アメリカでの教育上の対立 保守・リベラル対立図式では解決できない

 9月11日毎日新聞に「リベラルな学校教育を批判する「ママたち」急増 共和党も後押し」と題する記事が掲載された。
 コロナによるオンライン授業で、それまで見えなかった学校教育の部分が見えるようになり、あらたな親の組織による運動が発展しているという紹介記事だ。しかし、注意して読まないと、誤解をしてしまう部分が多い。
 紹介されている中心は、「マムズ・フォー・リバティMoms for Liberty」という団体だ。記事によると「人種や性に関するリベラルな教育内容を批判」していると同時に、もっとも主要な主張は「親の権利」だ。

 
 注意しなければならないのは、ここで、「親の権利」を主張することが「保守」とされ、大きく問題になったマスクの義務化を主張するほうがリベラルとされていることだ。アメリカでの、一般的な分類は確かにその通りだが、日本での保守とリベラルの用語のもつイメージとはかなり異なる。日本では、「親の権利」を重視するのが、リベラルであり、マスクの義務化は、そもそも政治的争点にならない。日本では、国や行政当局が、マスクの義務化を国民に課したことはない。店の入店等に、店が客に求めることはあっても、国としてのルールにはなっていない。せいぜい推奨程度である。アメリカでは、民主党が義務化を進め、共和党が反対するという図式がある。民主党は、リベラル政党であり、共和党は保守だから、マスクの義務化がリベラルであり、親の自由にせよというのが、保守と認識されている。
 だが、アメリカでの使用法に、日本人は違和感を感じるだろう。何故「義務化」がリベラルで、自由が保守なのか。自由とはリベラルのことなのではないのか。
 しかし、確かに「保守」と「リベラル」にふさわしい対立もある。文化戦争的要素としての「批判的人種理論」と性的少数者(LGBT)への教育に関する対立である。批判的人種理論とは、人種差別は個人的な問題を超えて、社会的な構造をもっているという社会学的調査を踏まえた理論だが、更に保守派は、「白人は加害者で、マイノリティが被害者」という議論で、白人はむしろ被害者だ、という論に傾けた解釈をして、論全体を否定する。アファーマティブ・アクションで、優秀な白人が排除されているという事例をもちだすわけだ。性的少数者の権利を過大に認めることは、モラルの崩壊になると保守派は反対だが、リベラルは賛成する。この点では、日本での対立と似ている。保守は、嫌韓・反中だが、リベラルは、外国人の権利擁護派が多い。そして、選択的夫婦別姓にしても、LGBTにしても、保守は反対し、リベラルは賛成が強い。
 
 このように、保守とリベラルは、決して固定的な対立図式が成立するのではなく、領域によって錯綜したり、逆転したりする。そして、より重要なことは、教育をめぐっては、こうした政治的対立は、あまり重要ではない。というより、そうした対立に囚われるべきではないという点だ。
 この記事でも、州内の学校で銃乱射事件が起きたとき、学校職員の銃携帯をめぐって、教育委員会で激論がなされたが、「武装した警備員の配置」という妥協案で一致したという。「子どもを第一に考えて協調できている」と、当時教育委員であり、マムズ・フォー・リバティの創設に加わった女性が語っている。
 
 思い出すのは、私が大学の教育行政学科に進学したとき、五十嵐顕教授が、公選制教育委員会の現地調査をしたときの話をしてくれた内容だ。公選制教育委員会制度は、政治的対立が強調され、結局廃止に追い込まれたのだが、実際の教育委員は、政治的立場を超えて、学校教育改善のために、協調していたというのだ。子どもの教育の改善に、自民党も社会党もない。よりよい教育条件を求めるのは、みな同じだということだ。当たり前のことだが、政治が持ち込まれると、対立が前に出てきてしまう。
 
 では、子どものことを考えれば、かならず一致点が見つかるのかといえば、そうではない。この記事では、マスクの義務化をめぐって、決して妥協できない対立が生じたことを紹介している。コロナ禍で、極端に精神的に不安定になり、潔癖症になった子どもが、マスクを義務化されたらどうなるかわからないということで、マスクが自由な私立学校に転校させた親がいる。また、耳の不自由な子どもの親は、マスクをすると読唇術がつかえず、娘がこまると懸念していた親もいる。些細なように見えることでも、妥協が難しいことでもある。マスクを自由にしたら、感染させたら責任をとってくれるのか、という親の立場もあるだろう。
 教育のどのような領域を重視するか(道徳、理数、芸術等々)、どのような方法・組織形態で教えるか(個別指導、複式学級、コンピューター)、生活領域の自由・統制(制服、部活)等々、親や子どもが望む形は多様である。それは決して政治的対立ではない。対立を煽って政治問題化されることはあるが、本来は、教育に求めるものが、人によって異なるということだ。従って、この解決のためには、教育に多様性を認めるかどうかであって、社会が複雑化し、多様な職業形態になっていけば、教育もおのずから多様なあり方を認める必要がある。そして、自分の求める形の教育を選択できることが、万能ではないが、ベストな道だろう。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です