和光学園は、民主主義的な教育を旗印にした学校として、かつては有名だった。
長く和光学園の校長や副理事長、学園長をしていた丸木政臣氏の著作をアマゾンに注文し、今日届いたので、ざっと見たが、私の求める答えはまったくない書物だった。1996年に書かれた『わが教育の原点』という書物だが、沖縄のことだけが書かれていて、和光学園での平和教育以外のことは、ほとんど触れられていなかった。別途、学校改革に関する書物を、県立図書館に予約したが、入手は来週になるので、再度、丸木氏の教育論については、その本を読んでから考察したい。
実は、私は若いころに、丸木氏と共同の仕事をしたことになっている。三省堂がかなりのエネルギーを注いだ『資料日本現代教育史』全4巻で、編集委員として、宮原誠一・丸木政臣・伊ケ崎暁生・藤岡貞彦が名を連ね、実務を私と先輩の井上さんと二人の院生で行った。私が研究的な仕事で収入を得たはじめての経験だった。たまに行われる編集会議では、宮原氏と丸木氏はあったことがなく、最後の完成祝いのパーティで宮原氏はいたが、丸木氏がいたかどうかは、私はまったく記憶がない。そもそも、当時あまり丸木氏のことをよく知らなかった。この仕事は、私にとって本当に貴重な体験だった。資料の選択はほぼ編集委員が行ったが、実際にその資料を探し出してコピーをとり、どの部分を資料集にいれるかを、実際に全部読んで判断し、案を作成するのが私の仕事で、これを通して、戦後の重要な教育に関する資料をほぼ読んだことになる。この資料集には、和光学園の資料はまったく採用されていない。
さて、和光学園は、当初から芸術重視の教育を行い、個性を尊重していたが、しかし、いつか教育の雰囲気が変化していったようだ。もっとも、学園からすれば、意図的に変化させたわけではなく、個性尊重という教育方針の延長上に現在があるという認識かも知れない。
週刊文春が、和光学園の記事を掲載したのは、2020年5月5日号である。そこでは、和光学園が、有名芸能人に非常に評判が高く、相互に知らせあって入学させるということだ。そして、そうした評判の理由は、「芸能人に対して、さまざまな配慮をしてくれる」ということにあると書いている。例えば、和光学園の重要な学校行事として「演劇祭」があり、そこに、芸能人の子どもたちが、活躍する場が与えられているというのだ。もちろん、芸能人の子どもだから割り当てがあるということではなく、そういう場が与えられることによって、自然と芸能人の子どもたちが、活躍できる仕組みになっているということだろう。和光学園は、成城学園から分かれて設立された学校で、成城学園から移ってきた教師のなかに、音楽や演劇を重視するひとたちがいて、当初からそうした教育が盛んであったとしている。そして、この文春の記事では、小山田圭吾も有名な卒業生の一人としてあげられている。https://crea.bunshun.jp/articles/-/26239
また、2021年4月20日のブログ記事では、何故芸能人に和光が人気があるのかという理由のひとつとして、セキュリティをあげている。そして、警備員が10数名もいる写真が掲載されている。つまり、小山田問題が起こるまでは、メディアでは、芸能人の子どもにとって、安全で活躍の場が保証された学校という、肯定的な記事が主流だったのである。
当初の演劇、音楽重視の教育は、当然プロの子どもや、将来の職業選択を見越したものではなく、一般的な意味での芸術教育を重視するものだったのだろうが、世田谷にあるという地理的な環境も手伝って、いつしか芸能人の子どもが入学するようになり、かつ内輪の噂で次第に増え、それを積極的に受けとめた学校が、芸能人に配慮するような行事をおしだすようになったのではないかと思われる。おそらく、和光学園として、芸能人のための教育をするつもりはないとしても、現実的にはそのように評価され、理念と実態が遊離しているのかも知れない。だから逆にいえば、本来の芸術教育は軽んじられている可能性もあるのではないだろうか。
さて、上記の記事は、障害者を受け入れているというインクルーシブ教育については、ほとんど触れられていない。
ではインクルーシブ教育はいつ始まったのだろうか。和光学園のホームページの説明によると以下のようである。
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和光の教育方針に関する質問に対する回答(和光ホームページ)
和光学園は半世紀以上前からハンディキャップのある子どもたちと共に学ぶことを大切にしてきています。1976年度からはクラスの中に2名程度の「障がい」を持つ子どもを受け入れる「共同教育」を、学園全体で進めることにし、和光小学校も教育の柱の一つとなっています。2016年「障碍者差別禁止法」が施行されてからは人数の制限をなくし、クラスの中でいっしょに学ぶことができるかどうかということを基準にして受け入れるようにしています。発達年齢に応じた学習、生活を進め、特別な加配を行なっていないので、和光小学校で学ぶことがその子にとってベストであるのかどうかを考慮して、受け入れるかどうかを決めています。
