由はかなり認められるべきであり、そうすれば、公立学校でもフレネ教育をとりいれる教師が実践することは可能でなければならない。事実そういう教師が存在している。しかし、公立学校だからといって、フレネ教育になじめないという親や子どもは、それを拒否できないことになる。
もちろん、これは、ある特定の価値観的立場に関わるということでもない。しかし、教育的にはきわめて重要なことだ。学習指導要領などの「教育内容」についての法的議論はなされてきたが、教育方法については、ほとんど等閑視されてきたように思われる。実際に、仮設実験授業をしたいと思う教師がいたとして、それは自由にできる状況の教師は少ないのが現実である。