5年前の雪崩事故で、引率教師が起訴 対象に疑問

 2017年におきた栃木県の高校登山部の、雪崩による死亡事故に関連して、当時引率していた教師が起訴されたというニュースが、各新聞に出ている。https://mainichi.jp/articles/20220211/ddm/012/040/096000c
 今年の2月に民事訴訟も起こされているが、5年も経過してからの起訴だから、かなり、起訴するかどうか揉めたと想像できる。当時の記事も読めるし、また、県が設置した第三者の雪崩事故検証委員会の報告書も、ウェブで読めるので、ざっと読んでみた。生徒7名と教師1名が亡くなった、痛ましい事故だったが、被害者の家族は、起訴でほっとしたと、新聞に語っているそうだが、起訴については、多少の疑問も感じざるをえない。
 事故は、以下のようなものだった。

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「仕事のできない東大生」という記事

 『週刊現代」の記事「東大を卒業しても『仕事がまったくできない人」の意外すぎる共通点」という記事がある。かなりピントが外れているという意味でも、興味深い文章だ。
 記事の要点を整理しておく。
1 東大に合格すれば明るい未来が待っていると、受験生たちは信じているが、そんな時代は終わり、社会環境は激変している。
2 優秀な東大生の能力は青天井だが、それは1割だ。
3 企業就職した東大生は、MARCHに負けることも珍しくない。大学まで勉学一筋だった東大生に対して、イベント系サークルで楽しんでいたひとたちの口と体力に負けてしまう。
4 顧客に上から目線しかできず、失敗する。
5 昔は官僚や弁護士など、そういう東大生も活躍できたが、弁護士は供給過剰、官僚は激務の上権限はない。キャリア採用の東大卒は14%にすぎない。
6 企業でも、能力の高い東大卒は使い勝手のよい道具で、型落ちになれば棄てられる。
 細かい部分はさておき、私が一番興味をもったのは、企業における仕事のさせ方が、このようなものだとしたら、日本は、いかにも能力主義ではなく、能力を無視して社員をこき使う社会だということだ。ずっと、日本の教育は、過度な能力主義によって荒廃させられているという、教育学の認識に、ずっと疑問をもって、このブログでも考えているわけだが、この記事は、その点でもヒントをあたえてくれる。

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流山市の人口急増による学校移転問題

 読売新聞が、流山市における中学移転に関する記事が掲載されて、ネット上で話題になっている。
 記事の趣旨は、人口が急増している流山市は、保育所などの政策ばかりが話題になってきたが、実は、小中学校問題は、深刻な状況になっている。この記事は、急増で教室不足になった南流山中学を、東京に移転して空家になっている東洋学園大学の敷地を活用するが、あまった部分を暁星国際中学を誘致する計画が進行しており、それに対して、住民が格差が生じるとして反対しているという記事だ。そして、ネットでのコメントは、住民のわがままを批判する声で溢れている。私立中学と市立中学が同居するのは、格差問題が起きて反対するという見解に対して、格差が実際にあるのは当たり前だし、市立と私立が隣あわせになっていることなど、他の地域ではいくらでもあるいうわけだ。その批判はさておき、記事自体が、実に不十分なもので、これでは誤解されても仕方ないように思われる。

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大学のオンライン授業拡大を文科省が容認の方向

 毎日新聞に次のような記事がでた。
「大学のオンライン授業「60単位上限」規制緩和へ 留学生獲得後押し」(2022.2.3)
 現在、上限が60単位となっているオンライン授業を、より緩和するということだ。私は、インターネットは大学のあり方そのものを変えることになると予想している。私は、既に定年退職してしまったが、この動向に関与できないのは、少々残念である。映像付きのオンライン授業はできなかったが、インターネットを可能な限り活用して、授業だけではなく、前後に様々な実践をしていた。
 コロナによって、オンライン授業が普通になったことによって、これまでの大学の制約を大きく取り払う可能性がでてきた。もちろん、可能性であって、実施するかどうかは大学自体が決めることだ。それは、積極的に活用する大学と、消極的な大学の格差が開いていくということでもある。

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教員不足 文科省に大きな責任がある

 読売新聞(2022.2.1)に「教員不足、ハローワークに求人も…授業できない事態に現場悲鳴「毎日電話で頭下げてる」」という記事が掲載された。何を今更という感じだ。私は、既に20年以上も前からこういう事態が来ると、あちこちで書いていた。最も大きな要因は、文科省が、教師を尊重していない点である。
 35人学級の実施、特別支援学級の増設、高齢者の大量定年退職、産休等々、様々な原因が書かれている。そして、教育委員会が、教師確保のために、電話をかけまくっている状況が報道されている。https://news.yahoo.co.jp/articles/609bca3cead773cd35ae5cb9c3bf9998d9a95faf
 似たような記事は他の新聞にもある。
 しかし、単に不足しているだけではなく、より深刻なのは、教師志望者が減少していることである。「コロナ禍で大学の説明会を十分に行えず、教師のやりがいをアピールできない」という嘆きを紹介しているが、事実は、その逆だろう。教師のあまりの過酷労働が、誰にも知られるようになり、「やりがい」などあるのか、という疑問が学生のなかに浸透していることだろう。いくら、やりがいをアピールする場があっても、響かないのではないだろうか。だから、いくらアピールしても、教師の労働条件が根本的に改善されないと、志望者が増えることはないに違いない。

