小学校での背の順で並ぶことに「差別だ」という声があがって、波紋を呼んでいるという。テレビ朝日が報じている。
小学校教員の松尾英明氏が、その著書で指摘しているそうだ。テレビ朝日によれば、両論あるそうで、嫌だと思ったことはないという子どもの声と、背の順はいやだという子どもの声を紹介している。松尾氏は、「背の順」ではなく、「名簿順」を勧めている。少数が嫌な思いをしているなら、そのことに目を向けることが大事だとのこと。
なるほどと思う反面、まったく違うことを、私は考えている。そもそも、並ぶことが必要かと思うのだ。並ぶというのは、おそらく、朝礼(昼礼)などのときだと思うが、そういう儀式そのものが不要だ。昔なら、確かに校長などが語りかけるときには、朝礼のように全員を校庭に集めて話をする必要があったが、今はほぼすべての学校に、テレビシステムやネットが各教室につながっている。校長が何か全員に伝えたいことがあれば、そのシステムを活用すればよいのだ。わざわざ時間をかけて、校庭に集める必要はない。時間の無駄ではないか。
以前は、校庭に並ぶための行進などが重視され、整然と歩く訓練の時間だったようだが、それは、軍事教練の名残りであって、実用的には、まったく無意味だ。現在でも、こうした整然とした行進が、表だって実施されているのは、軍隊のパレードや、スポーツ大会の開会式などだけだ。そういう練習を義務教育でやる必要などない。
学校でどうしても並ぶ必要があるといえば、入学式や卒業式がある。これらは、名簿順にならんでいるはずである。だから、並ぶならば名簿順というのは、合理性があるだろうが、やはり、日常的には、並ぶ機会そのものをなくしていくのが、無駄を省くという点で重要だ。
差別と絡めて、逆に違反されるのに、「競争はよくないので、徒競走では一緒にゴールイン」というのがある。こんな似非平等主義はよくない、と非難されるわけだ。かなり長い年月大学の教師をして、教師教育に携わってきたので、頻繁にこのことは学生に質問した。つまり、そういうことを自分で、あるいは友人が経験したことがあるか、ということを。そして、そうした一緒にゴールというようなことを経験した人は、一人もいなかった。この数十年間、日本のどこでも実施されたことがないとは断言できないが、たまたまそういうことがあって、それが拡散し、おおげさに拡散した情報が、一定程度行われているかのように受け取られているのではないかと思うのである。そもそも一緒にゴールなどという、あきらかにおかしなことをするくらはいなら、徒競走そのものをやめようということになるのではないだろうか。実際に、徒競走を運動会の種目にしていない学校も少なくない。
この点についても、更に、運動会そのものが不要だと思っている。義務教育は、すべての国民にとって必要なことを教える場でなければならない。体育については、すべての国民にとって必要なことは、健全な身体機能の育成であって、それは競争的スポーツではない。競争的なスポーツは、好き嫌いも含めて、当然個人差がある。無理に全員に特定のスポーツをさせるのは、たくさんのスポーツ嫌いを生んでしまうことになる。競争的なスポーツは、地域のクラブから、自分のやりたいものを選んで参加するのが、もっとも合理的である。
ところが、小中学校の体育では、たくさんの競争的スポーツが取り入れられて、得意なものにはよいが、苦手な者は、スポーツ自体を嫌いになっていくことが少なくない。私はスポーツが好きだし、スポーツは極限的な挑戦として、盛んになるべきだと思うが、それは嫌いな者に強制することであってはならない。そのためにも、学校の部活などではなく、地域のスポーツクラブが基本形になる必要がある。
また、あるやり方が差別だという声があがるようなことは、そのことそのものが不要である場合が多いように思われる。
テレビ朝日の記事