20世紀最高のコロラトゥーラ グルベローバが亡くなった

 10月18日にグルベローバが亡くなったと報道された。数年前に引退公演があったから、既に現役ではなかったが、近年としてはずいぶん早い死ではないか。もっとも、グルベローバの先輩格のようなルチア・ポップは50代で亡くなっている。
 グルベローバは、なんといっても、20世紀最大のコロラトゥーラであったと思う。コロラトゥーラの歌手は、若いころにコロラトゥーラの曲を歌うが、年齢とともに声が太くなっていくので、40歳くらいまでには歌わなくなる。そして、ルッジェロかリリコ・スピントの役を歌うようになっていく。ポップはそうだった。しかし、グルベローバは60代までコロラトゥーラの役を中心に歌っていたのが、極めて例外的だった。他には、サザーランドくらいしかいないのではないか。ふたりとも、ベルカントオペラの大家であったから、声の質を保持したのだろう。 “20世紀最高のコロラトゥーラ グルベローバが亡くなった” の続きを読む

メンゲルベルクのこと

 徳岡直樹氏のyoutubeで、メンゲルベルクを扱っていたので、興味深く聞いた。メンゲルベルクは、戦前のオランダの指揮者で、コンセルトヘボー管弦楽団を50年間指揮し、世界のトップオケに育て上げた偉大な指揮者だ。しかし、ナチスに占領されたオランダで、ナチスに協力したということで、戦後演奏活動を禁止され、その後解禁されたが、演奏再開の直前に亡くなった。20世紀前半の偉大な指揮者として、フルトヴェングラー、トスカニーニ、ワルターをあげることが多い。ここにメンゲルベルクを加えるのが妥当だろうが、なにしろLPが発明される前に演奏活動を終えてしまったので、録音を通して知ることが多い戦前の指揮者としては、メンゲルベルクは非常に不利であるし、フルトヴェングラーやカラヤンは2年の禁止期間だけだったが、メンゲルベルクは6年も禁止されていたのが、不幸だった。
 私がメンゲルベルクを聴いたのは、チャイコフスキーの悲愴だけだが、ずっと関心はあった。そこで、徳岡氏によって、情報を与えられたので、少し考えてみたいと思ったわけだ。

“メンゲルベルクのこと” の続きを読む

リヒャルト・シュトラウスのオペラ集

 私の年代には、非常に珍しかったと思うが、私は小学生のときから、オペラファンだった。実際にオペラを生で見たのは、大学生になってからだったが、それでも、レコードを毎年買っていた。そして、現在までずいぶんオペラを視聴してきたが、好きなオペラ作曲家はモーツァルトとヴェルディだ。ワーグナーとリヒャルト・シュトラウスは、偉大だと思うが、聴きたいと思うのは、一部になってしまう。特に両者とも、後年の作品は楽しめない。20世紀になって、大衆的に親しまれているオペラといえは、非常に限られていて、リヒャルト・シュトラウスの「バラの騎士」が最後なのではないかと、長年思っていた。すると、岡田暁生『オペラの終焉』という本が、まさしくそうした主張を詳しく書いた本として現れて、同じようなことを考えている人がやはりいるのだと、心を強くしたものだ。もちろん、名曲とされるオペラがないではない。「ヴォツェック」のような名曲という評価が確定している作品もあるが、大衆的に愛されているかというと、多分に疑問だ。この場合、大衆的に愛されているというのは、多くの人がそのオペラの中のメロディーを口ずさむというような意味だ。「ヴォツェック」を繰り返し聴いたわけではないからかも知れないが、私は、ここに出てくる音楽を口ずさむ気になるようなメロディーを見いだしていない。

