再論 学校教育から何を削るか9 生徒会1

 
 民主主義社会の担い手として、子どもを成長させることは、非常に重要である。そして、そのためには、子ども自身の組織があり、民主主義的な運営がなされ、そして、権限をもって活動できることが不可欠であろう。しかし、残念ながら、日本の学校教育には、そうした子どもの組織は存在しない。あるのは、児童会や生徒会であり、それらは、決して民主主義的な組織ではない。だから、生徒会は不要といえる。もちろん、それに代わる組織が必要であるが。生徒会で十分ではないかと思っている人には、ぜひ、アメリカのサドベリバレイ校を知ってしほしい。
 
 サドベリバレエ校では、校則や処分を決めるためには、全校集会の決定が必要である。そして、全校集会は、4歳の子どもから大人のスタッフまで全員が出席する権利があり、そこでの一票は平等である。NHKの番組では、盗みがあった件について、司法委員会で議論している場面が写されていたが、スタッフの発言に対して小さな子どもが堂々と反論していたことが印象的である。そして、極めて筋が通っていた。もちろん、日本の通常の学校でそのようなシステムを取り入れることはできないだろうが、子どもの判断力は、大人が考えるよりもずっと高いのではないだろうか。

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再論 学校教育から何を削るか8 集団的宿泊行事

 教師の過剰労働には、日常的なものと、年に一度の行事とがある。行事は単にその当日だけではなく、実行のための準備期間が必要だ。おそらく準備期間が大変なのが運動会であり、当日事故なく行うのが大変なのが集団的宿泊行事であろう。集団的宿泊行事の仕事を、教師に強制することは、極めて過酷であるだけではなく、不当な内容を含んでいるといわざるをえない。従って、集団的宿泊行事は廃止されるべきである。
 
 学習指導要領には、特別活動の学校行事の項目で、「遠足・集団宿泊的行事」が明記されている。

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指導死を考える2

 前回は、子どものための対策を考えたが、今回は、教師のための対策と制度的対策を考えることにする。
 教師は指導死の加害者であり、「教師のための」というのはおかしいのではないか、という感情もあるだろうが、いじめ問題の解決のためには、加害者のケアも必要であるように、指導死における教師のケア、特に指導死に至るような指導をしないで済む対策が必要である。
 指導死をもたらすような指導を教師がしている場合、それは大きくふたつの要因が考えられる。
 第一は、そもそも間違った指導観、厳しくすることが効果をあげる、いっても聞かない生徒は、力をもってわからせる必要がある、ミスをしたら徹底的に反復練習をさせる、等々の感覚をもっていることである。
 第二には、そうした間違った指導観をもっていなくても、疲労などでいらいらしてしまい、感情的な指導になってしまう場合である。

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指導死を考える1

 教師による指導死が問題になっている。指導死とは、教師の不適切な指導によって、生徒が自殺してしまうことであるが、実際にどの程度の指導死が起きているかは、厳密にはわからない。ウィキペディアには、知られた指導死の事例が出ているが、文科省の統計には、項目として存在しないだけではなく、文科省のホームページで「指導死」で検索すると2件ヒットするのみである。
 ひとつは、「いじめ防止対策協議会(平成27年度)(第1回)議事要旨」での小森美登里氏の発話のなかに一回出てくるだけで、委員による反応はない。
 小森氏は、指導死は広い意味でいじめ事件であると認識しているのに対して、委員たち、そして文科省は、いじめのなかに含めていない。そのことは、次の文章で明確である。
 山田太郎という人のブログに以下のような記述がある。
 
「教員による「指導死」は調査に含まれない!?こども庁には、現場の調査機能が必要!」
「”バレーボールの授業中にAさん(小4)が誤ってボールを頭で受けてしまい、兼ねてから仲が悪かった女性担任から「ふざけるなら、やらんでもいい」と怒られました。以降、不登校になり、通学路を見るだけで吐き気に襲われるようになりました。

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宮台真司氏が襲われる

 都立大学教授の宮台真司氏が、大学構内の歩道で襲われたと報道されている。まず頭を殴られ、そして、首の周囲を数回切りつけられたという。首の周囲を切ろうとするというのは、殺意を感じる。4時半頃というのだから、おそらく、まわりに人がけっこういたのではないかと思うのだが、都立大学のキャンパスは行ったことがないので、もしかしたら、ほとんど人目につかない場所があるのかも知れない。目撃者はいなかったのだろうか。それにしても、大学のキャンパス内の歩道で、殺人未遂のような行為が実行されたというのは、かなり衝撃的である。日本もアメリカに近づきつつあるのだろうか。

