広告と言論

 朝日新聞の記者が、書きたい記事を広告主に忖度した上司と折り合いがつかず、自ら命を絶ったという事件があった。なんとも痛ましいことだが、たくさんのことを考えさせる事件だ。
 現時点では、週刊文春11月11日号に報道されているくらいで、肝心の新聞社系は沈黙しているようだ。したがって、現在では詳細はわからないが、文春によれば、パナソニックの早期退職希望者に関連して、他の新聞は、前向きな記事を書いたのに、朝日の件の記者だけが、パナソニックの意図に反して、優秀な社員も応募して会社側も困惑したことを載せ、上司が、積極的なことも書けというので、意に沿わない記事を書いて悩んでいた、その気持ちがツイッターに書かれていたというような内容だった。記者の死亡後の朝日の人事の不可解さもあわせて報道している。

 パナソニックは、朝日新聞の広告出稿のお得意というところで、そこに忖度した上司の姿勢に、記者は、そんなことでは、問題があったときに指摘できないではないかと、新聞記者としては、当たり前の感覚をもっていたことになる。
 一月万冊がこの問題を取り上げていて、広告に依存する新聞社の衰退を指摘していた。
 
 大分前に読んだのだが、朝日新聞の本多勝一記者が、フリーの記者たちについて、彼らは生活が安定していないので、書きたいことを書けない傾向にあり、だれかに依存するようになる、それに対して自分(本多)は、新聞社で生活を保障されているので、だれかに依存せず書きたいことを自由に書けるという趣旨の文章だった。朝日新聞に依存しているのではないかと思ったが、朝日新聞が、自由に記者に書かせる体制であれば、本多のいうことは正しいともいえるが、今回の事件は、本多のいうことに疑いをもたせるに十分な根拠を提供してしまった。
 広告と自由な言論との関係は、単純ではないように思われる。
 
 私にとって身近な広告問題は、実は高校生のときに遡る。高校時代新聞部に所属していた。ほとんどの新聞部は、学校から予算がおりていて、その範囲で十分に新聞が発行できていた。しかし、私の高校はきわめて小規模な学校で、予算はほとんどなく、その予算も、新聞を発行したあと全国の新聞部に郵送するので、その費用で消えていた。つまり、新聞を発行するための予算はまったくないわけだ。それでまず広告取りから始め、広告がとれる時期を考慮して発行時期を決めていた。当時は新聞部の全国組織が活発に活動していて、近隣の新聞部が共同の活動もしていた。だから、他の部の実情もかなり知っていたが、広告取りをする高校新聞部などはまったくなかった。幸い、私の高校は進学校で、予備校を中心に必ず広告をだしてくれたので、それで発行費用を賄っていたのである。しかし、予備校の模擬試験や講習会の宣伝なので、新聞記事とはまったく関係なく、内容の忖度などはまったく思いもしなかった。費用を自弁していたわけだから、学校の指導もまったく受けなかった。できた新聞を「先生たちに配ってください」と顧問にもっていって終わりだった。ところが、他の新聞部は例外なく、書いた記事を事前に顧問の教師に見せて、チェックを受け、オーケーをとってから記事にしていた。費用を学校がだしていたからか、あるいはそれが高校生に対する当然の指導だと思ったかはわからないが、形としては、自由に書くことはできなかったのである。
 
 この私のブログを読んでいる人は、まったく広告がないことに気づいているだろうと思う。多くのブロガーと言われる人のブログは広告がたくさんでている。そして、その広告収入で生活している人も多いに違いない。広告をだせば、収入になるのだから、なんでださないのかと思う人もいるかも知れない。あなたのブログで広告をださないかと、アフィリエイトの誘いのメールをもらったこともある。しかし、私は一度も広告を載せたことはない。以前使っていたし、いまでも消滅させてはいないbiglobeのブログでも、わざわざお金を払って広告を消している。無料のブログは、ブログの場を提供しているプロバイダーが広告を掲載して、その収入でブログ提供の費用を回収しているから、広告が嫌な人は有料になるのである。このブログは、レンタルサーバーの費用を私が払って運営しているので、私がアマゾンなどと契約しない限り広告はでないが、契約すれば、広告はどんどん掲載されることになる。そして、少ないとしても収入になるわけだ。
 では何故そうしないのか。それは、自由に書くためである。ブログの広告は、内容に応じて、勝手に選んだ広告を、アマゾンと契約していればアマゾンが載せるだけだから、記事を書く際に遠慮する必要はない。だから、そういう心配はあまりしていないが、それでも、少しでも広告が効果的に収入に結びつくように、という意識が形成され、それが書く内容に影響すると思うのである。幸い、ブログで収入を得る必要はないので、何にも遠慮せず、自由に書きたいことを書くために、広告をださないでいるし、今後もそうするだろう。
 