“リヒャルト・シュトラウスのオペラ集” の続きを読む

クライスラー「美しきロスマリン」聴き比べ 髙木凜々子に共感

 今や押しも押されぬ大バイオリニストである五島みどりを、はじめて聴いたのは、15歳のときに日本で行ったリサイタルを、NHKが収録して放映したものだった。既に、音楽雑誌で紹介され、「五島みどりが京都で、ブラームスの協奏曲を弾いた」というような記事が出ていたのだが、まだ子どもなのにそんなに騒ぐのか、と思っていた。しかし、NHKの放送を見たときには、心底びっくりした。これが15歳の演奏家か、と。大人の演奏としても、唖然とするほど見事なものだった。そして、そのなかでも感心したのが、クライスラーの「美しきロスマリン」だった。それまでに、他の演奏でいろいろと聴いていたが、こんなに素敵な「美しきロスマリン」は初めて聴いたと思った。そして、音楽雑誌の評で、だれかが、五島みどりの「美しきロスマリン」を特別にすばらしかったと評価していた。早速、家にあったパールマンの演奏を聴いてみたが、何かつまらないのだ。あまりに整い過ぎた演奏だ。この曲では、控えめだが、自由にテンポが動くこと、あくまでも軽やかであること、そして、妙な強調をせずに、自然な躍動感があること、そして、上品であること、などが必要だ。テクニックはそれほど難曲ではないのだろうが、表現が非常に難しい。五島みどりの演奏は、それをすべてもっているように思った。

“クライスラー「美しきロスマリン」聴き比べ 髙木凜々子に共感” の続きを読む

ふたつのバイロイト第九 根拠と証拠について

 徳岡直樹氏によるフルトヴェングラー、バイロイト第九の検証youtubeに対して、私は二度に渡って議論を呈したが、それに対してコメントがついた。コメントの趣旨は、根拠と証拠が乏しく、「~~と思う」という書き方が多すぎるということだった。証拠はないが、根拠は書いてある、そもそもこうした話題は、主観的なことがほとんどで、徳岡氏も同様だという回答だ。一応返事はしたが、もう少しつっこんで整理したいと思う。
 こうしたことにあまり興味のない人には、何やってるんだと思うだろうが、ベートーヴェンの第九交響曲最高の名演奏といわれるフルトヴェングラーの第九、しかも、もっともよく聴かれる1951年、バイロイト音楽祭再開の冒頭の日に演奏された録音には、ふたつの異なった録音があるとされている。両方とも同じ日付の演奏となっているのだが、明らかに異なる演奏である。しかも、EMI、バイエルン放送協会のテープによってオリフェオという企業が発売しているもので、フルトヴェングラーの演奏であることを疑う人はいない。これらの演奏には、当初からさまざまな逸話がつきまとっていた。

“ふたつのバイロイト第九 根拠と証拠について” の続きを読む

音楽家の才能と人格 小山田圭吾問題を機に

 小山田圭吾問題に絡んで、彼が音楽会でどのような評価を得ているのか、youtubeで検索していたところ、小山田氏をこき下ろしているyoutubeのひと(ニューヨーク在住のジャズ系の音楽家ということだった)が、音楽家と人間性は密接な関係があり、優れた音楽家はみな人格者であり、人格者ではない人間の音楽は、必ず気持ち悪く感じるところがあるという持論を、とうとうと述べ立てていた。小山田圭吾氏が、かつて、ひどく人格的に問題があったことは間違いないだろうが、現在はわからない。
 しかし、優れた音楽家は、人格者であるという、つまり、人格的に優れていないと、優れた音楽を作ったり、演奏したりすることはできないのだ、というのは、正しいのだろうか。ここまで断定的にいえるひとはすごいと思ったが、私は、このひとの考えには反対である。
 何故なら、クラシック音楽の世界では、とんでもない天才でありながら、人格的には、どうしようもなく、厭味な人間である。そして、それにもかかわらず、周りの人間を魅了し、音楽が高く評価されている作曲家がいるからだ。これまでに書いたことと重なる点もあるが、再度考えてみる。
 矛盾の固まりみたいな作曲家は、リヒャルト・ワーグナーである。私は、ニューヨークのひととは違うが、ワーグナーという人物は嫌いであるし、音楽も全面的な好きだとはいえないのだが、彼の音楽が、絶対的に優れていることは認めざるをえない。

