大学での単位認定 早稲田でのトラブルを考える

 早稲田大学のある授業で、オンライン講義での単位認定において、オンデマンドビデオを一度に複数ビデオを視聴していることが判明したので、単位を落したという報道がある。
 ビデオをきちんとみることが条件で、マシンを操作して、同時に複数のビデオを流すことができるようにしていることは、きちんと見ていないことが明らかだ、だから、授業を聴講したとはいえないという理屈である。それはそれなりに筋が通っているが、例によってコメントがたくさんついていて、賛否両論だ。
 事実だとしたら確かに問題だと思われるのは、その学部の学生で、春学期にも同様なことがあったが、そのときには、注意だけで単位は認定されたのに、秋学期に急に不合格にしたのは、継続性という点で問題があるという指摘があった。もし、なんの事前の説明もなく、対応を変えたのならば、確かに是認できないというのも理解できる。

 コメントとして、講義を受講して、更に試験に合格することが、単位認定の意味なのだから、実際にはみることが不可能な状況での視聴などは、条件を満たしていないのだから、不合格で当然という意見もあるし、他方、オンデマンドのビデオは、非常にゆっくり話すので、同時でも理解可能であるという見解もある。更に、そもそも最後に一挙にみることができるようなシステムにしていることが問題だとか、あるいは、オンデマンドビデオで済ますことができるのは、教授としても、数年間使うことで、楽できるわけで、講義の質を落とすのではないか、など多様な見解が示されている。
 オンデマンドが通常に活用できるようになって、大学教育は大きく変わると思われるが、考えばならないことが、ここにたくさん含まれているといえる。
 
講義とは何か 一方通行でいいのか
 これまでの通常の講義は、学生たちを前に教授が話すものであり、そこに質疑応答もあるだろう。しかし、オンライン授業となると、これをそのままオンラインで流す形態と、予め撮影した映像を流す形態のふたつが可能になる。また、リアルタイムの講義でも、アーカイブを保存することで、事後に視聴することを可能にすることができる。
 対面授業であれば、眠っている学生がいたとしても、教授はそれを許すか、あるいはたたき起こしてでも聞かせるか、あるいは外にだす等、複数の選択肢がある。一定程度以上の出席が単位認定の条件で、居眠りのために外にだされた場合、欠席と見なすなど、講義に対する教授からの要求に対して、学生と了解が成立していれば、単位認定で問題になることはないだろう。
 しかし、オンライン授業では、確かに学生が確実に視聴したことを確認することは難しい。それでも、リアルタイムのオンライン授業であれば、出席確認をしたり、あるいは時々学生に質問したりすることは可能だが、居眠りの監視は難しいに違いない。オンデマンドでは、それもできない。
 では、授業を確かに視聴したという確認は可能なのだろうか。ただし、そのことは、単に視聴が大事なのか、視聴すすることによって、何か獲得したかを重視するかによって、対応は異なるように思う。
 そもそも、講義への出席が単位認定の条件になるというのは、大学の教育にとって不可欠のことなのだろうか。私が学生のときには、出欠をとる教授は、極めて少なかった。また、きちんと決められた授業回数をこなす教授も少なかったのは事実だ。休講は日常茶飯事だったのだから。
 もちろん、授業がきちんと行われるのは、いいことだし、必要なことだろう。しかし、教授が授業をすることと、出席している学生がきちんと聴いていること、理解していることは異なる。居眠りをせず、きちんと聴いている学生でも、理解していない学生は少なくない。
 講義とは何かを考えるとき、教授が伝えたいことを話し、学生は理解できないことを質問したり、あるいは討論する、そして、理解度を教授は確認する。このようなことが成立することが、「講義」なのではないか。
 
