ユージン・オーマンディ2 批評家に無視された指揮者3

 オーマンディをいくつか聴いてみた。オーマンディでも、もちろん評論家に高く評価される分野はあった。協奏曲の伴奏は当然として、オーケストラの響きが華麗な曲だ。オーマンディが所属していた、アメリカ・コロンビアの重役は、「オーマンディにはビゼーのアルルの女なんかを録音させておけばいい」などと言っていたのだそうだが、確かに、アルルの女は名演奏で、歌いまわし、音の響きは、うっとりさせるものがある。
 今回選んだのは、ベートーヴェンだ。最近はあまりないようだが、以前は、音楽雑誌で、この曲は誰の演奏がいいか、という評論家や読者のアンケートが掲載されていたものだ。そういうなかで、ベートーヴェンやブラームスの推薦で、オーマンディの演奏があがることは、決してなかった。音楽はドイツ・オーストリアこそが本場で、ベートーヴェンやブラームスとなれば、さらにドイツやオーストリアのオーケストラと指揮者でなければならないという雰囲気があった。バーンスタインのニューヨーク時代とウィーンに活動の場を移して、ウィーンフィルを指揮した演奏の受け取り方を比較すればよくわかる。今でも、ウィーンフィルの演奏は、ベートーヴェン演奏のベストのひとつとしてあげる人は多いが、ニューヨーク・フィルの演奏の評価は高くない、というより、ほぼ無視されている。それでも、バーンスタインは、評論家によっても評価されていたし、来日すれば、ニューヨーク時代でも大きな話題になった。

 オーマンディの場合には、評価されるのは「華麗なるフィラデルフィア・サウンド」であって、ベートーヴェン、ブラームスの渋く、重厚な音楽はまったくあわないとも思われていた。
 それでまず「英雄」を聴いた。
 オーマンディが日本公演のリハーサルで、30分もかけたという最初のふたつの和音だが、これが非常に充実した響きで鳴っている。オーケストラの楽器は、奏者が音をだすべく操作してから、実際に音が鳴るまでには、楽器によって時間差がある。大体が、低音楽器になるほど、鳴るまでに時間がかかるのだ。だから、低音の響きを重視する演奏家は、低音楽器が、ほんの一瞬早く音を出すような演奏スタイルになっている。カラヤンが、N響に客演したとき、それまでローゼンストックによって、ぴったり揃えて音が出るように訓練されていたのに、カラヤンは、コントラバスが一瞬早く音が鳴るように徹底的に訓練したという。そうすることによって、重厚な響きがでるというわけだ。しかも、曲が「運命」だったので、この練習は、N響にとってけっこう難しかったようだ。つまり、「英雄」の出だしは、極めて単純にふたつの主和音をオーケストラ全体で鳴らすだけなのだが、
・一斉に楽器を演奏する。このときには、低音の出が遅くなるので、音が軽めになる。
・一斉に音がでるように、低音楽器が一瞬早く演奏する。
・低音が一瞬早く音が鳴るようなタイミングで、低音楽器が早めに演奏する。
という3つのパターンがある。多くのオーケストラは一番最初のスタイルで演奏するが、ドイツ系は3つ目のスタイルをとる場合が少なくない。おそらく、一番難しいのが2番目で、オーマンディ、フィラデルフィアの演奏は、このスタイルで演奏しているように聴こえるのだ。オーケストラの音は一緒になるのだが、低音がきいているので、充実した響きになるわけだ。だから、この楽器間の発音のタイミングの調整で、オーマンディは30分もかけたに違いない。
 主部に入ると、あとはずっと充実した美しい響きで、スムーズに進行していく。楽器間のバランスや重なり具合なども心地よい。何か非常に安心感のなかで、音楽を楽しんでいるような感じになるのだ。しかし、逆に、それが不満だという人がいることも、なんとなくわかるような気がする。というのは、「英雄」の第二楽章は葬送行進曲であって、葬式に参加した人のなかには、慟哭で咽び泣く人も多い。そういう英雄の死なのだろうから、激しい感情の表出が各所に現れる。そういう雰囲気にふさわしく、徹底的に激しい表現をするのを好む人からすれば、オーマンディの演奏はあまりにあっさり聞こえる。音楽としては慟哭を表現している場面でも、形が整っているのだ。フルトヴェングラーこそベートーヴェンだと思っている人からすれば、こんなのはベートーヴェンじゃない、ということになりそうだ。しかし、古典派の交響曲は標題音楽ではないと解釈すれば、オーマンディの葬送行進曲も粛々と進む厳粛な音楽であることにはかわりなく、整っていることは間違っていることでもない。
 こうした部分以外は、文句なく楽しめる演奏だった。しかし、あえて、「英雄交響曲」をオーマンディで味わいたいという気分になるかといえば、そこまで惹きつけるものがあるとも思えなかった。
 