 しかし、大手メディアはそうはいかない。
 基本は、大手のメディアと広告主との関係は、同じなのだろう。金はだすが、俺たちの批判は自由にやってくれ、というような広告主があるとは思えない。しかし、現在のメディアはほとんどが広告収入によって事業が成立している。更に、広告がだされる場が大きくインターネットに移行しているという点で、更に既存の新聞・雑誌などは大きく収入が減少している。だから広告主への忖度をますますしなければならないということのようだ。
 では、何が解決されなければならないのか。
 一月万冊で清水氏は、広告に依存しない事業にしていかなければ、新聞の未来はないと断言していたが、そういうことは可能なのだろうか。これが第一だ。
 第二に、広告があったとしても、忖度しない記事を書くことが可能なあり方は可能かということだ。
 こうしたことは、新聞社は当然取り組んでいるだろうが、私なりに考えるとこはある。新聞を発行する経費を縮小し、購読者を増やして購読料を飛躍的に拡大すれば、可能であろう。当たり前のことだ。
 もし、新聞が、紙の発行をやめてしまうとどれだけの費用が削減できるのだろうか。金額ベースの正確なところは調べられなかったが、すべてをネット販売にすれば、用紙代、印刷機械費用、販売店にかかる費用等が削減されるので、40%は削減できると思われる。そうした機能削減に伴って不要になる人員も多数でるだろうから、人件費も削減できるだろう。
 もちろん、紙を止めた場合、ネットの新聞の講読をてくれる人ばかりではないから、講読そのものをやめる人が出てくるだろうから、それを上まわる新規の購読者を獲得する必要はあるが。
 他方ネットの広告のあり方も変化する。現在のネットで読む新聞は、広告が大変少ない。しかし、紙がなくなるのだから、形を変えることで多数掲載する必要がでてくる。
 私は毎日新聞のネット版を講読しているのだが、通常のホームページに出てくる広告とは違って、毎日新聞が指定した広告が掲載されているように思われる。しかし、それはネットにおける広告の有利さを活用しているとはとうていいえない。ネット広告は、閲覧者の状況にあわせた広告を表示できる点が、紙媒体とは根本的に違っている。つまり、記事に対応した広告を掲載できるわけだ。
 また、現在紙の新聞をとっている者は、地位的な広告を重視している人も多いだろう。今日のスーパーの安売りのチラシのようなものだ。今後そのような広告を、有料購読者に対して、購読者に応じた製品や地域の広告を掲載する技術も発達してくるに違いない。その場合、個々人の購読者に掲載される広告は、全国紙に全国的に掲載されるものではないし、また、掲載場所も随時決められるのだから、記事内容と齟齬をきたさないように配列することができる。つまり、広告をまったく気にすることなく記事を書くことができるようになるのではないか。
 
 最近、「選択」という雑誌を講読するようになったのだが、この雑誌は年間購読者にのみ郵送し、書店にはださない雑誌だ。だから、購読者数のみ印刷すればいいわけだ。そして、本文には一切広告はなく、裏表紙のみに3社だけ広告がだされている。つまり、経費と利益のほとんどが購読料で賄われていると考えてよいだろう。やりようによっては、清水氏のいうような、広告に依存しない雑誌も可能だということだ。そして、ネットでは、広告に依存しないメディアもありうるし、また、広告を掲載しても、自由に書ける方式も今後編み出されるのではないかと思うのである。
 ただし、私のように個人がやっている場合、一切広告のことを考えずに自由に書くという立場もありうるわけだ。
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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