 私が大学勤務時代、多くの講義では、毎回授業を聞いて、課題をひとつ設定して、レポートを書かせていた。しかも、それを掲示板にアップさせた。掲示板にアップすることは、他の学生も読めるようにすることで、相互に学びあうことを可能にすることと、成績認定をオープンにするためである。更に、学生がどの程度理解したかを確認することもできた。そうしたレポートの書き込みを読んでいると、私が話したことを、まったく逆に受け取っている学生が、ときに存在していることがわかる。そういう場合に、次の講義でその誤解を解くことができるわけだ。そうした講義後のやりとりも含めて、講義は成立するのではないかと思うのである。
 同じように、オンライン授業で、かつオンデマンドであっても、期限を決めて、視聴したことを前提にしたレポートを提出させれば、視聴を確実にするだけではなく、視聴によって何かを獲得させることができる。ただし、教授にとっては、それを読まなければならないという負担が生じるのだが。もちろん、学生は、他人に書いてもらうことは可能だが、そこはぎりぎりの信頼関係を基礎にするしかないに違いない。
 今回の早稲田の場合で考えると、そうしたレポート提出はなかったようだし、また、個々のビデオの視聴期間の制限もなかったようだ。そういう意味では、学生にとっては、合法的にやったことだという意識か残るだろう。春学期に気付いたために、秋にはその対応をしたということなのだろうが、対応を変えるためには、事前の明示が必要だったと思うが、それはどうやらなかったようだ。
 
試験との関係
 通常は、講義を聞いて、試験を受けて、合格すれば単位が認定される。しかし、その組み合わせとどのような認定条件にするかは、基本的に授業担当者の裁量権があると考えられている。近年文科省の「指導」という介入が強くなり、また、世間体を考えて、条件を厳しくする傾向があるが、最終的な認定が、教授にまかされている事実にかわりはない。すると、オンライン授業、特にオンデマンド授業をする場合に、試験は十分配慮が必要となる。
 オンライン授業の場合には、たしかに授業をきちんと受けた上で、試験を受けるということが、質的には担保されない。だから、特にオンデマンドの場合には、試験のやり方に工夫が必要であろう。先述したように、試験だけではなく、期間中にレポートを何度かださせるのも工夫のひとつであるが、かなりしっかりとオンライン講義をみて、必要な勉強をしないと書けないような問題を作成することが必要だろう。それから、オンラインになると可能になるのは、提出されたレポートなり、試験の答案を、学生が読めるようにできるという点だ。これは、教育的に非常に効果がある。第一に、どのような答案がよいのかを、実際に学生が確かめることができることだ。レベルの低い答案しか書けない学生でも、模範的な答案を読むことができれば、どういうことが必要なのかを理解するきっかけになる。問題が違っていても、前年の答案を読むことでも、役に立つ。学生が、よい答案の書き方を学ぶ機会は、私がみる限りあまりないのだ。優秀な学生は、優れた書籍を読むことで自然に身につけるが、古典を読まない学生は多い。
 さらに、成績に対する不信感の払拭に有効である。授業もオンライン、試験もオンライン、突然成績が通知表として知らされる。そういうときに、なぜ自分の評価は、CあるいはDなのかと、疑問に思う学生は少なくない。もし、他人の答案と自分のを比較することができれば、納得がいくだろう。もちろん、その場合、採点がきちんと行われていることが、絶対条件であるが。
 もちろん、書いたことがオープンにされることに抵抗を示す学生は多い。私の場合、メリットを説明する一方、もちろん名前は書かず、学籍番号そのままではなく、規則によって変更させていたので、よほど親しくない限り、誰が書いたかはわからないようにしていた。要は、内容が読めること、それを参考にできることが大事なわけだ。そのような書き込みをすることに、強い抵抗を示した学生はいなかった。
 とにかく、オンライン時代になれば、これまでのやり方は、変えていく必要がたくさん出てくるだろう。オンライン講義が拡大し、日常化すると、大学教師の研究と教育のあり方にも当然影響してくると思われる。それは次回にしたい。
 
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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