日本で評論家に無視された指揮者1 ラインスドルフ

 評論家がどの程度、一般の人たちに影響を与えるのかはわからないが、評論家がこぞって、同じような見解を述べていれば、それなりの影響を与えるに違いない。音楽、レコード業界でもそうした現象がいくつかあった。カラヤンですら、若いころは、(後々まで影響を受けた人もいるようだが)評論家たちの多くにけなされ、低くみられていた。日本のクラシックの音楽評論家たちは、フルトヴェングラー信者が多かったので、カラヤンは「精神性がない」といって、邪道扱いされていたのである。
 それでも、カラヤンはヨーロッパにおける楽団の帝王だから、日本でもファンは多かったし、そうした評論家に影響されない人たちもたくさんいた。しかし、なかには、評論家たちにほとんど無視、ないし低評価を継続的に受けていたおかげで、実力が極めて高いのに、日本では人気があまりでなかった人たちがいる。そういう何人かを、時々とりあげていきたい。
 最初に取り上げたいのがエーリッヒ・ラインスドルフである。

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アバドのカルメン

 アバドが最初にオーケストラの常任指揮者になったロンドン交響楽団の録音を集めたボックスを購入して、最初にカルメンを聴いた。実はアバドのオペラボックスにも入っているので、それを聴いているのだが、よかった印象なので再度聴きなおしてみたのだ。
 私がはじめてレコードで聴いたオペラが、カラヤン指揮のカルメンだった。今の人たちには想像もつかないだろうが、そのレコードにはボーカルスコアがついていた。そのころは、楽譜がついたレコードはけっこうあったものだ。そのボーカルスコアを懸命にみながら、何度も聴いたものだ。いまでも、カルメンの代表的録音だと思う。しかし、その後はCD時代になっても、カラヤンのウィーン・フィルのカルメンはなかなかCD化されず、SACDで出たが非常に高かったので敬遠。数年前にやって、レオタイン・プライスのオペラボックスに入っていたので、本当に久しぶりに聴いた。今はこういうどっしりしたカルメンはやらないだろうが、やはり、このオペラの情熱の放出ぶりはすごい。

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バーンスタインの『トリスタンとイゾルデ』

 バーンスタインの『トリスタンとイゾルデ』のブルーレイ・ディスクをやっと聴き終えた。前に書いたブルゴスのベートーヴェン交響曲全集と一緒に購入し、ブルゴスはすぐに聴いたのだが、こちらは、かなり間をおいて、一幕ずつ聴いてきた。なにしろワーグナーものは、時間がないと聴くのが難しいし、やはり決意がいる。ヴェルディなら気軽に聴けるが。
 もうひとつ躊躇の理由として、かなり以前になるが、最初にCDが発売されたときに、トリスタンのペーター・ホフマンが、この録音に対して、かなり悪口を述べているインタビュー記事があったのだ。この録音は、ほんとうに嫌だった、しかし、カラヤンとの『パルジファル』は、とても楽しかったし、充実していたというような内容だった。そのために、CDを買う意欲は起きなかったのだが、BLが発売され、しかも在庫整理ということで、かなり安かったので購入したわけだ。

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20世紀最高のコロラトゥーラ グルベローバが亡くなった

 10月18日にグルベローバが亡くなったと報道された。数年前に引退公演があったから、既に現役ではなかったが、近年としてはずいぶん早い死ではないか。もっとも、グルベローバの先輩格のようなルチア・ポップは50代で亡くなっている。
 グルベローバは、なんといっても、20世紀最大のコロラトゥーラであったと思う。コロラトゥーラの歌手は、若いころにコロラトゥーラの曲を歌うが、年齢とともに声が太くなっていくので、40歳くらいまでには歌わなくなる。そして、ルッジェロかリリコ・スピントの役を歌うようになっていく。ポップはそうだった。しかし、グルベローバは60代までコロラトゥーラの役を中心に歌っていたのが、極めて例外的だった。他には、サザーランドくらいしかいないのではないか。ふたりとも、ベルカントオペラの大家であったから、声の質を保持したのだろう。 “20世紀最高のコロラトゥーラ グルベローバが亡くなった” の続きを読む

リヒャルト・シュトラウスのオペラ集

 私の年代には、非常に珍しかったと思うが、私は小学生のときから、オペラファンだった。実際にオペラを生で見たのは、大学生になってからだったが、それでも、レコードを毎年買っていた。そして、現在までずいぶんオペラを視聴してきたが、好きなオペラ作曲家はモーツァルトとヴェルディだ。ワーグナーとリヒャルト・シュトラウスは、偉大だと思うが、聴きたいと思うのは、一部になってしまう。特に両者とも、後年の作品は楽しめない。20世紀になって、大衆的に親しまれているオペラといえは、非常に限られていて、リヒャルト・シュトラウスの「バラの騎士」が最後なのではないかと、長年思っていた。すると、岡田暁生『オペラの終焉』という本が、まさしくそうした主張を詳しく書いた本として現れて、同じようなことを考えている人がやはりいるのだと、心を強くしたものだ。もちろん、名曲とされるオペラがないではない。「ヴォツェック」のような名曲という評価が確定している作品もあるが、大衆的に愛されているかというと、多分に疑問だ。この場合、大衆的に愛されているというのは、多くの人がそのオペラの中のメロディーを口ずさむというような意味だ。「ヴォツェック」を繰り返し聴いたわけではないからかも知れないが、私は、ここに出てくる音楽を口ずさむ気になるようなメロディーを見いだしていない。

