最近「朝イチ」はまったくみないので、実際にその場面を見たわけではないのだが、朝ドラの話を最初にする場面で、鈴木アナウンサーが、「カムカムエヴリバディ」の場面を語るときに、あまりにドラマに感情移入して泣いてしまい、話ができなくなってしまって、周囲のスタッフが懸命にフォローしたという記事があった。そして、プロは泣いてはいけいないのかというような提起がなされていた。
私はクラシック、特にオペラファンなので、歌手が泣いてしまわないのかと、よく思うことがある。だいたいオペラの結末は悲劇が多く、歌手が死ぬ場面を歌ったり、愛する者が亡くなっていく場面で嘆き悲しんで歌ったりすることが頻繁にある。ヴェルディ作曲のリゴレットは、娘のジルダを誘惑した復讐で、自分の主人である公爵の暗殺を依頼するが、その企みを知った娘のジルダが、実は公爵を深く愛していて、身代わりになって殺される。公爵の死体だと思い込んだリゴレットが、公爵の歌を聞いて愕然として、確認してみると娘のジルダだった。少しだけ息を吹き返したジルダがリゴレットに謝り、リゴレットは嘆き悲しんで幕となる。ここの音楽はまさしく、ジルダとリゴレットの感情をそのまま表現したものになっており、実際に泣いてしまってもおかしくないよう場面だが、実際に歌手が泣いてしまったという話は聞いたことがない。
プッチーニのボエームも、最後にミミが死んで、恋人のロドリフォが嘆き悲しむ歌が真に迫っているのだが、やはり同じだ。優れたプロ歌手というのは、表現として嘆き悲しんで泣いていても、実際には完全に感情をコントロールして、泣いている表現をしているだけというように歌えるものなのだろうか。
ただ、ひとつだけ、舞台で泣いてしまって歌えなくなったというエピソードを知っている。かなり有名な話だと思う。マーラーの大傑作「大地の歌」のいまだに最高の演奏とされるのは、フェリアー(メゾソプラノ)、パツァーク(テノール)、ワルター(指揮)、ウィーン・フィルという組み合わせのモノラル録音である。ワルターは、この曲の初演を行った指揮者であり、マーラーを広めるために献身的な活動をした人である。ところで、「大地の歌」のような曲は、頻繁に演奏されるわけではない。だから、ほとんどのレコーディングは、定期演奏会などにかけられ、そのあとで録音される。定期のための練習と本番数回、そして、録音のためのセッションが組まれるわけだ。だから、何度も演奏して細部まで練り上げた演奏などは、ほとんどないといえる。常任指揮者の場合でも、ベートーヴェンやブラームス、チャイコフスキーのように頻繁に演奏している場合はさておき、マーラーでも「大地の歌」のような曲はごくたまにしか演奏しないはずだから、どうしても指揮者・オーケストラ双方に割り切れないところが残る。
しかし、このワルター、フェリアーの演奏は、戦後例外的に何度もこのチームで演奏されている。何種類かの音楽祭に毎年のようにかけられ、また、ウィーン・フィルの定期演奏会でも演目となっただろう。そうした演奏の繰り返しをへて、録音されたものである。だから、少しもあいまいなところがない。
なぜ、この演奏のことを話題にしたかというと、このコンビの最初の演奏会のときに、アルトのフェリアーが、6楽章告別の最後の部分で、アルトが切々と別れを歌う場面で、あまりに感極まって嗚咽してしまい、歌えなくなったというのである。なんといっても、実演だから、他の演奏者も聴衆もびっくりしただろう。演奏会後、フェリアーはワルターに対して、深く謝罪したそうだが、(当たり前のことか)ワルターは、この曲を演奏していると、そういうこともあるというようにかばったとか。作曲者のマーラーは、この曲を作曲しているとき、頻繁にワルターに会い、曲をピアノで弾きながら、これを聴いた人のなかから、自殺者がでるのではないかと心配したという話が残っている。「告別」という題名がついていることでわかるように、この世との別れを切々と歌いあげるため、死にたくなる人がでることを、マーラーは心配したのだ。
しかし、文学では例があるが(ゲーテ「若きウェルテルの嘆き」、古今の名曲で、曲を聴いて自殺した人がでたという話は聞いたことがない。どんなに悲しい曲でも、名曲は生きる勇気を与えるものだ。それは歌う人に対して、どんなに悲しい曲でも、歌っているときに、泣きだすことはないのだということにもつながるのだろうか。