久しぶりにクライバーのカルメンを聴いた。この間、ミシェル・プラッソンのカルメンを聴いて、けっこう不満なところがあったので、耳直しという感じでもあった。やはり、クライバーのカルメンは圧倒的に素晴らしい。HMVのレビューをみると、もう古いなどという批判もあるが、クラシック音楽に「古い」という言葉が批判的意味をもつとは思えない。そもそも、クラシック音楽のほとんどは、古い音楽なのだから、演奏だって古いことが欠点になることはない。それに、クライバーのカルメンの演奏が、最近ではあまりやられないような演奏様式をとっているならば、単なる客観的認識として、古い形での演奏という評価は成り立つかも知れないが、クライバーのカルメンは、現役指揮者によって、現在でも大いに参考にされている演奏だと思うのである。そして、明らかにクライバーの演奏を参考にしているな、と思われる場合でも、当然のことだろうが、クライバーにはまったく及ばないのである。
では、クライバーのカルメンが、他を寄せつけない点はどういうところか。
19世紀前半くらいまでのオペラは、劇が進行する部分(レシタティーボ)と、アリアなどの音楽部分とが、かなり明確に区分されていた。唯一の例外はモーツァルトだ。形式的には、モーツァルトのオペラも、ふたつの部分は分かれているのだが、音楽部分が劇的要素を含んで進行することが多いので、例外になっているだけだ。音楽の部分で劇が進行するように作曲できたのは、モーツァルトの例外的な才能によるものだ。
しかし、レシタティーボをやめてからは、劇も音楽的に進行させる必要がでてきたし、そこにこそ、作曲家の腕が示されるようになってきた。ヴェルディの椿姫の、最も魅力的な部分は、ジョルジュ・ジェルモンが、ヴィオレッタに、娘が結婚できなくなるから、アルフレードと別れてくれと、懇願する長い二重唱だが、このなかで、何度もドラマの起伏が生じる。そして、見事に音楽はその展開をドラマの展開も表現している。
カルメンも同様で、このオペラは全編魅力的な音楽にあふれているが、やはり、最も緊張感を表現しているのは、アリアではなく、劇が進行する重唱である。
第二幕で、ホセのために、カスタネット付きのダンスをしているときに、兵に帰ることを命じるラッパが聞こえてくる。ホセは戻らねばといって、支度を始めるが、カルメンはその程度の愛だったのかとなじる。そして、ふたりの激しいやり取り、そして、有名な「花の歌」が歌われ、別れをお互いに確認したところに上官がやってきて、ホセに戻るように命じると、ホセが拒否して、密輸団もでてきて、結局ホセは仲間に入らざるをえなくなるという風に、目まぐるしく状況が転換していくわけだ。
この第二幕後半は、ドラマとしても実によくできているし、また、音楽も素晴らしい。しかし、この部分を、ドラマにふさわしい緊迫感で演奏しているのは、実はあまりないのだ。プラッソン盤も、ドラマが止まるような部分、つまり音楽を独立して聞かせる部分はとてもいいのだが、こういうドラマ進行の部分になると、緊迫感が感じられなくなってしまう。アリアと同じような調子で演奏しているのだ。
クライバーは、逆にドラマが止まるような部分でも、ドラマを感じさせる演奏をする。密輸団の男達が、女性3人に手伝ってくれと頼む五重唱だ。有名な「闘牛士の歌」とホセの登場の間にある音楽だ。クライバーとともに優れた演奏といえるカラヤンの旧盤(ウィーンフィル、プライス等)を、子どものころに買ったレコードで、何十回も聴いたものだが、この五重唱だけは、どうしても好きになれなかった。いい音楽に聞こえなかったのだ。ところが、クライバーのカルメンを聴いて、本当にショックを受けた。こんなに素敵な音楽だったのかと、初めて感じたのだ。クライバー以外の演奏は、みな、これをアリアと同列のドラマではなく、音楽を聞かせる部分のように演奏しているのだが、クライバーは、ここのなかでもドラマの転換を明確に表現している。
二人の密輸団が女性三人を勧誘する。男だけじゃなくて、女性も必要なんだというわけだ。二人は直ぐに承知するが、カルメンは断る。何故だとしつこく聞くので、仕方なく、恋をしていて、これから会うんだという。カルメンが恋をするなんて、と四人はびっくりするが、恋と仕事は別だろう、と説得にかかる。そして、相手が兵隊だと知ると、仲間にいれようと主張する。そうこうするうちに、ホセが舞台裏で、「アルカラの龍騎兵」を歌っている声が聞こえ、カルメンは一同を去らせる。
