免許更新制度廃止の次に大事なこと

 教員の免許更新制度がなくなって、その後の研修の在り方だけではなく、大学がその分の収入がなくなることが論議されているという。
 忘れている人が多いと思うが、免許更新制度は、安倍一次内閣の置き土産のようなものだ。安倍氏は、いろいろな面で、公約を実現しなかったが、教育に関しては、かなりの「実績」をあげた。私からすれば、害のある「実績」ばかりだが。最大のものが「教育基本法」の改定であり、「道徳」の教科化だった。その他、全国学力テストの復活などもある。

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デジタル教科書に必要なこと

 2024年度から、文科省は小中の英語から、デジタル教科書を段階的に本格導入する方針を固めたそうだ。
「狙いは教育DX? デジタル教科書「本格導入」の先にあるもの」
 記事によると、デジタル教科書の導入によって、
・教育課程の在り方の見直し
・学校の役割、教職員配置や勤務の在り方の見直し
・子どもの状況に応じた多様な学びの場の確保
・教育支出の在り方の検討
が課題となるのだそうだ。これらが、本当に子どもの学習を促進するように見直されるのなら、大いにけっこうだが、そうなるのかどうかは、かなり疑問である。
 デジタル教科書の提言については、昨年6月にだされた「デジタル教科書の今後の在り方等に関する検討会議」の第一次報告によって示されている。しかし、この報告書を読む限りは、デジタル教科書とは、とうていいえないものをデジタル教科書と規定して、そこから活用方について検討がなされている。では、その規定とは何かというと
 「デジタル教科書は、平成30年の学校教育法等の一部改正等により制度化され、紙の教科書の内容の全部をそのまま記録した電磁的記録である」https://www.mext.go.jp/content/20210607-mxt_kyokasyo01-000015693_1.pdf
というのである。これでは、デジタル化されたテキストとしての意味がない。内容を紙で見るのではなく、画面で見るというに過ぎない。

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教科研『教育』を読む 小池由美子「学力崩壊を引き起こす国語新科目の迷走」

 しばらく続けていたラインによる「『教育』を読む会」を昨年廃止してしまったので、最近、あまり熱心に『教育』を読んでいなかった。そして、注目すべき文章も、私にはあまりなかったように感じていた。そして、最近は、どうも『教育』に載る文章には、疑問を感じることが多くなった。そのひとつが、10月号小池由美子氏の書いた、高校国語の新科目に対する批判の文章である。とくに、最初の見出しである「新科目における「論理」と「文学」の分断」という部分は、同意しがたいものである。この見出しに表現されているように、小池氏は、国語では、文学的文章と論理的文章を、含む国語教育がこれまでのあり方であったし、それは正しいという立場にたっている。以下の文章に小池氏の立場が鮮明に出ている。
 
 「国語で育成したい言語能力は、言語を技術的に扱うだけで育つものではない。思考力・判断力・表現力は言語をツールとして相互に絡み合って育成されていくものである。そこに介在する国語教材は論理だけ、あるいは文学だけで成り立つものではない。こうした狭隘な視野からは、言語能力を幅広く育成する観点が欠落しており、文学を語る資格もない。」

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アメリカでの教育上の対立 保守・リベラル対立図式では解決できない

 9月11日毎日新聞に「リベラルな学校教育を批判する「ママたち」急増 共和党も後押し」と題する記事が掲載された。
 コロナによるオンライン授業で、それまで見えなかった学校教育の部分が見えるようになり、あらたな親の組織による運動が発展しているという紹介記事だ。しかし、注意して読まないと、誤解をしてしまう部分が多い。
 紹介されている中心は、「マムズ・フォー・リバティMoms for Liberty」という団体だ。記事によると「人種や性に関するリベラルな教育内容を批判」していると同時に、もっとも主要な主張は「親の権利」だ。

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少年自然の家・青年の家廃止 欧米型キャンプ場に活用できないか

 8月28日の読売新聞に「中高年には懐かしい「少年自然の家」、存続の道は険しく…20年間で廃止250か所以上」という記事がでた。
 少年自然の家や青年の家は、中高年の人は、ほとんどが利用した経験があると思うが、コストや利用数、そして、建築物の老朽化等々の理由で、廃止されるところが増えているという。しかし、なかなか跡地利用が進まないとも。
 いろいろな利用形態が、現在ではあると思うが、主要には学校単位で、教師が引率する宿泊行事に活用されているのだろう。そのために、教師の負担も大きく、そのための利用の減少がある。少子化の影響もあるだろう。私も中学時代に林間学校で利用した記憶があるが、人数が私の世代の3分の1くらいになっているのだから、利用数の減少が起きるのは当然だろう。

