音楽家の才能と人格 小山田圭吾問題を機に

 小山田圭吾問題に絡んで、彼が音楽会でどのような評価を得ているのか、youtubeで検索していたところ、小山田氏をこき下ろしているyoutubeのひと(ニューヨーク在住のジャズ系の音楽家ということだった)が、音楽家と人間性は密接な関係があり、優れた音楽家はみな人格者であり、人格者ではない人間の音楽は、必ず気持ち悪く感じるところがあるという持論を、とうとうと述べ立てていた。小山田圭吾氏が、かつて、ひどく人格的に問題があったことは間違いないだろうが、現在はわからない。
 しかし、優れた音楽家は、人格者であるという、つまり、人格的に優れていないと、優れた音楽を作ったり、演奏したりすることはできないのだ、というのは、正しいのだろうか。ここまで断定的にいえるひとはすごいと思ったが、私は、このひとの考えには反対である。
 何故なら、クラシック音楽の世界では、とんでもない天才でありながら、人格的には、どうしようもなく、厭味な人間である。そして、それにもかかわらず、周りの人間を魅了し、音楽が高く評価されている作曲家がいるからだ。これまでに書いたことと重なる点もあるが、再度考えてみる。
 矛盾の固まりみたいな作曲家は、リヒャルト・ワーグナーである。私は、ニューヨークのひととは違うが、ワーグナーという人物は嫌いであるし、音楽も全面的な好きだとはいえないのだが、彼の音楽が、絶対的に優れていることは認めざるをえない。

 ワーグナーは、まず若いころ、借金を踏み倒して、夜逃げし、妻と一緒に逃げ回っていた時期がある。また、1848年のヨーロッパの革命運動に賛同したために、政治犯として追われる身になって、スイスに逃れるのだが、そこで家を提供してくれたヴェーゼンドンク氏の夫人と不倫関係になり、その体験から、「トリスタンとイゾルデ」という大傑作が創作されるのだが、ここはさすがに、スイスを去ることになる。そして、やがてバイエルンの国王の援助をうけて、バイロイトを建設するのだが、その過程で、自分の音楽をもっとも献身的に広めてくれた弟子の指揮者、ハンス・フォン・ビューローの妻コジマを略奪してしまうわけだ。コジマは、これも天才作曲家であり、ピアニストのリストの娘である。やがて、ワーグナーはコジマと結婚して、その子孫が、バイロイト音楽祭を主催していくことになる。ワーグナー家がナチスと密接な関係になることから、戦後再開が困難だったことも忘れるべきではない。反ユダヤ主義だったワーグナーの子孫らしいといえる。
 こういう人物を、人格者といえるだろうか。私には、とてつもなく反道徳的な人間とした思えない。しかし、その音楽が強烈な魅力をもっていることは、誰も否定できないのだ。
 
 演奏家でもいる。偉大な歌手であることは認めるが、私は好きになれないマリア・カラス。カラスを本当に偉大な歌手に、実際の劇場で育てあげたと言われる指揮者にトゥリオ・セラフィンという偉大な指揮者がいる。しかし、レコード会社的には、カラスのステータスのほうが高かったようだ。まだまだ、オペラは歌手の時代と言われていたからである。EMIが、ヴェルディの「椿姫」をセラフィン指揮で録音したときに、カラスを起用しなかった。それを怒ったカラスが、セラフィンをEMIから追い出したと言われている。事実、それまで、多数のオペラ全曲録音を、カラスとのコンビでEMIに行ってきたにもかかわらず、その後、ぷっつりとEMIの録音がなくなり、少したってから、デッカ(テバルディとの蝶々夫人、ボエーム)、そして、ドイツ・グラモフォン(トロバトーレ)などの名演を残すのだが。
 では、何故、「椿姫」でカラスが起用されなかったのか。それは、少し前に、カラス自身がチェトラレーベルで録音し、数年間、他のレーベルで「椿姫」を録音することができない契約だったからである。つまり、カラスに原因があったのだ。セラフィンは、カラスにとって、恩人のような指揮者である。このことを知ると、カラスの人間性については、肯定的になれないのである。もっとも、このあと、カラスは、大富豪オナシスに恋をして、ダイエットしたために、声を失ったとされており、確かに、年齢的に早い段階で、オペラ歌手としての最盛期を過ぎてしまう。更にオナシスを元ケネディ夫人であるジャクリーンにとられてしまい、失意の晩年を送ることになる。
 大指揮者フルトヴェングラーが、若きカラヤンを徹底的にいじめ抜いたのは、自分の地位を脅かされると思ったからだろう。フルトヴェングラーを尊敬するひとも、あのカラヤンいじめには、肯定的になれていに違いない。
 音楽家は、一人で活動することはできない。必ず実際の聴衆が必要であるし、アンサンブルを組むときは、人間的な協調性が必要となる。しかし、それに反する実話もたくさんある。 
 オーケストラのなかでは、けっこう人間的な対立があると言われる。あるアメリカの有力オーケストラの管楽器トップ奏者のふたりが、犬猿の仲で、普段は口もきかなかったのだが、しかし、演奏会になる実に調和するような演奏をしたという話がある。逆に新入団員に様々ないじわるをする場合もあるとか。音楽家といえども、競争に晒されていることも事実なのだ。
 
  さて、私としては、こうした騒ぎがなければ決して聞くことがなかった小山田圭吾氏の音楽をyoutubeで視聴してみた。「あなたがいるなら」という曲だ。この曲が彼の作品のなかで、どういう位置を占めているのかはわからないが、代表的な作品のひとつなのだろう。非常に単調な、楽器というよりは機械音が刻まれるように始まり、映像も暗い画面に、なにかボールとかパイプのようなものが動き回る映像が続く。そして、歌がはじまるのだが、要するに、あなたがいるなら・・・というよう陳腐な歌詞で、音楽は、特に印象的でもなく、私のような人間には非常に感じが悪く聞こえるのだが、日本語のリズムを完全に壊している。意図的なのだろうが、言語特有のリズムを無視した歌は、私は気持ち悪くて聞けない。まあ、人の好みはいろいろだから、こういう音楽にけちをつけるつもりはないが、私が好きになることは永久にないだろうし、また、今後こういう「事件」が起きない限りは聞くこともなかっただろう。国際的に評価されているとという人と、あの程度の才能は掃いて捨てるほどあるという人と、評価はまちまちなようだが、少なくとも、国際的に広く認知され、残っていくような音楽でないことは確かだ。音楽としての魅力も、私にはまったく感じられない。そういう意味では、人格と才能のバランスはとれているのかも知れない。ネガティブな意味において。
 
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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