ドーピング問題の本質はどこにあるか2

 今回のワリエワのドーピング問題は、まだまだ尾をひくことは確実だ。問題はいくつかの層からなりたっていると思われる。 
 第一に、ロシアという、民主的とはいいがたい国家特有の問題である。オリンピックに極めて熱心に取り組んでおり、IOCの支持を獲得している中国も同様だ。プーチンが語ったことが、示唆的だ。「スポーツは国民の団結力、愛国心を高める」とプーチンが今回の問題を念頭において、取材に応じて語っている。オリンピックを肯定する人も、また否定する人も、このことは十分に考えているだろう。肯定派は、だからスポーツを振興させよう、そのためにオリンピックは最適の機会だという。反対派は、スポーツ、そしてオリンピックがナショナリズムの高揚のために利用されると批判する。

 私は、反対派であるので、そのようにスポーツが国家によって活用されることは、危険なことだと思っている。およそ、民主主義が制度的にも、また国民の精神にも浸透している国では、そうした社会システムそのものを国民を肯定し、特に、国民の団結力や愛国心を強調しなくても、十分に国を愛しているだろうし、また、いざというときには、国を守るために立ち上がるに違いない。しかし、民主主義にほど遠く、自分たちの考えが政治に反映されていないと感じている国民は、何か外的な要素がないと、国家に対する前向きの気持ちが起きない。そこでもちだされるのが、学校教育を利用した愛国心教育や、スポーツ大会である。その典型が、オリンピックの1936年ベルリン大会だった。
 プーチンの言葉は、ロシアという国家は、スポーツで国際的威信を示さないと、国民の団結が難しいのだと、自ら告白していることなのだ。そして、そういう国家だからこそ、今回のドーピング問題なども起きる。日本でも、学校教育などが、スポーツ中心で愛校心を高めようとする動向があり、決して、他人事ではないことを肝に銘じる必要がある。
 
 第二に、こういう背景の下に、女子フィギュアスケートに固有の特質が問題を起こしやすくしている。
 フィギュアスケートには、ふたつの要素がある。ジャンプに代表されるアクロバティックな技と、芸術性である。印象的に覚えているのだが、長野オリンピックで、優勝候補といわれたミシェル・クワンをやぶって、同じアメリカ人のリピンスキーが優勝した。リピンスキーは15歳で、まさしく現在のワリエワのような体躯をしており、スピード感あふれるスケートで会場を魅了した。しかし、優雅なスケートだったクワンはたしか銅メダルだったと記憶する。このとき、まだまだ小さかった浅田真央とキムヨナは、当然この試合を見ていたわけだが、浅田はリピンスキーに憧れ、キムヨナはクワン派だったそうだ。そして、やがて出場できると思っていたトリノ大会で、ふたりとも年齢制限にかかり、出場できなかった。リピンスキーのようなスケートをめざした浅田にとって、トリノ大会こそが最大のチャンスだったのだが、それを逃して、4年後になると、既に浅田にとっては不利な状態が進み、キムヨナのほうに有利な状況になったと、私は解釈している。そして、全体として、女子に限らずフィギュアスケートは、ジャンプを重視する傾向がどんどん強まっていった。しかし、男子はともかく、女子にとっては、激しいジャンプに適合する体躯は、15,6歳までといわれている。すると、オリンピック時にその年齢である選手を徹底的に鍛え、17歳になったら事実上の引退となるような選手サイクルを設定するのが、オリンピックに勝つためにはベストとなる。そこで、小さい子どもを徹底的に鍛えることと、禁止されていようが、薬物を摂取させることで、有利に闘えるようにする。これが、ロシアのような、スポーツで国民を団結させる必要がある国家にとっては、躊躇なく採用される方針となるはずである。
 オリンピックで優勝すれば、本人だけではなく、家族に対しても、恵まれた環境が保障されるとなれば、10代前半の子どもが、大人の指導に否を唱えることなどできない。また、拒否したら、選手としての育成から外されるだけのことだ。オリンピックに代表として出場する選手は、才能ある子どもたちの中で、そうした無理ともいえる指導と、薬物摂取まで受け入れた者だといってよい。
 だから、15歳といっても、そういうことは自覚しているだろうし、その責任を逃れることはできない。しかし、国家体制や指導者こそが、加害者で、選手は被害者という側面ももっている。最大の責任は、指導層にあるといえるだろう。
 