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ここからいくつか重要なことか読み取れる。
・インクルーシブ教育が始まったのは1976年ということだから、都道府県に対する養護学校の設置義務が法的に規定された時期であり、当然そうした議論と平行して、和光学園として特別支援教育(当時はまだ特殊教育といっていた)の準備をしていたのだろう。
・2016年の障碍者差別禁止法の施行以降は、人数制限をなくす一方で、共に学ぶことができることを入学基準としたという。ということは、その以前は、共に学ぶことができない子どもも受け入れていたということだろう。卒業生によるネット書き込みをみると、以前は補助がいたようなことが書かれている。しかし、この回答では、特別な加配をしていないということだから、差別禁止法以降、かえって、障碍者を受け入れることに消極的になっているとも解釈できる。
次に、小山田問題が起きて、東スポが和光に質問状を発し、その回答に関する報道がある。
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同校は約45年前から、各クラスにハンディキャップを持った子供を受け入れる「共同教育」という制度をもうけているという。
「健常児、障がい児が共に人間として理解し合い、人が人をお互いに尊重するという認識の定着をはかっています。健常児であろうと、障がい児であろうと苦手な部分は互いに助け合い、理解しながら学習と生活を共にしていきます。子ども同士、時にはぶつかることやトラブルも起こりますが、そのような時こそ皆で考え合い、さらに深くお互い理解していく実践を行おうと努めています」
共同教育を実施しているとなると、今回の騒動は痛恨だろう。回答文書は「(小山田のいじめ告白記事で)記載されているような事実が生じないよう、本学園として対応をしております」と、締めくくられていた。東スポWeb 2021/07/23 05:26
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小山田圭吾氏は1969年生まれで、幼稚園入園時には、まだインクルーシブ教育が開始されていなかった。小学校のときにはじまり、中学、高校となると、おそらく初期の理念や熱意が冷め始めていた可能性がある。当時は、おそらく比較的重い障害をもった子どもも受け入れていたと思われるから、教師たちの負担はかなりのものだったに違いない。いじめは教師の陰で行われるのが通常だから、知らないままだったり、あるいは、一部の対応に追われて、手が回らない状況もあったに違いない。そうしたことの「反省」が、共に学ぶことができることを条件とするようになったのではないだろうか。
そうすると、東スポへの回答の「健常児であろうと、障がい児であろうと、苦手な部分は互いに助け合い、理解しながら学習と生活を共にしていきます」というのは、現状ではそうだろうが、小山田氏がいた当時には、そうした学習と生活は困難だったに違いないのである。そこでいじめも多発した可能性がある。
ある卒業生は、以下のように書いている。
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あの小山田圭吾の、いじめを自白した記事にある通りなのだ。目に見えない障がいや、ちょっと変わり者とされる子供は図書室しか居場所がない。僕自身もそうだった。そして加害者は図書室にきて「狩り」を楽しむ。そういう光景は僕も見たのだ。
僕自身は幸いにして大した被害は受けなかったかもしれない。せいぜい机の上にコンドームを放置されるとか、カバンの中のものを学校中にばらまかれるという程度。小山田圭吾のやった事に比べたら・・・・と思う。それに中学3年ころになると僕が被害を受けることは無くなったと思う。僕自身が変わり者であることを貫いたせいか、かえって一目置かれるようになったのかもしれない。https://note.com/dmadoy/n/nba5b1452dfbb
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もちろん、このまま信じるわけにはいかないにしても、この筆者は、かなりの量の文章を書いており、まったくの虚偽とは思われない。もちろん、ひとによって経験は多様だから、そんな事実はなかったというネット情報もある。
しかし、和光学園の文書や回答をみる限り、いじめがあり、学校が対応できていない時期があったこと、そして、小山田氏が在籍していた当時は、そうだったという可能性は十分にあるといえる。
では、そういう時期に学園のリーダーだった丸木氏は、どのような教育理念をもっていたのか、それを次回に考えてみたい。(書物が届いてからなので、来週になる)