ノーベル賞受賞者が地方出身に多いこと

 日本人のノーベル賞受賞者は、地方出身者が多いことは、これまでしばしば話題になってきた。そして、今日この記事に気づいたので、考えてみることにした。日経の「ノーベル賞受賞者、都内高卒は1人、開成、筑駒はゼロ」という記事だ。筑駒は、私の母校であるので、思わず笑ってしまった。
 確かに、地方公立高校出身者がほとんどである。都内は日比谷高校卒の利根川博士のみだそうだ。私なりに考えると、理由がいくつか考えられる。
 まずノーベル賞というのは、自然科学が柱だ。自然科学者として業績をあげてノーベル賞を獲得するわけだが、ノーベル賞級の研究をするのは、まずは基礎研究が主で、それまでなかった発想で新しい発見をすることがもとめられる。そのためには、やはり、小さいころから自然に接して、自然の不可思議さに日々感応するようななかで育つことが有利なのではないかと思うのだ。私は自然科学者ではないので、想像するしかないのだが。

 私は、東京出身だからよくわかるが、東京の進学校に通う人が多く住んでいるところは、まず自然などほとんどない。自然に接して、自然に対する驚きを感じることなどは、非常に少ないわけだ。もちろん、空を見て、とか、雨が降ったら、などという自然現象はあるが、やはり、森、山、川があって、動物がいて、というような環境でこそ、自然への興味関心が育つと思うのだが、そういうものはまずない。理科に興味をもったり、理科が得意な子どもはいくらでも育つと思うが、あくまでも実在の自然とは異なる、知識レベルの関心になってしまう。
 
 第二の点は、そうはいっても、日比谷高校卒の受賞者がいるという点で、一応出ているともいえる。東京近郊は今や中高一貫の私立の進学校が優勢だが、そうなったのは1970年代くらいからで、完全に公立高校との進学実績が逆転したのは80年代あたりからではないかと思う。そして、地方ではいまでも公立高校のほうが進学実績が高いはずである。ということは、逆転してから入学したひとたちが、研究者になって実績をあげるというサイクルに入るのは、もう少し時間が必要なのではないかとも思うのである。私が入学した当時は、まだ日比谷が王者だった時代である。
 また、東京中心の小学校から受験体制に入るような雰囲気だと、点数ばかり気にするようになって、素朴な研究心にかられて励むような姿勢はないのではないかというような意見も、ネット上に見られる。確かにそういうひとたちも多いとは思うが、本当に優秀な人は、もっと余裕をもって勉学を楽しんでいると思う。だから、そのうち受賞者が出るかもしれないとは思うが、それ以上に心配する必要がある。
 
 東京出身者がノーベル賞をとれないことなどは、些細なことだと思う。地方出身者がたくさんとれれば、いいことではないか。問題は、今後、ノーベル賞をとれるような優れた研究が、どんどん出てくるのか不安視されているということのほうだろう。日本人研究者の論文が減少しているとか、あるいは積極的に海外に留学する人が減っているとか、あるいは若手研究者の待遇があまりに悪いので、希望する人も少なくなっているとか、そして何よりも、研究費が少なくなって、十分な研究が成立しにくくなっているのではないかなど、研究をめぐる否定的な現象があまりに多いことにある。日本全体の落ち込みもあるだろうが、特に国立大学の法人化以後進んだ、国の大学への予算が年々減り続けていること、一部の大学の一部の研究室には潤沢な研究費があるが、多くの大学、研究室では圧倒的に研究費が不足しているという状況が進んでいること、そして、安倍内閣で大いに進んだ基礎研究の軽視政策などが、研究の衰退をもたらしているといわれている。 
 そして、研究現場で言われていることは、あまりに論文業績主義が支配して、長い計画で、あるいは成果がでるかどうかはわからないが、とにかく追求してみるというような研究が、なかなかできないということ。逆に、一本ネイチャーやサイエンスのような有力学術雑誌に掲載された論文があると、その後あまり研究が進まなくても、課題に評価される弊害もあるという。
 
 そして、もうひとつは、学校教育に対する国家統制の強化である。21世紀になって、本当に自由な知的向上が必要な時代に、政府文科省は、どんどん固定的な知識を押しつけるようになっている。スタンダード化と称しているが、道徳教育の強化とあいまって、若者の知的闊達さが失われるような教育を推進しているのである。また、学校をブラック職場にして、教職の魅力を低下させている。それには、様々な要因があるだろうが、教育行政の責任は極めて重い。優秀な人材が教育界を避けてしまえは、子どもがよりよく発達する可能性が低下することは当然のことだ。もちろん、本当に優れた若者はどんどん延びているのだろうが、裾野の広さが形成されない。
 
 今後の国力は、基礎研究による新しい知的財産によって左右されるという。そのためには、研究の拡大が必須である。そうしたことが改善されないと、危惧されているように、出身地に関わりなく、ノーベル賞の受賞者は滅多に出なくなってしまうのではないだろうか。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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