悠仁親王作文とワリエワドーピング問題の共通性

 筑附受験騒動が、とりあえず合格発表で、一区切りついたと思ったら、今度は作文問題だ。本当に忙しいひとたちで、メディアのネタを提供してくれているという意味で、メディアからは大いに感謝されているに違いない。ということはさておき、この問題をどのように考えるか。
 とりあえず、事実経過を整理しておくと、
 お茶の水女子大附属中学のときに書いた作文「小笠原諸島を訪ねて」が、優れていると学校が評価したということで、北九州市主催の「子どもノンフィクション文学賞」に応募し、佳作となっていた。それが、中に含まれる文章のなかに、参考文献を明示しない引用があったということで、週刊誌が暴露した。そして、異例なことに、宮内庁を通して、不十分な点があったことを認め、指摘に感謝するという回答があったというのだ。そして、コンクールの条件として、参考文献の明示等、著作権法に規定されている内容が、注意事項として明記されていたとされる。しかし、作文コンクールの主催者からは、無効にはしないという決定があったと報道されている。

 
 以上が事実経過だが、これは、いかにも北京オリンピックにおけるワリエワ・ドーピング問題の推移に似ていないだろうか。あまりに酷似しているので、笑ってしまったほどだ。
 ドーピング問題は、ロシア国内選抜で、勝ち抜いてオリンピックに出場して、団体競技で優勝したが、国内選抜大会でドーピングしていたことが、オリンピック中に明らかになった。本来オリンピック参加資格がないのだが、大人の裁定で、出場可能になったが、フリーで大失敗した。
 作文問題は、作文コンクールに出品して、佳作になったが、後に、ルール違反(著作権法違反)が明らかになったが、主催者は、参加を認めた。ここまでが事実だが、これから、もっと批判が強くなり、おそらく撤回が強く迫られるだろう。
 そして、双方の「主人公」が中学生ということだ。
 なぜ、こんなに似た状況になるのか。それは、かれらに「勝利・入選」させて、組織的な利益を獲得しようと画策している大人の仕業だということだ。ドーピングはコーチとロシア国家であり、作文は秋篠宮家である。
 
 ドーピング問題は何度か書いたので、今回は、作文をめぐる問題について考察しておこう。そして、多くのネット批判で不十分と思われることを強調しておきたい。
 まず、最大の問題は、そもそも皇族の書いた文章を、コンクールにだすということである。子どもである悠仁親王が、作文コンクールに応募したいというはずがないのだから、これは、まわりの大人が、何らかの意図をもって主動したのである。常識的に考えれば、悠仁は優秀だということを、誇示したい紀子妃がさせたことだ、と考えるのが自然だろう。憶測にすぎないが、他の可能性は考えにくい。
 ところで、作文コンクールというのは、まず、子どもが書いた文章そのものが応募されるのではない。実は、私も作文コンクールに応募して入選したことがあるが、学校の担当の先生が手を加えて応募し、そして、入選して、文集に掲載されるときに、更に主催者側の人が手を加えていたと思われる。少なくとも、私自身が書いたものより、はるかに「練れた」りっぱな文章に変わっていたことは、よく覚えている。そして、その後いろいろと経験者にきいても、そうしたことが普通に行われているのは間違いない。
 まして、親王の作文をそのまま提出するはずがない。優秀な家庭教師がついているそうだから、学校の教師だけではなく、紀子妃の主動であるとすればなおさら、家庭教師が添削して、参考文献などを紹介しつつ、書き換えていったと考えるのが、当たり前なのである。もちろん、そういう行為は、「指導」であるから、とてもいいことだ。そうした指導で、文章能力が向上すれば、指導の目的に適う。しかし、それを、作文コンクールにだすことは、まったく別の問題である。
 将来の天皇になる可能性の高い親王が、一般国民とコンクールで競争することは、私はあってはならないことだと思っている。おそらく、応募された主催者のほうも、非常にこまっただろう。入選させないわけにはいかないだろうから。
 優れた作文能力があり、実際にそうした文章を書いたのならば、皇族なのだから、いくらでも公表の手段がある。実際に愛子内親王の書いた作文が、メディアを通じて、一部流れている。しかし、コンクールにだすなどということはしていない。本当に文章が優れていれば、国民は率直に感心するだろう。コンクールにだして、入選という「賞」を獲得しようというのは、逆に考えれば、生の文章をだすことの自信のなさではないだろうかとも思う。親王が応募するからには、指導する大人は、絶対に評価されるように「加工」しなければならないし、そのことを知りつつ、主催者は、入賞させなければならない。親王の作品を落とす勇気は、おそらく、よほどの組織でなければ、ないというべきだろう。
 
 親王の文章とネタとなった文章の比較を、一応読んだが、そもそも自分で書かずに、本などから引用したということは、大学の学生の文章でも、ほとんど直ぐにわかるものだ。私もかなり悪質だと思ったレポートについては、学生を呼んで確認したことが、何度かあるが、すべての事例で「丸写し」をしたことを認めていた。それは、プロが書く文章と、学生の文章は、やはり雰囲気の違いが明瞭なのだ。まして、中学生が、プロの文章を拝借したら、直ぐにわかる。わからなければ、作文コンクールの選者になどなる資格がない。だから、この主催者の選者も、選定段階でうすうす感じていたに違いない。しかし、相手は親王なのだから、入選させざるを得ないと考えたのだろう。
 しかし、これは、明らかに条件違反である。プロならば、賠償責任を生じたり、極端には地位を失うことすらある。引用文献を明示せず、著作で利用した東大の教授が辞職せざるをえなかったという事件が、まだ私が若いころにあった。それほど重大なことなのである。
 もちろん、中学生だから、それほどおおげさにする必要はないだろうし、この機会に学習すればいいことだろう。しかし、いかに中学生でも、違反したことの責任を、その立場として負う必要がある。それは、入選の辞退である。そういう責任は、中学生でもとれるし、また、とる必要がある。筑附に進学するほどの中学生なら、その程度のモラル意識はあるはずだ。そういう責任をとることが、被害を最小にすることなのだ。
 
 ワリエワは、結局選手たちの批判すら受けたためだろう、フリーの演技では、ありえないほどのミスを連発して、みじめというほどの醜態をさらしてまった。それまでのワリエワとはまったく別人のようだった。本人から辞退するのが困難だった状況を考えれば、IOCとCASは、出場を認めないほうが、彼女のためになったろう。あのようなみじめな結果を現出させるために、あえて出場させたとしたら、それは適切な対応とはいいがたい。
 悠仁親王も、おそらく辞退する意志はあるだろう。そもそも、自分の力で書いた文章ではないし、自分の意志で応募したわけでもない作文で、賞をもらってもうれしいとは思えない。まわりの大人が、辞退に動くべきなのである。「参考になりまして、指摘ありがとう」などといって、済ましているのは、秋篠宮家と宮内庁の、トラブル対応能力が決定的に狂っている証拠だろう。辞退しないことによって、ますます騒ぎは大きくなり、ますます本人を傷つけることになる。ワリエワと同じようになる可能性が小さくはないはずである。傷口が小さいうちの対応が必要だろう。
 
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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