熊本丸刈り訴訟判決 繰りかえす歴史の茶番か

 5月30日に、熊本地裁で、丸刈り訴訟ともいうべき裁判の判決があった。
 
「部活で丸刈り強制され不登校に 元県立校男子生徒の1円損害賠償請求を棄却」と題する読売の記事は以下の通りである。
 
 「熊本県立 済々黌(せいせいこう) 高(熊本市)のソフトテニスの部活動で丸刈りを強制されるなどしてうつ状態になり、退学を余儀なくされたとして、元男子生徒が県に1円の損害賠償を求めた訴訟の判決で、熊本地裁は30日、原告側の訴えを退けた。
 同校は明治時代からの伝統校で、原告側は「バンカラな校風で知られ、『シメ』と呼ばれる強制行為で不登校になった」と主張していた。」

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出生数80万人以下の予想 教育には大きな影響

 まだ予想ではあるが、2022年の日本の出生数の予測値がでた。80万を超えているけれども、予測値より実数はたいへい少ないので、80万人を下回る可能性が高いと報道されていた。80万というのは驚きだ。
 私は団塊の世代真っ只中の生まれで、所謂団塊の世代の出生数は平均で278万人ほどになる。80万というと、30%未満ということになる。それだけの少人数で高齢者を支えるのは大変ということは、多少割り引く必要がある。現在でも団塊の世代は人口比で大きな割合を占めているが、今年生まれたひとたちが20歳になるときには、団塊の世代は90歳代の半ばに達しており、かなり死亡して、少なくなっているはずだからだ。それにしても、この少子化は、様々な面で大きな影響を与えるに違いない。

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教育学を考える 29 授業の定型化1

 先日、臨床心理学の専門家と意見交換する機会があって、心理臨床分野でも、カウカンセリングの定型化を進めるような動きがあると知った。私は、精神の問題というのは、千差万別だから、カウンセリングの基礎として、定型的な方法を学ぶことは有効だとしても、現場では柔軟さが不可欠と思っていたのだが、どうも、とにかく、統合的、定型的な手法を絶対視するひとたちも出てきているらしい。臨床心理は、私の専門ではないので、触れないことにするが、教育の世界では定型的な教え方を求めることは、昔からある。そして、定型的な教え方を可能にする技術も進歩している。そこで、授業を忠臣に定型化に関して考えてみたい。
 
 何故、定型的な教え方を、教わる側から求めるのか。それは、教師の質に対する不信感があるといえる。優れた教師に教わればいいけれども、教え方が下手だったり、教える内容そのものをあまり理解していない教師がいる。そういう「はずれ」にあたってしまったときには、がまんするしかない。今はどうかわからないが、私が子どものときにも、新学期の担任発表のあとは、あたりとか、外れとか、いいあう人たちがいた。

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すっかり変質した筑付?

 筑波大学付属高校(筑付)で、SNSが禁止されたと、ネット上で書かれている。悠仁親王関連の情報が、SNSを通じて拡散しないようにということらしい。実際に、それでもあえてツイッターに書かれた文章が、削除されたという。現在ではネット上での情報だけのようなので、真偽のほどはわからないとしても、その内週刊誌が取り上げるようになるに違いない。本当だとしたら、そこまでやるかと驚かざるをえない。また、筑付生や親がだまっているとも思えない。理由は、当然、悠仁親王に対する否定的な情報が、国民に拡散しないようにと、紀子妃が圧力をかけたということになっている。親王に関しては、作文コンクールの件は、弁護のしようがないことだろう。当人だけではなく、宮内庁、両親、そしてコンクール主催者すべてが、社会的な規範、道徳を蹂躙したことを意味している。また、予想されたことではあるが、授業内容がまったく理解できなくて、頭を机に伏せた姿勢をとっていた親王に、教師が注意をすると、汚い言葉で教師にくってかかったという情報も出ている。

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東北大学の女性限定教授募集について

 都立高校の男女別定員問題とは、大分性質が異なるが、東北大学工学部で、享受を女性限定で募集する例が話題になった。
 募集要綱は、東北大学のホームページで見ることができる。
 私は、文系の教授だったので、理系の募集形態はよくわからないが、募集要項を見る限り、厳格に決められた領域での募集ではなく、6つのグループに属する13の専攻のなかから、配属を希望する専攻を選択することになっている。つまり、13の領域にかかわって、5名の教授を募集する、そして、それは女性限定であるということだ。
 私が経験してきた大学教師の募集は、すべて、特定の領域が指定されて、募集は1名である。もちろん、別の領域の募集も同時に行われることがあるから、その場合は、その数だけの募集になるが、領域が広範囲に指定されて、そのなかから自分にあう領域を選択できるという募集様式は、私自身ははじめて目にした。理系ではそういうことがけっこうあるのかどうかわからない。だからこそ、女性限定ということを打ち出せるのだろうと思った。特定の領域を指定して、募集1名ということになると、さすがに、女性に限るというのは、コンセンサスを得にくいのではないだろうか。

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読書ノート「発達障害は学校からうまれる」井艸 恵美 東洋経済オンライン