 では、どうしたらいいのだろう。やりかたはひとつではないし、多様な見解がネットでも示されている。
1 16歳未満は保護対象であるなら、出場資格を16歳以上にする。
2 ジャンプ等のアクロバティックな要素を低め、芸術性を重視するような採点基準に改める。
3 ドーピング発覚の責任を、指導者に広げ、ドーピングを選手に許したコーチ、医師たちの資格を取り消し、彼らに指導を受けた選手の出場を認めない。
4 国家的要素をすべて排除する。国別対抗は廃止し、クラブ対抗にする。表彰は個人単位として、国旗掲揚などをしない。団体競技は、チーム構成で国籍を問わないようにする。
5 他もありうるだろう。
 
 スポーツとして、極限に挑戦することは、そのスポーツの魅力だろうから、2を徹底することはあまり賛成できない。芸術性の要素を重視することはよいとしても、高度な技術的要素を評価しない方向性はとるべきではない。3は無条件に速やかに実行すべきだろう。4は、個人的には賛成である。しかし、4に賛同する人が少ないだろうと思われることも事実だ。それなら世界選手権と同じではないかということになってしまい、オリンピックの意味がなくなる、と。私はオリンピック否定派なので、それでも構わないと思うが、ここではそれ以上踏み込まない。
 問題は、1だ。
 ここでも問題は多角的だ。
 保護対象というのならば、未成年つまり、18歳未満ではないのかという主張もありうる。しかし、本当にアクロバティックなフィギュアスケートは、15,6歳がピークなのか、それが、私にはわからない。しかし、男子は20代でも十分に挑戦している人がいるし、一般的にスポーツの競技年齢は、スポーツ科学やトレーニング方法の改善によって延びている。似た要素をもっているものに、新体操とクラシックバレエがあるが、新体操の選手寿命も非常に若くして終わる。日本ではほとんどの選手が、大学卒業後続けることはないそうだ。それはプロがないということもあるというが。それに対して、クラシックバレエは、40代でも第一線で踊っているバレリーナは少なくない。もっとも、それでもピークは30代のような気がするが。フィギュアスケートは、スケート靴をはいて、ジャンプするから身体への負担も大きいとは思うが、バレエもトゥシューズをはいて跳ぶので、負担が軽いとはいえない。そして、細い身体を維持しつつ、強靱な筋肉を鍛えなければならないという共通性がある。従って、スポーツの特性そのものが、選手寿命に関わっているというよりは、フィギュアスケートや新体操、そして、クラシックバレエがたっている社会的基礎に関係する部分のほうが大きいような気がする。
 バレエも若手を対象としたコンクールがあるが、それは出発点であって、その後本格的な活動が開始され、プロとして、更に厳しい練習をしながら、プロとして舞台にたっていく。将来プロをめざす若きアマチュアも、プロがすることは同じである。
 しかし、フィギュアスケートと新体操は、オリンピックのような大会が到達点であり、その後、プロとして生きていくのではなく、オリンピックの金メダルという勲章によって、コーチなり、体育の教師なり、また解説者としてのプロになっていく。フィギュアスケートの場合は、プロもあるが、ほとんどはショーの演技者としての活動であって、オリンピックで見せる高度な技に挑戦するようなものではなくなっていく。他方、30代のソロバレリーナは、10代のコンクールで見せた技よりは、はるかに高度なレベルに達しているのである。
 従って、当面は、1や3(3は必須だろう)で対応していくとしても、フィギュアスケートの社会的あり方、選手として長く活動でき、生活できる基盤を構築していくことが、本当の解決になるように思われる。そうすれば、身体に悪影響をあたえるドーピングなどやらなくなるのではないだろうか。才能ある人の健康を守るという意味でも、そういう改革が望まれる。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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