“音楽家の才能と人格 小山田圭吾問題を機に” の続きを読む

サロメ(オペラ)上演の難しさ 3つの要素

 イギリス、ロイヤル・オペラの「サロメ」を視聴した。フィリップ・ジョルダン指揮、ナディア・ミヒャエルのサロメだ。「サロメ」は、リヒャルト・シュトラウスの最初のヒットオペラで、現在でもかなり刺激的な内容、上演が非常に困難なものだ。カラヤンの極めて優れた録音があるが、これは、ベーレンスという、ついにカラヤンが発見した(といっても、ある人がカラヤンに伝えたということのようだが)歌手の出現によって可能になったものだ。クライバーの場合には、「サロメ」はやらないのかと質問されたとき、サロメ歌手がいればやると、と答えたという。だが、ついにやっていない。

“サロメ(オペラ)上演の難しさ 3つの要素” の続きを読む

久しぶりの演奏会

 昨日は、ブログを休んでしまったが、実は、私か所属している市民オーケストラの演奏会だった。昨年春の演奏会がコロナのために中止になって以来、秋も中止、12月の市民コンサートを振り替えてやったが、私は、休んだ。やはり、高齢者でもあり、少々心配だったからだ。そして、昨日中断後2度目の演奏会に出演した。久しぶりだったので、疲れてしまったし、いろいろあった。それで、今日は演奏会を中心にして、雑多なことを書く。
 コロナ禍で、昨年からオーケストラの活動が、極めて窮屈になっている。いまから考えると、そこまでする必要があったのかと思うのだが、昨年の春と秋の演奏会が中止になった。プロオケは大変だった思うが、私はアマチューのオーケストラに所属しているので、経済的な実益の損失を被ったわけではない。毎年行われている12月の市民コンサートが中止になり、代わりにオーケストラの演奏会になった。市民コンサートとは、その演奏会のために結成される合唱団とオーケストラが共同で行う大規模合唱の入る曲を演奏する。私のオーケストラの最大の魅力は、この演奏会があることだ。しかし、それは無理になったので、オーケストラだけの演奏会になった。しかし、コロナがもっとも大きな力を発揮していた時期だったので、私はパスせざるをえなかった。合唱は大声を出すので、いまでも活動がかなり制限されている “久しぶりの演奏会” の続きを読む

フォン・オッターのカルメン

 ずいぶん前に購入したが、視聴していなかったフォン・オッターの「カルメン」を全曲視聴した。きっかけは、オッターのカルメンではなく、指揮のフィリップ・ジョルダンが指揮をしていることに気づいたからだ。ジョルダンは、ウェルザー・メストが退任して以降、しばらく空席だったウィーン国立歌劇場の音楽監督に昨年からなった人である。例にもれず、コロナ禍に見舞われて、まだ十分に活動しきれていないと思われるが、今後活躍してほしい人だ。youtubeで、マーラーの1番の日本公演の映像をみて、ずいぶん細かな表情付けをする人だと思ったが、なかなかよかったので、このカルメンを見る気になったわけだ。

“フォン・オッターのカルメン” の続きを読む

チェリビダッケはレコード嫌いだったのか 井阪氏の見方

 前にチェリビダッケについての文章を書いたが、(チェリビダッケのリハーサル1~3 http://wakei-education.sakura.ne.jp/otazemiblog/?p=1386 http://wakei-education.sakura.ne.jp/otazemiblog/?p=1396 http://wakei-education.sakura.ne.jp/otazemiblog/?p=1402)井阪紘氏の『巨匠たちの録音現場 -カラヤン、グールドとレコード・プロデューサー』(春秋社)を読んで、意外な評価だったので、再度考えてみた。
 本の題名には、2人の固有名詞が書かれているが、実はチェリビダッケも扱われている。録音芸術の巨匠だったカラヤンを別格として大きく扱い、更に、録音を完全に拒否したチェリビダッケと、生演奏を拒否して、録音だけの活動に入り込んだグールドを対照的な演奏家として、分析しているわけだ。そして、付録のような形で、有名な録音プロデューサーだったジョン・カルショーを加えている。著者は、録音プロディーサーということなので、実際に経験した彼等の録音活動を扱っているのかと思ったが、扱われている事実は、ほとんどが文献によるもので、それらの読み方に、実際の録音プロデューサーとしての分析を加えた形になっている。したがって、新しい事実を教えられたということは、ほとんどなかった。

“チェリビダッケはレコード嫌いだったのか 井阪氏の見方” の続きを読む