 次に聴いた8番では、オーマンディの印象ががらりと変わった。これは素晴らしい演奏だ。
 正直なところ、8番はあまり聴かない。自分で演奏した経験がないこともあるし、ベートーヴェンの交響曲はボックスで買うので、最初のほうは確実に聴くが、8番あたりになると、飛ばして9番にいってしまうことが多い。だから、あまり細かく味わったことが少なかった。
 オーマンディの8番は、最初から極めて力感にあふれている。そして、非常に細かい音の動きが明瞭に聴きとれる。第一楽章で主題が提示され、経過句になると中音の弦が刻みを続けるのだが、このバランスが非常に素晴らしい。音は小さく、メロディーをまったく邪魔しないのだが、はっきり聞こえるのだ。そういう音のバランスが常に最上に保たれている。ベートーヴェンの偶数番号は叙情的などと誤解されることが多いが、偶数番号もやはりベートーヴェンらしい、ダイナミックな部分はたくさんある。このオーマンディの8番の第1楽章はその豪気さを確認させてくれた。
 続く第2楽章は、実にチャーミングに演奏されていて、弦楽器が美しい。それは第3楽章のメヌエットでも同様だが、管楽器と弦楽器の溶け合いに細心の注意を払って演奏されている。
 とにかく、この8番の演奏は、すばらしくりっぱなものだった。
 
 続いて第九だ。しかし、さすがに、この宇宙のような壮大な曲になると、オーマンディの体質とはあわない感じがした。ベートーヴェンは、楽譜に書かれていることをきっちり演奏すれば、最大限の効果があるように書かれており、妙な小細工は不要なのだ、と私たちのオーケストラにやってくる指揮者たちは、みな同じことをいう。ただし、きっちりやることが重要で、絶対に手を抜いてはいけない、と。
 もちろん、オーマンディの演奏は手を抜いているわけではないのだが、あまりに同じ調子で演奏が続いていくのだ。極端にいうと、メトロノームにあわせて演奏しているような感じすらする。第九は8番までの交響曲とは違う。8番まではコンスタントに交響曲を書いてきたが、8番以後、9番までにはかなりの空白があるのだ。その間ベートーヴェンはスランプだったという説が強い。そして、長年の苦闘のあと、新しい境地に達して作曲されたのが第九だ。そして、まったく耳が聞こえなくなっていたベートーヴェンだから、頭にうかんだ音楽をそのまま楽譜にした、そして、当時の記譜法では、十分に書き切れなかった表現が多い。だから、楽譜通りに演奏するというより、どうしても表現意欲によって、メトロノーム的表現から外れざるをえない部分がたくさんある。この曲は、古典派の音楽ではない。8番までと同じ感覚でなされた演奏といえる。だから、不満が残った。ただ、第3楽章の弦楽器の響きは、他の演奏では聴くことができないものだ。
 
 ベートーヴェンの交響曲を3曲聴いて、オーマンディのベートーヴェン演奏は、非常にレベルの高い、独特なものだという印象だった。まず楽譜を正確に、虚飾なく演奏するのだが、オーケストラは磨き抜かれ、多少無骨なイメージのあるベートーヴェンなのに、極めて洗練された都会的な雰囲気に包まれている。都会的に整った演奏といったらよいだろうか。しかし、やはり、多くの人が感じるベートーヴェンは、整った洗練を破って出てくるエネルギーに満ちた音楽なのではないか。そういう圧倒されるダイナミックさが、オーマンディのベートーヴェンにはあまり感じられないのだ。そこが、ドイツ音楽、ドイツ人の演奏を好む、日本の評論家には受けが悪かったのだろうと思われた。私自身、ベートーヴェンを聴くとき、オーマンディを好んでとりだそうとは思わないが、しかし、非常にりっぱな演奏であるとは言い切ることができる。
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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