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再論 学校教育から何を削るか7 部活

 部活 教育実習の研究授業を参観に行ったとき、元校長だったという人が教育委員会から派遣されていて、一緒に授業を見たのだが、帰るときに、駅まで車で送るというので、車に乗せてもらったことがある。教育学者である私の意見を聞きたいことがあったようなのだ。車が発車するとすぐ、「部活についてどう思いますか?」と聞いてきた。私は、相手が元校長だというので、率直に持論を述べた。「部活は、以前は意味があったと思うが、今では制度疲労を起こしている。学校教育としてはやめて、社会教育に移すべきであると思う」といった。すると、その元校長は、自分が校長時代、部活の顧問を見つけるのにいかに苦労したかを縷々述べ、部活がなくなってほしいというのだ。正直、校長がそう思っているというのは予想外だったので、少々驚いたが、同志をえたと思われたのか、話がはずんだ。
 部活は時代遅れである、現代に合わないと本心そう思っている。だから、ぜひとも部活は学校教育から除くべきである。

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再論 学校教育から何を削るか6 通知表2

 通知表を作成するのが、教師にとって大きな負担であることを、さすがの文科省も認識したようで、中教審にその対策を審議させた。そして、答申は次のように提言している。読者もぜひこの文章について、自分なりの評価をもってほしい。
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 学校教育法施行規則により作成が義務付けられている指導要録については,観点別に学習評価を実施することが現行制度上求められており,これに伴う定期テストの問題作成・採点,通知表・調査書・指導要録の作成等の学習評価,それに伴う成績処理については教師が行うべき業務である。
 一方,これに関する業務のうち,宿題等の提出状況の確認,簡単なドリルの丸付けなどの補助的業務は,教師との連携の上で,単なるボランティアではないスクール・サポート・スタッフ等を積極的に参画させるべきである。また,教育委員会は,この点に限らず,業務の効率化や事務作業の負担軽減のため,ICT を活用する環境の器の更新を図るべきである。

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帝京大学でのゼミ選抜で性差別? 呆れた教授の行為

 帝京大学で呆れた事件が起きた。
 帝京大学のある教授がゼミ生を募集し、ある男子学生がメールで応募したところ、名前が女性を思わせるものだったので、「女子は採用」という返事をだし、それに対して、学生が男性であることを知らせ、話し合いがもたれたが、学生が録音し、ネットで公表したということで、明るみに出たものである。実に憂鬱な事件だ。
 
「「あんたが女だと思ったから…」帝京大教授、男子学生に性差別的発言か 大学側「ゼミ募集を中止して調査」」
 大学としては直ちに、当該ゼミの募集を停止したという。既に受け入れが決まっている学生はどうなるのだろう。ゼミそのものが中止されるのか。講義はどうなるのか。まだこれから動きがあるのだろう。

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再論 学校教育から何を削るか5 授業をしない管理職

 学校のなかでは、教師の最も重要な授業以外の、実に様々な業務が行われており、そのための人員が配置されている。教師の過重労働を解決するためには、教育活動に役に立つ仕事以外は、削っていくことが必要である。そして、仕事を削れば、人員も不要である。ただし、ここでいう人員の削減は、文字通りの教員数を減らすことではない。教員のなかには、授業を行っていない人が多数存在している。そうした教員は、皆管理職の位置づけをされている。私のいう削減とは、管理職ではなく、通常の教員に戻し、授業を行う教員にするということである。
 文部省の統計をみておこう。授業をしているかどうかき統計を探したのだが、見つけることができなかったので、小学校で担任をもっているかどうかの統計を参考にする。小学校には、授業をしているが担任をもっていない教師は存在するが、わずかであるので、だいたいの傾向はわかる。公立小学校の数値でみてみる。

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再論 学校教育から何を削るか4 通知表1

 教育と評価はコインの表裏の関係である。教育のプロセスには、必ず評価が背後にある。従って、教師は高い評価能力をもっていなければならない。そうした日常的な評価を集約するための評価が、制度的には指導要録であり、保護者に集約された評価(=成績)を伝達するのが通知表である。
 通知表は、保護者に対する連絡簿で、作成は法的には義務ではない。ここが誤解されていることが多い。実際に通知表をださない学校も、稀だがある。義務ではないのだから、様式も回数も学校で決めることができる。
 私自身も、成績などださなくてよいなら、本当に授業がやりやすいのだがと思っていた。小中学校の教師にとって、通知表の記入は本当に負担の大きい作業だろう。文部科学省は、特に負担の多い「文章」で書く部分を、単純な書き方にするなどという「軽減策」を打ち出しているが、それこそ「焼け石に水」だろう。
 何故、学校教育から削る対象にあげるかといえば、教育的評価のためには、通知表は不可欠のものではないこと、通知表があることによって、かえって教育実践を歪めてしまう恐れがあること、そして、通知表記入が、教師にとって大きな負担であること等による。

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