 読書ノートというのは多少おかしいかも知れないが、東洋経済オンラインに「発達障害は学校から生まれる」という連載のレポート記事がある。まだ継続中だが、学校現場のこまっている面、また筆者によれば、弊害を生んでいる側面について、深刻な報告がなされている。
 現在第6回まで進んでいるが、最初のほうは、もっぱら発達障害児に対する投薬治療の弊害を、患者たちの取材に基づいて警告を発している。詳細は、記事を読んでもらうことにして、自分なりに考察してみたい。
 ここで書かれていることを整理すると
・子どもに対して、安易に向精神薬を使用するのは問題があり、さまざまな弊害が生じている。
・近年は、こうした子どもの発達障害に対する薬物使用が広まっており、教師の側から、親に勧める事例も多くなっている。
・こうした状況に、警告を発する医師や教師もいる。
・子どもの発達障害は増加しており、その原因は環境によるところが多い。
・発達障害に関する文科省の大がかりな調査があり、通級学級から、特別支援学級、特別支援学校への、事実上の誘導がなされている。
 以上のようなことだと解釈できる。

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教職員の懲戒 横浜の事例から2

 新聞で報道された事例2は、以下の小学校教諭である。
 まず、教育委員会の公表を見てみる。
 
教職員の懲戒処分について
所 属 小学校
当 該 者 1 教諭(男性 40代)
2 校長(男性・50代)
処 分 日 令和4年3月25日(金)
処 分 内 容 1 懲戒免職(退職手当等全額不支給)
2 減給 10 分の1 3月
事 案 概 要
当該教諭は、令和2年度に担任していた学級において、配付物を配らない、
給食を極めて少量しか盛り付けないなど、特定の複数の児童に対する差別的取
扱を行った。

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教職員の処分 横浜の事例から1

 横浜市で、小学校教師が、特定の子どもに、配布物を渡さない、給食を減らす、試験を受けさせないなどを行ったので、懲戒免職にしたという記事があり、横浜市教育委員会のホームページをみてみた。他にもいろいろな処分事由があったので、ふたつを選んで、教職員の懲戒処分について考えてみたい。
 
 まずは、ある校長に対する「戒告」処分である。
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被 処 分 者 校長(60代・男性)
概 要
当該校長は、自身の印を副校長に預けて管理させ、事務職員が発注伺に押印すること
を黙認していたほか、発注伺を確認していなかった。そのため、事務職員が口頭発注等
を行ったことに気づくことができなかった。
また、当該校長は事務職員に自身のID及びパスワードを教え、決裁事務の一部につ
いて代行させていた。

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教育の公共性・多様性・選択

 佐藤年明氏による提起のなかに、公共性に関することがあった。昨日の回答では、あまり詳しく書かなかったので、この点に絞って、再度考察したい。
 「公共性」とか「公」という概念は、かなり人によって異なる意味に使われており、どれが正しいと決めるわけにもいかない。
 実は、教育学において「公」のつく言葉は、多様な意味に使われている。
 「公教育」と「公立学校」では、「公」の意味は明らかに異なる。「公立学校」は「私立学校」に対する意味で、自治体あるいは国家が設立した学校という意味であるが、「公教育」には、公立学校も私立学校も含むから、より広い意味、「全体に関わる」というような意味になる。しかし、その「全体」にしても、文字通り「教育全体」なのか、あるいは、「家庭教育」などを除外するのか、人によってイメージが異なるに違いない。
 そこで、教育における「公共性」概念について整理をするとともに、そこにある本当の論点は何なのかを考察していきたい。 

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佐藤年明氏の批判に応える 学校選択と公共性

 昨日、コメント欄に、佐藤年明氏から、私の大日方氏の『教育』論文批判に関するコメントに疑問、批判をされた旨の知らせがあったので、早速読ませてもらい、回答しなければならないと思い、長くなるので、コメント欄ではなく、ここに書かせていただきます。批判への回答のため、「である調」ではなく、「ですます調」にします。
 佐藤氏がとりあげているのは、私がこのブログに書いた「『教育』2021年11月号を読む 教育の私事性論は、どこに弱点があったのか」についてです。
 佐藤氏の批判は以下にあります。
 最初に、私の文章に対して丁寧なコメント、批判を寄せていただいたことに感謝を申し上げます。
 
 誤解もあるかも知れませんが、佐藤氏の指摘を、以下のように整理をしてみます。
1 国民の教育権論は、自爆したという表現があるから、使命を終えたのか、再建が可能、必要だと思っているか、明らかでない。
2 「どんなに熱意のない、学級通信などまったく作成する気もない教師にあたったからといって、委託してはいないから、本当に委託したい教師に自分の子どもを任せたいといっても、聞き入れられないのだし、国民の教育権論者は、そうした意識を受けとめなかったのである。」と書いているが、国民の教育権論は、「委託したのだから」などと説明していたのか。そんな国民の教育権論者はいないのではないか。
3 大日方氏の私事の組織化から公共性が実現するという論理をどう考えるか。

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