久しぶりに「鬼平犯科帳」ネタだ。
前からずっと気になって書こうと思っていたことがある。それは、平蔵の友人である武士が、盗人や殺し屋になってしまい、ある程度後悔して立ち直ったとき、平蔵がどのように処遇しているかということだ。
町人や農民の出の盗人たちの場合、殺人などを犯しておらず、それなりに人間としてしっかりしている場合は、許して密偵として使っている。しかし武士の場合はそう単純ではない。こうした例はいくつかある。
まず、「乞食坊主」に出てくる、「菅野伊介」である。乞食のような生活をしている井関録之介に、いきなり切りつけてくる。盗みの相談をしていたところを聞かれてしまった盗人が、殺害を依頼し、それが菅野にまかされたわけである。しかし、菅野と井関はともに長谷川平蔵と同門の剣術仲間であった。井関は、盗み聞いた盗人たちの情報を知らせる代わりに、平蔵に菅野の助命を懇願する。平蔵は返事をしないまま、この盗人たちがかたづいたら、あって話しをしようということになっているが、菅野は結局、自害してしまう。
「泥鰌の和助始末」では、かつて平蔵の道場の高弟分だった松岡重兵衛が、盗人一味として活動していたが、久しぶりに盗みの手伝いをするのだが、そこで一味にだまされてしまう。平蔵が若く一緒に道場で学んでいたとき、たまたま盗みの手伝いに誘われて加わろうとしたとき、その一味だった松岡に殴られて、済んでのところで、盗みの加担をせずにすんだという恩義を感じているので、なんとか松岡を救おうとするのだが、一味の裏切りで松岡は殺されてしまう。
「高杉道場・三羽烏」では、昔岸井左馬之助と三羽烏といわれた長沼又兵衛が、盗賊の首領となっており、結局、盗みに入る寺を予め知った平蔵が、寺の一室を借りて住み込み、当日は長沼と切り合いになって打ち倒す。
「殺しの波紋」では、火付盗賊改方与力の富田達五郎が、ある武士に難癖をつけられたため喧嘩になり、結局切り合いにってきってしまうのだが、それをある盗賊にみられてその後脅迫され、盗みの手伝いをさせられる。その盗賊を密かに殺害するのだが、それを別の盗賊にみられてしまって、大金を要求され、大金をえるために辻斬りを始めてしまい、それを察知した平蔵が逮捕しようとすると、抵抗されるので平蔵が切り殺してしまう。
「霜夜」では、やはり高杉道場の同門だった池田又四郎が、偶然料理屋のとなりの部屋に入ってくるのだが、話しかけず、あとを追いかけると、不振な行動をとっている。しかしそのまま帰宅すると、又四郎からの手紙があり、翌日の時間と場所を指定してあいたいという。又四郎は、盗賊の一味となっており、一味をはずれた女盗賊の殺害を命じられているのだが、それを躊躇していて平蔵に相談したかったのである。ところが平蔵不在で、殺害を促しにくる仲間を切り捨てて、自分も重傷を負いながら、平蔵に会いに来るのだが、息をひきとる。
以上が、明確に平蔵の剣術の同僚だった者や部下が、犯罪に走ったあと、平蔵と関わりをもって、生き残った者は一人もいないという設定になっている。平蔵に歯向かったために、平蔵に切り殺された富田達五郎や長沼又兵衛は当然として、他の者も、自害、仲間に殺されるというように、町人の盗人で密偵に取り立てられたような者はいない。唯一、菅野は、どうするか未定のまま自害してしまう。小説ではない場面だが、テレビドラマでは、自害の知らせをうけて、井関が、平蔵に、「あなたは、菅野がああなることを知っていたんですね」と詰め寄る場面がある。平蔵は何も答えずドラマが終了していた。こうした同門だった武士への対応を、池上正太郎自身、「乞食坊主」でいろいろと考えたのだろう。しかし、町民の盗人のなかには、本来まじめな人間なのだが、境遇の悲惨さによって、盗みに追いやられたような人がおり、彼らは、まともな役割を与えれば、役にたつという判断があったのだろうが、武士の場合には、いくら貧乏な侍だったとしても、支配する側にたつ人間であるから、境遇によってやむなく悪事に走るなどということはなく、自らの意志を介してのことだという判断をしたのだろう。菅野を救おうとした井関は、やはり、生きる道もなくなった時点で、悪事に走る可能性もあったが、乞食をしてでも、そのように落ちることをしなかった。そういう人物を対角においたことが、上に立つ者には厳しく、という原則を、作者は示したのだと考えられる。「人は良いことをしつつ、悪事をする」という考えを武士にはあてはめなかったということになるだろうか。