ウィーン・フィルの魅力?(続き)

 11月9日に、youtubeのウィーンフィルの魅力解説に関連して、ウィーンフィルについて書いたが、どうも書き足りない感があるので、補足しておきたい。
 もっとも好きなオーケストラのアンケートをとると、ほとんどの場合、日本では、ウィーンフィルが一位か二位になる。何故かは、私にもよくわからないが、おそらく、年配の音楽ファンにとって、オーケストラ曲の多くはウィーンフィルの録音だったし、特に早くからステレオ録音の力をいれ、独特のサウンドの魅力をウィーンフィルから引き出したデッカの功績が大きいのかも知れない。ウィーンのゾフィエンザールでデッカが録音したウィーンフィルの音が、本当にあのように響くのかは、長年疑問に思っているのだが、確認する術もないので、ああいう音がすればいいなという憧れを生じさせたことは間違いない。とにかく、弦が艶やかに響き、管楽器と弦楽器の融合が素敵なのだ。サトリーホールやNHKホール、東京文化会館で聴いたウィーンフィルの音は、あのようなものではなかったのだが。やはり、人生で一度はウィーン楽友協会ホールでウィーンフィルを聴いてみたいものだ。

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ウィーン・フィルは最高峰のオーケストラ?

 「厳選クラシックチャンネル」というyoutubeサイトが、「【徹底解剖】ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の魅力がわかる 世界最高峰の楽団の歴史や特徴を解説」https://www.youtube.com/watch?v=hOffU69BzSk
という番組を提供していた。非常に若い女性が解説しているのだが、説明がえらく古めかしい感じがしたので、感想を含めて、ウィーン・フィルについての個人的な見解を述べたい。
 
 ウィーン・フィルの魅力を、楽器がすべて楽団所有であって、基本ウィーンで制作されており、ウィーン・フィル独特の音を、楽友協会のホールとあいまって作り上げていること、以前はオーストリア人男性、ウィーン音楽院の卒業生に限っていたことでわかるように、共通の音楽スタイルをもっていること(もちろん、現在では、女性も外国人もいる。おそらく、ウィーン音楽院の卒業生に限定もしていないと思われる。)、オペラ劇場のオーケストラが母体であること、室内楽なども盛んであること、などによる、楽員同士の緊密で柔軟なアンサンブルなどが指摘されていた。解説者は、今来日しているウィーン・フィルの演奏会に行ってきたようで、感激したと語っていた。

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ハイティンク逝去、安心して聴ける指揮者だが

 昨日グルベローバの逝去について書いたのに、またまたベルナルト・テイティンクが亡くなったという記事があった。21世紀に生き残った巨匠であるから、やはり書かざるをえない。
 率直なところ、私はハイティンクのファンでもなかったし、熱心な聴き手でもなかった。もっているCDも少ない。カラヤンやワルターの正規盤はほとんどもっているのに比較すると、無視してきたともいえるかも知れない。しかし、ハイティンクが極めて優れた指揮者であり、巨匠であったことは疑っていない。 “ハイティンク逝去、安心して聴ける指揮者だが” の続きを読む

20世紀最高のコロラトゥーラ グルベローバが亡くなった

 10月18日にグルベローバが亡くなったと報道された。数年前に引退公演があったから、既に現役ではなかったが、近年としてはずいぶん早い死ではないか。もっとも、グルベローバの先輩格のようなルチア・ポップは50代で亡くなっている。
 グルベローバは、なんといっても、20世紀最大のコロラトゥーラであったと思う。コロラトゥーラの歌手は、若いころにコロラトゥーラの曲を歌うが、年齢とともに声が太くなっていくので、40歳くらいまでには歌わなくなる。そして、ルッジェロかリリコ・スピントの役を歌うようになっていく。ポップはそうだった。しかし、グルベローバは60代までコロラトゥーラの役を中心に歌っていたのが、極めて例外的だった。他には、サザーランドくらいしかいないのではないか。ふたりとも、ベルカントオペラの大家であったから、声の質を保持したのだろう。 “20世紀最高のコロラトゥーラ グルベローバが亡くなった” の続きを読む

メンゲルベルクのこと

 徳岡直樹氏のyoutubeで、メンゲルベルクを扱っていたので、興味深く聞いた。メンゲルベルクは、戦前のオランダの指揮者で、コンセルトヘボー管弦楽団を50年間指揮し、世界のトップオケに育て上げた偉大な指揮者だ。しかし、ナチスに占領されたオランダで、ナチスに協力したということで、戦後演奏活動を禁止され、その後解禁されたが、演奏再開の直前に亡くなった。20世紀前半の偉大な指揮者として、フルトヴェングラー、トスカニーニ、ワルターをあげることが多い。ここにメンゲルベルクを加えるのが妥当だろうが、なにしろLPが発明される前に演奏活動を終えてしまったので、録音を通して知ることが多い戦前の指揮者としては、メンゲルベルクは非常に不利であるし、フルトヴェングラーやカラヤンは2年の禁止期間だけだったが、メンゲルベルクは6年も禁止されていたのが、不幸だった。
 私がメンゲルベルクを聴いたのは、チャイコフスキーの悲愴だけだが、ずっと関心はあった。そこで、徳岡氏によって、情報を与えられたので、少し考えてみたいと思ったわけだ。

