鬼平犯科帳 平蔵はなぜ出世できなかったのか

 長谷川平蔵は、火付盗賊改方という役職のまま死去している。そして、その役職に就いた者は、2,3年で次の役職に転出していく例が多いとされる。事実、平蔵の父親の宣雄も、火付盗賊改方のあと、京都町奉行に栄転している。正しい比喩かどうかは異論もあるだろうが、江戸町奉行は、現在では東京都知事に近く、火付盗賊改方は警視庁刑事部長くらいなのだろうか。しかも、警視庁の部分も知事部局であると考えた上だ。だから、町奉行と火付盗賊改方とでは、かなりの格の違いがあったと考えられている。鬼平犯科帳でも、平蔵は、いつまでこんな仕事をしなければならないのかと嘆く部分が、何度も出てくる。実際に、長谷川平蔵は、町奉行になることを強く希望していたとされているし、また、江戸の庶民たちにも人気があったので、そうなることを期待されていたという。しかし、何度もチャンス、つまり江戸、大阪、京都などの町奉行職の交代が、平蔵の火付盗賊改方任期中にあったにもかかわらず、彼が指名されることはなかった。もっとも、父の宣雄が京都町奉行になったのは、53歳のときだったから、平蔵も長生きしていれば、チャンスがあったとも考えられる。しかし、火付盗賊改方を2,3年務めたあと、なんらかの奉行職に栄転していくことは、よくあることだったから、8年もの間火付盗賊改方のままだったことは、議論の対象になってもおかしくない。そして、長谷川平蔵は、あくまでも小説の話としても、「理想の上司」などといわれている割りには、自身が希望していた上のポストには行けなかったのだから、皮肉なものだ。

 
 何故、平蔵が出世できなかったかについては、まったく相反する見解がある。
 ひとつは、平蔵があまりに火付盗賊改方として有能だったために、余人をもって代え難いということで、彼に継続してやらせるしかなかったというものだ。平蔵が火付盗賊改方に抜擢されるきっかけになったのは、天明の江戸一揆の鎮圧に抜群の功績があったからだったといわれているし、記録上でも火付盗賊改方としての業績は顕著だったから、そういう評価もできなくはない。池上正太郎も、この説を基本にしているように思われる。小説のなかでも、何度か解任されているが、やがて凶悪な盗賊が江戸を荒し回るので、長谷川平蔵を呼び戻さざるをえなくなったという設定をしている。
 しかし、この説には難点がある。というのは、町奉行は、火付盗賊改方の職務を含んだものだといってもよいのだ。警察機能は、町奉行の重要な一要素だ。だから、実際に犯罪捜査もやるし、裁判もやる。だから、町奉行に平蔵が転出したとしても、江戸の治安を守るための仕事から外れるわけではないのである。
 では、火付盗賊改方以外の町奉行の機能、主要には行政機能だが、これが長谷川平蔵としては、向かなかったから、彼を採用できなかったのだということはどうだろうか。しかし、むしろ、その点については、平蔵の能力は、十分に示されていた。それは人足寄場の企画と実行とにおいて十分に示されている。池波の小説によって長谷川平蔵が有名になる前は、歴史研究者によって評価されていたのは、石川島に建設され、運用された人足寄場によってであった。これは、世界的にも極めて早い段階での、職業訓練所であり、後には、刑務所での懲罰と職業訓練を併用した施設であった。当時、江戸に大量に流入してきた無宿者が、江戸の治安を悪化させていることの対策として、長谷川平蔵が提案して、当初の運営をまかされ、軌道にのせたわけだ。しかも、そのための資金を捻出するために、為替相場のようなことで収益をあげ、運営資金にあてたという点でも、優れた経済運営や行政手腕を発揮したことがわかる。だから、火付盗賊改方から江戸町奉行に転出させたときに、より大きな江戸治安対策を任せられることは、ほぼ期待できるわけである。だから、「あまりに有能」説は、成立しないといえる。有能さが、まっとうに評価されれば、それこそ火付盗賊改方から町奉行に転出するほうがよかったわけでる。父親の宣雄は、火付盗賊改方としても有能であり、京都でも優れた実績を短期間にあげたとされているのである。
 
 では、逆の解釈はどのようなものか。それは、松平定信に嫌われていたという説である。実は、平蔵は、田沼意次の時代に頭角を現した人物であって、田沼へ贈られた賄賂を管理する役職についていた時期があるというくらいだから、悪い意味ではないが、田沼的体質をもっていたと考えられるのである。人足寄場を建設する資金を、為替相場のようなことやって実行するというのは、そうした表れだろう。そういう面が、田沼政治を清算する立場であった松平定信にとっては、面白くない人物であったろう。さらに、若い時期には放蕩が激しかったのも、小説でも描かれているが、事実だったのだから、定信そしてその取り巻きとしては、平蔵を出世させるわけにはいかなかったのかも知れない。
 池波正太郎は、もちろんこの立場で鬼平犯科帳を書いてはいない。平蔵は定信の信任厚く、厚遇されたように書いているが、何故そうしたのかはわからない。事実として、定信に平蔵は嫌われていたのだから。
 
 では、そういう不遇な境遇を平蔵はどのように受けとめていたのか。記録としては、出世したかったようだから、不満だったのだろうが、小説の世界では多少異なる。平蔵が、泥棒を追いかけ続ける人生に、不満を漏らす台詞は、たくさんでてくる。そして、財産を傾けつつ(小説では私財を投入して、捜索活動をしているとされている)、こんな仕事をいつまでやらなければならないのかと嘆く場面もある。ではやめてしまえばいいではないか、といわれで、正義のためとか、悪い奴をやっつけるのだとか、そういうことではなく、昔の江戸城での務めの退屈さに比べて、盗賊相手の仕事は、日々新しいことが起き、それに対して、有らん限りの努力を傾注して対決していくという、創造的なことが、自分には向いているのだと語るのである。言葉をかえていえば、自分に新しい要素が付け加わっていくという実感があるのだろう。今風にいえば、成長しているという実感である。そういう活動だからこそ、部下たちへの対応も、最大限の信頼と最善の能力の引き出し方を心がけることになる。
 世間的には出世を阻まれているとしても、創造的な仕事をこなしているという充実感によって、生き甲斐を手に入れていることが、「理想の上司」の所以かもしれない。そして、最終的には、極めて重要な成果をあげた火付盗賊改方として、歴史に名を残したのだから、長年務めたことはよかったのだろう。
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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