こういう場面だ。クライバーは、ここに書いたひとつひとつの場面の意味を踏まえて、明確に歌手に歌わせ、かつ、オーケストラがそれを支えるように場面を強化している。例えば、カルメンが恋をしているというのを聞いて、四人がびっくりする場面などは、何度みても面白い。歌手たちの演技が迫真的だということもある。ここは、ハインツ・ツェドニックのような、優れた準主役級の歌手が見事な演技と歌唱でリードしている。ギロー版のスコアをもっているのだが、おそらくここは、オーケストラを補強しているように思う。賛否あるだろうが、効果は絶大だ。
クライバーの指揮ばかり書いてきたが、歌手も素晴らしい。若い人には、太めの歌手が多く、見栄えがしないと不満もあるようだが、高齢者なので、私にはそういうことはあまり気にならない。歌手としての実力がいまいちなのに、容姿で人気があるというほうが、聴く気にならない。
レビューでは、エスカミリオのマズロクが、どうも評価が低いが、私には不満はない。闘牛士の歌では、歌詞の内容に合わせた表情付けなどが、堂に入ったものだし、三幕でのホセとの決闘場面も、気負い立つホセに対して、ホセを圧倒しながらも、自分は牛を殺すが、人はやらないといって、わざと劣勢になったりする余裕など、歌でよく表現している。
ミカエラは、本番が近づいてもなかなか決まらなかったそうで、やっとブキャナンに決まった。さすがにクライバーのお眼鏡に適っただけあって、清楚さと芯の強さを感じさせる。ミカエラとホセの二重唱は、カルメンのなかで最も美しい音楽だが、私の知る限り、最高の歌唱だ。クライバーの見事なテンポ感にのった指揮が見事だ。ミカエラは、カラヤン盤のフレーニのほうがいいが、ここばかりはカラヤンのテンポが遅く感じる。(ただし、三幕のミカエラのアリアでは、フレーニが圧倒的に素晴らしい。)
好き嫌いが分かれるのは、オブラスツォワのカルメンだろう。どうしても、やさしいおばさん風で、女工たちの女ボスで、けんかで相手に怪我させるような感じには見えないところが、カルメンではないと感じる人も多いようだ。確かにそうなのだが、歌は、実にカルメン的だと思う。ホセに悪態をつくあたりのドラマティックな歌い方は、プラッソン盤のゲオルギューなどはとうてい及ばない。
ホセのドミンゴは、何もいうことがない歌唱と演技だ。とにかく、ホセになりきっている。上に書いたドラマティックな表現は、ドミンゴとクライバーが組んだことによって可能になったといえるだろう。カラヤン盤でのフランコ・コレルリ、プライスのやり取りも、クライバー盤に劣らず劇的だが、コレルリの感情移入は素晴らしいとしても、とにかく、音楽的フォームが崩れすぎるきらいがある。それに対して、ドミンゴは、どんなに激情的になっても、音楽的には形がまったく崩れない。
この上演の優れた点として、演出もあげないわけにはいかない。数々の名演出を残したゼッフィレルリによるもので、これは、40年経った現在でも、ウィーンで続いている演出なのだ。youtubeに、ネルソンス指揮による演奏があるが、演出はほとんど変わっていないと思った。ゼッフィレルリ演出の特徴で、とにかくたくさんの人が登場する。特に第一幕は、ずっと群衆がたくさんいるなかで劇が進行するのだが、とにかく、この群衆が、きちんと意味のある演技をしている。例えば、カルメンがハバネラを歌うときに、カルメンは絶えず動き回って、女工や男たちにからんでいる。そして、ある紳士に寄っていって、うまく時計を掏ってしまい、紳士が気付いて返せとせがむ。カルメンはからかいつつ、結局返すのだが、そういうやり取りが、織り込まれ、聴くだけではなく、見ていても、面白いのだ。ただ、時代のせいもあるのだろうが、いかに煙草工場とその女工たちという設定であれ、女工たちが煙草をすぱすぱ吸いながら、歩き回るというのは、歌唱の邪魔になるのではないかと、いらぬ心配をしてしまう。ネルソンス盤では、女工たちは煙草を手にしているが、実際に煙を吐いてはいなかったと思う。
この盤について、クライバーの指揮姿がかっこいいという意見が多いが、いいのは音楽をつくっていく「指揮」そのものだ。