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吉村 部活改革案は何も改善しない

 吉村大阪府知事が、部活の改革として、複数の学校でひとつの部活という案を検討するという。各種メディアで報道されているが、NHKの記事でみていこう。「大阪知事 複数の府立高校で1つの部活動運営 制度検討を指示」
 文科省は、教員の働き方改革の改善として、部活については、順次地域のクラブに移管していくことを提起している。それに対して、吉村知事は、それは、多くの財源が必要なので、絵に描いた餅ではないかとして、ひとつの学校で部活を完結させるのではなく、近隣の2校で1つの部活を運営されるような「複数校1部活制」があってもいいという意識だそうだ。記事によると、会議に出席した4人の教育委員がおおむね賛成だった。

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女子中学生の無差別殺人未遂

 私の記憶する限り、これまでまったくなかった事件だ。15歳(自称)の少女が、まったく見ず知らずの人を、渋谷という人々が多数いる場所で刺した。刺されたのは母と子ども(女子)で、今のところ生命に別状はないようだが、昨日のニュースでは、意識はあるという、かなり危険な状態であることを思われる表現をしていた。(最低3カ月の重傷ということだったが、娘のほうは腎臓にまで傷が達していたという。)
 前代未聞だと思っていたら、ヤフコメに、自分の近所で女性が刺した事件が、昨年だけで3件もあったという文章があった。報道されないだけで、実はたくさんあるのかも知れない。しかし、それにしても、未成年がこうした特に無差別の殺人未遂、殺人のような凶悪犯罪を起こすのは、ほとんどが男だったが、今では、女性でも起こす時代になったのか。

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大学における実務家教員の増加

 最近、大学の教師として、アカデミックな道を通らずに、実務をしてきた人が教授などになることが多くなってきた。文科省も推奨しているようだ。8月17日マネーポストWEBに「査読論文なしで教授職に… 大学教員たちから噴出する「実務家教員」への懸念」という記事が掲載された。
 実務家教員の負の側面を中心にまとめた記事である。私の在職したいた学部にも、実務家教員は少なくなかった。しかし、その実態は様々であり、前歴は実務でも、研究能力に優れた人もいたし、やはり、研究面は弱いと感じる人もいた。
 この記事で、実務家教員へのネガティブな評価は、
・個人的な人間関係で採用される場合が多い

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偏差値教育は間違いというが2 具体的構想

 入試を廃止するということは、どういうことだろうか。それは、高校での成績を規準に考えるということであり、また、資格試験を設定しても可能だろう。理想的には、大学に定員を設けず、規準を満たしている者はすべて入学できるようにすることである。アメリカの州立大学は、基本的にそうしたシステムになっている。州立大学は敷地が広く、キャパシティが大きいこと、そして、学部は理学部と文学部のふたつしかなく、教養大学であることが、そうしたシステムを容易にしている。アメリカでも私立大学は、独自の選抜システムを設定しているが、日本のように、一定期日に一定の場所に集めて、学力試験をすることはない。高校の成績、資格試験の成績、そして種々の提出書類によって選抜が行われる。大学入学の時点では、日本人のほうが、少なくとも以前は、学力水準が高かったが、卒業時には逆転すると言われていたのは、こうしたシステムによるところが大きい。
 ヨーロッパでは、高校の成績と全国的な資格試験を突破すれば、大学への進学が認められる国がほとんどである。ただし、大学のキャパシティによって、第二、第三志望に廻されることがあるが、大学間の格差はあまたないので、学生にとっては拘りは少ないようだ。

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偏差値教育は間違いというが1

 ダイヤモンド・オンライン(8月11日)に、「日本電産・永守会長による「日本の偏差値教育は根本的に間違い」と断言する理由」という記事がでている。要するに、日本の生徒たちは、自分のやりたいことではなく、偏差値によって入れるところを選択する進学指導を受けて、実際に自分でもそうしている。それは根本的に間違いだ。だから、本当に自分がやりたいことは何なのか、それをしっかり見つけて、進路を選択せよ、という趣旨のようだ。
 確かに、全く正しい。そして、そんなことは、ほとんどすべての日本の生徒・学生たちが、一度は思ったに違いない。偏差値が足りなくて、志望を変更せざるをえなかった生徒たちだけではなく、お前は偏差値が高いから医学部に行け、と指導されて、無理に医学部に進学した生徒などもいる。

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