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リヒャルト・シュトラウスのオペラ集

 私の年代には、非常に珍しかったと思うが、私は小学生のときから、オペラファンだった。実際にオペラを生で見たのは、大学生になってからだったが、それでも、レコードを毎年買っていた。そして、現在までずいぶんオペラを視聴してきたが、好きなオペラ作曲家はモーツァルトとヴェルディだ。ワーグナーとリヒャルト・シュトラウスは、偉大だと思うが、聴きたいと思うのは、一部になってしまう。特に両者とも、後年の作品は楽しめない。20世紀になって、大衆的に親しまれているオペラといえは、非常に限られていて、リヒャルト・シュトラウスの「バラの騎士」が最後なのではないかと、長年思っていた。すると、岡田暁生『オペラの終焉』という本が、まさしくそうした主張を詳しく書いた本として現れて、同じようなことを考えている人がやはりいるのだと、心を強くしたものだ。もちろん、名曲とされるオペラがないではない。「ヴォツェック」のような名曲という評価が確定している作品もあるが、大衆的に愛されているかというと、多分に疑問だ。この場合、大衆的に愛されているというのは、多くの人がそのオペラの中のメロディーを口ずさむというような意味だ。「ヴォツェック」を繰り返し聴いたわけではないからかも知れないが、私は、ここに出てくる音楽を口ずさむ気になるようなメロディーを見いだしていない。

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クライスラー「美しきロスマリン」聴き比べ 髙木凜々子に共感

 今や押しも押されぬ大バイオリニストである五島みどりを、はじめて聴いたのは、15歳のときに日本で行ったリサイタルを、NHKが収録して放映したものだった。既に、音楽雑誌で紹介され、「五島みどりが京都で、ブラームスの協奏曲を弾いた」というような記事が出ていたのだが、まだ子どもなのにそんなに騒ぐのか、と思っていた。しかし、NHKの放送を見たときには、心底びっくりした。これが15歳の演奏家か、と。大人の演奏としても、唖然とするほど見事なものだった。そして、そのなかでも感心したのが、クライスラーの「美しきロスマリン」だった。それまでに、他の演奏でいろいろと聴いていたが、こんなに素敵な「美しきロスマリン」は初めて聴いたと思った。そして、音楽雑誌の評で、だれかが、五島みどりの「美しきロスマリン」を特別にすばらしかったと評価していた。早速、家にあったパールマンの演奏を聴いてみたが、何かつまらないのだ。あまりに整い過ぎた演奏だ。この曲では、控えめだが、自由にテンポが動くこと、あくまでも軽やかであること、そして、妙な強調をせずに、自然な躍動感があること、そして、上品であること、などが必要だ。テクニックはそれほど難曲ではないのだろうが、表現が非常に難しい。五島みどりの演奏は、それをすべてもっているように思った。

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ふたつのバイロイト第九 根拠と証拠について

 徳岡直樹氏によるフルトヴェングラー、バイロイト第九の検証youtubeに対して、私は二度に渡って議論を呈したが、それに対してコメントがついた。コメントの趣旨は、根拠と証拠が乏しく、「~~と思う」という書き方が多すぎるということだった。証拠はないが、根拠は書いてある、そもそもこうした話題は、主観的なことがほとんどで、徳岡氏も同様だという回答だ。一応返事はしたが、もう少しつっこんで整理したいと思う。
 こうしたことにあまり興味のない人には、何やってるんだと思うだろうが、ベートーヴェンの第九交響曲最高の名演奏といわれるフルトヴェングラーの第九、しかも、もっともよく聴かれる1951年、バイロイト音楽祭再開の冒頭の日に演奏された録音には、ふたつの異なった録音があるとされている。両方とも同じ日付の演奏となっているのだが、明らかに異なる演奏である。しかも、EMI、バイエルン放送協会のテープによってオリフェオという企業が発売しているもので、フルトヴェングラーの演奏であることを疑う人はいない。これらの演奏には、当初からさまざまな逸話がつきまとっていた。

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音楽家の才能と人格 小山田圭吾問題を機に

 小山田圭吾問題に絡んで、彼が音楽会でどのような評価を得ているのか、youtubeで検索していたところ、小山田氏をこき下ろしているyoutubeのひと(ニューヨーク在住のジャズ系の音楽家ということだった)が、音楽家と人間性は密接な関係があり、優れた音楽家はみな人格者であり、人格者ではない人間の音楽は、必ず気持ち悪く感じるところがあるという持論を、とうとうと述べ立てていた。小山田圭吾氏が、かつて、ひどく人格的に問題があったことは間違いないだろうが、現在はわからない。
 しかし、優れた音楽家は、人格者であるという、つまり、人格的に優れていないと、優れた音楽を作ったり、演奏したりすることはできないのだ、というのは、正しいのだろうか。ここまで断定的にいえるひとはすごいと思ったが、私は、このひとの考えには反対である。
 何故なら、クラシック音楽の世界では、とんでもない天才でありながら、人格的には、どうしようもなく、厭味な人間である。そして、それにもかかわらず、周りの人間を魅了し、音楽が高く評価されている作曲家がいるからだ。これまでに書いたことと重なる点もあるが、再度考えてみる。
 矛盾の固まりみたいな作曲家は、リヒャルト・ワーグナーである。私は、ニューヨークのひととは違うが、ワーグナーという人物は嫌いであるし、音楽も全面的な好きだとはいえないのだが、彼の音楽が、絶対的に優れていることは認めざるをえない。

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サロメ(オペラ)上演の難しさ 3つの要素

 イギリス、ロイヤル・オペラの「サロメ」を視聴した。フィリップ・ジョルダン指揮、ナディア・ミヒャエルのサロメだ。「サロメ」は、リヒャルト・シュトラウスの最初のヒットオペラで、現在でもかなり刺激的な内容、上演が非常に困難なものだ。カラヤンの極めて優れた録音があるが、これは、ベーレンスという、ついにカラヤンが発見した(といっても、ある人がカラヤンに伝えたということのようだが)歌手の出現によって可能になったものだ。クライバーの場合には、「サロメ」はやらないのかと質問されたとき、サロメ歌手がいればやると、と答えたという。だが、ついにやっていない。

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