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サロメ(オペラ)上演の難しさ 3つの要素

 イギリス、ロイヤル・オペラの「サロメ」を視聴した。フィリップ・ジョルダン指揮、ナディア・ミヒャエルのサロメだ。「サロメ」は、リヒャルト・シュトラウスの最初のヒットオペラで、現在でもかなり刺激的な内容、上演が非常に困難なものだ。カラヤンの極めて優れた録音があるが、これは、ベーレンスという、ついにカラヤンが発見した(といっても、ある人がカラヤンに伝えたということのようだが)歌手の出現によって可能になったものだ。クライバーの場合には、「サロメ」はやらないのかと質問されたとき、サロメ歌手がいればやると、と答えたという。だが、ついにやっていない。

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フォン・オッターのカルメン

 ずいぶん前に購入したが、視聴していなかったフォン・オッターの「カルメン」を全曲視聴した。きっかけは、オッターのカルメンではなく、指揮のフィリップ・ジョルダンが指揮をしていることに気づいたからだ。ジョルダンは、ウェルザー・メストが退任して以降、しばらく空席だったウィーン国立歌劇場の音楽監督に昨年からなった人である。例にもれず、コロナ禍に見舞われて、まだ十分に活動しきれていないと思われるが、今後活躍してほしい人だ。youtubeで、マーラーの1番の日本公演の映像をみて、ずいぶん細かな表情付けをする人だと思ったが、なかなかよかったので、このカルメンを見る気になったわけだ。

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ミレルラ・フレーニを偲んで

 コロナ騒動とか、自分自身の退職時期と重なったためか、ミレルラ・フレーニが亡くなっていたことを、ごく最近知った。フレーニは、もっとも好きなソプラノ歌手だった。フレーニが得意とするオペラが、もっとも好きなオペラに入っていたからともいえる。とにかく、亡くなったことを知ったので、フレーニについて少し書いてみたい。
 フレーニは生で実際に聴いたことがある。ミラノスカラ座がアバドに率いられて来日公演を行ったときだ。アバド指揮による「シモン・ボッカネグラ」でのマリアと、クライバー指揮による「ボエーム」のミミだ。どちらも、超がつく名演だったが、聴いた席によって、声の質がまったく違うように聞こえたことが印象に残っている。シモン・ボッカネグラのときには、席を一階の後方で、レコードで聴く声と似ていて、ああフレーニだと思ったの他が、ボエームではずっと前のほうで、ずっと丸くふくよかな響きだった。「私の名はミミ」などは、本当に感動的な歌唱だった。

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ネトレプコの「ボエーム」ザルツブルグ音楽祭

 ネトレプコがミミを歌ったザルツブルグ音楽祭のライブがあると知って、なんとか見たいと思い、テレビからの録画をたくさんしているオケの友人が持っているというので、早速借りて視聴した。素晴らしかった。少なくとも演奏に関しては。しかし、カラヤン亡き後のザルツブルグ音楽祭は、好みはあるだろうが、すっかり変わってしまって、私には馴染めない演出が多いし、これもその例にもれない。

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ボエームのCD カラヤンは何故ベルリンフィルを使ったのか

 プッチーニの傑作ボエームは、トロバトーレと異なって、ドラマに無理がなく、よくあるパターンの物語である。貧しい恋人の一方が(たいてい女性だが)、不治の病にかかり、死んでしまう。オペラでは椿姫もそうだ。だから、特別にドラマの進展としては面白くないが、出会いの場面の演出や、友人たちの絡み具合に、このボエームの面白さがある。先日映画版を見直して、改めてこの曲の魅力を再認識した。映画は、ネトレプコのミミ、ヴィラゾンのロドルフォで、指揮はド・ビリー。オペラ映画が制作されるのは、近年では珍しいが、やはり、ネトレプコという、歌手として優れているだけではなく、女優としても十分に通用する美人ソプラノが現れたので、実現したのだろう。出産後、いかにもオペラのプリマドンナという風格になってしまったが、この時期の彼女はまだまだ映画女優として主演が可能な雰囲気をもっていた。声もミミに相応しく細いが、強い声をもっていた。この映画は実際に映画館で見たのだが、今回見直したのは、クラシカジャパンで放映されたものを録画したものだ。

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