ユージン・オーマンディ 不当に低く評価された指揮者3

 ずっと書こうと思っていたが、ウクライナ情勢などもあり、書けなかった話題「評論家に不当に低く評価された指揮者」の3人目、というか、最も極端に実力と日本人評論家の評価に落差のあった指揮者といえるオーマンディを取り上げたい。オーマンディといえば、「フィラデルフィア管弦楽団の華麗なる響き」とか「協奏曲伴奏の名手」などといういい方をされていた。肝心の指揮者としての実力を、まっとうに評価する評論家は、非常に少なかったという印象は、多くのひとがもっていたに違いない。いまでもウェブを検索すると、オーマンディの人気がないのはなぜか、という話題がけっこうあるのだ。もちろん、そういう話題を振るひとは、オーマンディが好きなわけだし、偉大な指揮者だと思っているのだが。かくいう私もオーマンディは非常に偉大な指揮者だと思っているが、実は、それほどCDをもっていない。子どもの頃には、「ピーターと狼」のレコードがあって、これは、子どもながらすばらしいと思っていた。ピーターを表現する弦楽器の音がさわやかだし、小鳥のフルートが超人的にうまい。各場面の描き方が、目に浮かぶようで、いまだにオーマンディ以上の「ピーターと狼」は聴いたことがない。しかし、その後は、ほとんどオーマンディのレコードを買うことがなく、CDとしては、「オーマンディ・オーケストラ作品」というソニーのボックスをもっているくらいだ。最近でたモノラル録音のコンプリートは、さすがに買う気持ちにはなれず、とりあえず、このオケボックスを、もっと聴いてみるつもりだ。

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ネトレプコがウクライナ侵攻に反対 ゲルギエフは?

 世界でトップクラスのソプラノ歌手アンナ・ネトレプコが、ロシアのウクライナ侵攻を非難する声明を出した。ロシア出身で、プーチンと親しいとされていた彼女は、ウクライナ侵攻が始まったとき、反対するように求められながら、「平和を望んでいる」と述べつつも、ウクライナ侵攻そのものには反対意見を述べず、芸術家に政治的発言を強要するのは間違っていると主張。欧米での重要な出演をキャンセルされていた。しかし、態度を変えたようだ。「ネトレプコがロシアのウクライナ侵略に反対、プーチン大統領との関係を否定する声明」という記事がそれを紹介している。
・ウクライナの戦争を明確に非難し、犠牲者と家族に思いを馳せる。
・いかなる政党のメンバーでもなく、ロシアの指導者と手を結んでいない。
・過去の言動に後妻される可能性があったことを認め、反省している。
・プーチンとは授賞式などで会ったことがあるだけで、ロシア政府から金銭的支援を受けていない。
・オーストリアに居住し、納税者でもある。
 以上のような内容の記事である。

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ウクライナ情勢が音楽にも影響

 ウクライナへのロシアの侵攻は、強く非難されるべきものだが、それが音楽の分野にまで及んでいることについては、疑問と言わざるをえない。
 https://m-festival.biz/28702「ミラノ市長がスカラ座にゲルギエフの解任を要求、ロシアのウクライナ進行で」と題する記事によると、ゲルギエフが、ウクライナ侵攻を否定する声明をださない限り、スカラ座で予定されているチャイコフスキー「スペードの女王」の新演出上演の指揮を解任するように、要求したというわけだ。既に、ウィーン・フィルのニューヨーク・カーネギーホールでの公演は、ホールとオーケストラによって、既に降板が決められているという。
 これがゲルギエフだけのことなのか、ロシア人芸術家に対して広く行われる「拒否」なのかは、この記事だけではわからないが、率直にいって、こうしたやり方は疑問だ。思い出すのは、エルシステマで有名な、ドゥダメルとシモンボリバル・オーケストラが、毎年行っているベネズエラ大統領を招いての演奏会を、ボイコットするように、マドゥロー大統領を批判する政治勢力が要求し、激しいデモなどをしたことだ。当時の大統領はマドゥローで、チャベスの後継者だった。チャベス以降社会主義政策をとって、反米だったから、親米勢力が、反政府運動をしていたという背景がある。しかし、エルシステマは、1970年代後半から始まり、チャベス大統領の以前、つまり、親米で新自由主義的な政府が育て、それを更に発展させたのがチャベスだった。しかも、エルシステマは莫大な国家予算に支えられていたから、歴代大統領への感謝演奏会はずっと以前から行われており、マドゥローだからやったわけではない。にもかかわらず、親米勢力は、マドゥローは独裁者だからという理由で、ドゥダメルに対して、指揮を拒否せよと迫った。これは、いかにも不合理な要求であり、ドゥダメルは音楽を政治利用していると非難していた彼らのほうが、ずっと音楽を政治利用していたというべきなのだ。