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共通テストの不正再論 本当にスマホを使ったのか

 入試問題を研究してきた人間として、今回の事件は、注目せざるをえない。やったという本人が現れて、一部手口が報道されている。それによると、スマホを袖口に隠して操作したということと、一人でやったと白状しているというのだ。昨日、スマホを使ってやるのは、99%以上の確率で不可能だと書いたので、再度書かざるをえないと考えた。
 正確なことを公表すると、まねする受験生が出る可能性があるから、本当ではないやり口を公表したという可能性はあると思う。当初は、やりくちは公表しないのではないかという憶測も流れていたから、ありうると思うが、そうだとすると、やはり、私の想像した手口は異なる。
 
 とりあえず、スマホを袖口に隠して操作したということだとすると、まず自白の信憑性を疑わざるをえないということだ。本人が手口を隠している可能性もあるが、それは警察としても、実際にやってみさせるだろうから、検証しているだろう。ただし、「一人でやった」というのは、かなり無理があるのではないか。

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大学共通テストでの不正

 大学入試で、これだけ世間を騒がせた不正は、久しぶりではないだろうか。私が若かったころは、毎年のように新手の不正が登場したものだ。いまだに記憶にある印象的なものは、当時刑務所で入試問題を印刷していたが、印刷にかかわっていた囚人が外と連絡をとって、休憩時間にラグビーボール(?不確か)のなかにゲラをいれて、塀のそとに蹴りだした事例と、さる有名女子大で、娘の代りに父親が替え玉受験したという事例だ。特に後者については、いまでも頻繁に話題になる。母親が替え玉になるのはわかるが、父親が娘の振りをするというのは、なんとも大胆だ。私の記憶では、すね毛が濃いことに不信をもたれて発覚してしまったのだが、黒いストッキングでもしていればわからなかったのに、と冗談に言い合ったものだ。
 その後、受験生の入構チェックが厳しくなったとか、試験中の監督も厳しくなり、そうした不正は少なくなり、不正はほぼ私大の医学部に集中するようになっていた。ちなみに、大学紛争によって、入試粉砕闘争なるものが行われるようになる以前は、入試の最中でも、普通に学内にはいることができたものだ。そのため、いくつかの大学では、現役学生が学内に控えていて、入試が始まると試験問題を受け取り、急いで解答して、正解答集を印刷して、帰宅する受験生に販売するなどということも行われていた。これは構内にはいることができるため可能だったわけだ。

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教育の再政治化? 小玉重夫氏への疑問

 この間「教育的価値論」について、少々拘っているが、『教育』2月号に佐貫浩・佐藤広美新旧委員長の論争が出ていたので、興味深く読んだ。佐貫氏が、小玉重夫氏の論を「暴論」と決めつている文章があったので、そこから入りたい。それは
 
 「『教育的価値』概念が、『日教組系の教師たちの教育実践を支えていた民間教育運動とそれを支えていた革新系教育学も脱政治化し、教育的価値の中立性を担保する「子どもの発達」という概念が脱政治化のシンボルとなり、政治教育を促進しようという旧教基法8条2項の中立性を、教育を脱政治かするための中立性への転化させ、学校での政治教育を行うことをそれ事態を抑制させる効果を果たすことになった』という批判」を論理的に理解しがたい暴論というべきであろう。」(『教育』2022年2月号p64)
 
という文章に現れている。
 小玉氏の文章は、『岩波講座教育変革への展望1 教育の再定義』に収録されている「公共性の危機と教育の課題 教育の再政治化とどう向き合うか」という文章である。(以下の紹介はこの論文)佐貫氏の論文全体の趣旨に賛成するものではないのだが、確かに、この児玉氏の論は、理解しがたい文章である。そこで、児玉氏の検討から入りたい。

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入試に皇室特権はあるのか あるのは政治力の行使だ

 悠仁親王の高校進学問題は、いよいよ受験シーズンに突入して、ますます大きな話題となっている。これだけ、世間に晒させてしまったという点で、両親の責任は重いといえる。
 題名のように、皇室特権という言葉で、語られていることが多い。秋篠宮は、本人のいきたいところに行かせたい、と語っているらしいが、そもそも受験の世界では、本人のいきたいところに無条件でいけるわけではない。いきたいという希望は大事だが、世間には「試験」という関門がある。まるで、秋篠宮のいい方は、「関門」は自分たちには存在しないと思っているかのようである。確かに、「学者」のなかには、皇族は行きたい学校にいけるという特権がある、と主張している人もいるらしい。
 では、どうなのか。
 結論をいえば、そんな特権は、どんな法令・規則にも書かれていないはずである。確かに戦前は、皇族は学習院で学ぶことが規定されていた。学習院は、天皇家のための学校として出発したのだから、皇族や華族が特別な地位を占めていた戦前においては、それは当然のこととして受け取られていたに違いない。

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東大前での刺傷事件を考える

 不可解で悲惨な事件が起きてしまった。名古屋の高校生が、大学共通テストが行われている東大の前の道路で、複数の人に切りつけたという事件である。高速バスで名古屋から上京し、地下鉄の駅(たぶん本郷三丁目だろう)付近で放火をして(たいした被害とはならなかった模様)、その後、東大に向かっての犯行だったという。刺された一人は高齢者で、残り二人は受験生だった。受験することができなかった彼らに対して、どのように配慮するかは、今後の検討による。
 報道されている限りでは、名古屋の最も進学実績の高い伝統校(私立)で、二年生だった。東大の理三をめざしているが、成績が落ちて医者になれそうにないので悩んだ結果としての犯行だったことを仄めかしているそうだ。 
 これ以上のことは、大手メディアの報道ではわからないが、ネット情報を検索していくと、ますます理解が困難になっていく。

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