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クライバーのカルメン

 久しぶりにクライバーのカルメンを聴いた。この間、ミシェル・プラッソンのカルメンを聴いて、けっこう不満なところがあったので、耳直しという感じでもあった。やはり、クライバーのカルメンは圧倒的に素晴らしい。HMVのレビューをみると、もう古いなどという批判もあるが、クラシック音楽に「古い」という言葉が批判的意味をもつとは思えない。そもそも、クラシック音楽のほとんどは、古い音楽なのだから、演奏だって古いことが欠点になることはない。それに、クライバーのカルメンの演奏が、最近ではあまりやられないような演奏様式をとっているならば、単なる客観的認識として、古い形での演奏という評価は成り立つかも知れないが、クライバーのカルメンは、現役指揮者によって、現在でも大いに参考にされている演奏だと思うのである。そして、明らかにクライバーの演奏を参考にしているな、と思われる場合でも、当然のことだろうが、クライバーにはまったく及ばないのである。
 では、クライバーのカルメンが、他を寄せつけない点はどういうところか。

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指揮者の晩年 ブロムシュテット

 最後まで現役で、幸福な指揮者生活を送った人として、絶対に欠かせないのがヘルベルト・ブロムシュテットだ。もっとも、まだ現役ばりばりだから、「最後まで」というのは、どうなるかわからないが、現在の活躍ぶりをみると、そのように予想できる。現在94歳だが、活発に指揮活動をしている。といっても、私はほとんど彼のCDはもっておらず、かなり以前に買ったドレスデンでのベートーヴェン全集と、レオノーレの全曲くらいだ。あまりフィデリオは好きではないということで、後者は聴いてもいない。ベートーヴェンの全集はすばらしい。しかし、以前からの評価でも顕著だが、多くの人は、このベートーヴェン全集をすばらしいと誉めるのだが、すばらしいのはオーケストラであって、指揮者をほめるのはまた少なかったような気がするし、私の感想もそうだった。

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デラ・カーザとシュワルツコップの主役交代劇

 昨日のフルトヴェングラー「ドンジョバンニ」に関する文章を書いているとき、ドンナ・エルヴィラが、シュワルツコップからデラ・カーザに交代した点について、それまで知らなかったので、大いに関心をもった。フルトヴェングラーは「ドンジョバンニ」をザルツブルグ音楽祭で、晩年3年に渡って上演しており、そのいずれもライブがCDで販売されている。最後が1954年であり、そのメンバーで映画が撮影された訳だが、どういうわけか、常にドンナ・エルヴィラを歌っていたシュワルツコップが、映画では起用されなかった。いろいろと調べてみたが、その理由がわからない。そこで、いろいろと想像してみたくなった。この文章は、あくまでも私の推測にすぎない。

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フルトヴェングラーのドンジョバンニ

 きちんとは見ていなかったフルトヴェングラーのオペラ映画『ドンジョバンニ』を視聴した。言う必要もないほどの有名な演奏だし、フルトヴェングラーのオペラがカラー映像で残っているというのは、貴重なものだ。1954年、フルトヴェングラーが亡くなる少し前に制作されたものだ。しかし、どのような経過で、どのようにして撮影されたのかは、かなり不明な点があるようだ。カラヤンの『バラの騎士』は、実際の公演をライブ録音し、その録音を元に、あとで映像のみを撮影したとされている。ライブ演奏でミスなどなかったのかどうかわからないが、あったとしても、訂正することは可能だったろう。シュワルツコップが出演したのは、映画用の一回だけだが、他のメンバーがほとんどおなじで、数回の公演が行われたし、その録音もとってあったから、必要ならそれを使えばよかった。

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指揮者の晩年4 ロリン・マゼール

 指揮者とオーケストラは夫婦のようなものだというが、一点違うところがある。求婚はオーケストラの側からしかできないという点だ。オーケストラは、団員を募集し、オーディションを経て団員となる。その試験は非常に厳しい。しかし、団員になれば、団員として安定する。(1960年代くらいまでの、指揮者に強大な権限がある場合には、指揮者から解雇されることもあったようだが)そして、オーケストラから、指揮者を選んで、オファーするわけだ。もちろん、指揮者からの売り込みなどはあるだろうが、それでも、指揮者側はオファーを受けるかどうかだけだ。ただ、オーケストラとしての意志は、どこで決めるかは、オーケストラによって異なる。理事会があってそこで決める場合もあるし、ウィーン・フィルのような自主運営団体は、オフィスから選ばれた委員が決める場合もある。
 
 オーケストラからのオファーが確実だと誤解して、その後の10年間を鬱々として過ごしたのが、ロリン・マゼールだ。ただし、その後亡くなるまでは、再び活発な指揮活動をしたから、苦悩のあとの解脱ということかも知れない。

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指揮者の晩年3

 フルトヴェングラーは、生涯純粋な音楽家である側面と、政治的である側面をもっていた。尤も、政治的側面は、政治世界でないところでの政治性はうまく機能したが、ほんものの政治世界では、逆に利用されていたといえる。
 フルトヴェングラーが、音楽界、あるいはより広く芸術界で大きな存在になったのは、36歳という若さでベルリンフィルの常任指揮者になったことだろう。しかし、このときは、ほとんどブルーノ・ワルターで決まっていたような状況を、フルトヴェングラーの猛烈なロビー活動で逆転したと言われている。ワルターになったとしても、ナチス政権の成立とともに、追放されたろうから、その時点でフルトヴェングラーにお鉢が回ってきた可能性は十分にあるが、ワルターの音楽はウィーン・フィルとの適合性が高かったし、若い時期からフルトヴェングラーがベルリンフィルとの活動を積み上げていったことによる音楽的成果を考えれば、ベルリンフィル側がフルトヴェングラーを最終的に選んだことは、妥当だったといえるだろう。

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指揮者の晩年2

 チェリビダッケは、晩年はミュンヘンに落ち着いて、尊敬され、満ち足りた晩年を送ったように思われているが、本当にそうだったのだろうか。私にはどうもそう思えないのだ。本当に満ち足りた生活を送っていれば、同僚の、しかも世の中で大いに尊敬されている指揮者たちの悪口を、さんざんに言い立てるようなことはしないのではなかろうか。カラヤンやアバドなど、まったく無能扱いだ。クライバーが、天国のトスカニーニによる反論という形で、チェリビダッケへの反論をし、カラヤンを擁護したことは有名だ。たまたまその号のSpiegelをもっているので、大切にしている。チェリビダッケは、ドイツの大指揮者たちの多くが、ナチ協力の疑いで演奏を禁じられるか、あるいは亡命していたので、その間のベルリン・フィルの建て直しに、非常な努力をして、成果をだしていたが、次第にオーケストラとは対立関係になり、フルトヴェングラーとの関係も悪くなって、喧嘩別れのようにして、ベルリンを去り、その後は、ベルリン・フィルの指揮者だった人とは思えないような不遇ぶりだった。スウェーデンやシュトゥットガルトのオーケストラで常任を務めたが、いずれもトラブルが多かったと言われている。ミュンヘン・フィルに落ち着いたとき、チェリビダッケはかなり法外な要求(主に練習日数の確保)をだし、それをオケ側が飲んで、10年以上の関係が続いたわけだが、練習時間の確保やレコード録音をしないことなどによって、オーケストラの経営は赤字だったと言われている。辛うじて、放送だけはチェリビダッケが許可したので、関係が維持されたのだろう。そういう状況だったから、世評が高かったとしても、オーケストラとチェリビダッケの関係は、それほど良好だったとは思えないのである。

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