夭逝した演奏家1 ジャクリーヌ・デュ・プレ

 演奏家のなかには、これから円熟の時期を迎え、偉大な演奏家としてたくさんの録音を残すことができたはずであるが、その前に亡くなってしまい、それにもかかわらず、残された録音によって、いまだに多くの人に聴かれて、称賛されている演奏家が何人かいる。そういうなかで、何人かをとりあげていきたい。こういう話題をとりあげようと思ったのは、山岸明子氏の『心理学で文学を読む』(新曜社)を読んだことがきっかけだ。心理学は、分析の具体的事例として、文学作品をとりあげることは少なくないが、それは個人の事例をもちだすことが、プライバシーなどの問題を起こすことから、消極的な代替策として行われる。ところが、この本は、最初から文学作品を心理学的に分析的に読もうという、非常にユニークな発想で書かれたもので、とりあげられている作品も古今東西多岐にわたっていて、文学の読み方に疎い私にも、たいへん興味深く読める。そして、その「続」のなかに、「ジャクリーヌ・デュ・プレの生涯と才能教育」という章がある。これは、話題になった「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ」という映画の原作となった姉の回想録を分析の対象にしている。私は、この映画について、所属の臨床心理学科で協同して書いた著作のなかで、書いたことがあり、このデュ・プレは、まったく「ほんとうのデュ・プレ」ではなく、あくまでも姉の通してみたデュ・プレであると解釈している。

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リチャード・ボニング 評価されない指揮者だが

 国際的に活躍している、あるいはしていた指揮者は、ほとんどが熱烈なファンがいるものだが、リチャード・ボニングが好きだという人は、あまり聞かない。というか、まったく聞いたり、読んだりしたことがない。そして、CDの批評でも、ボニングの指揮を誉めたレビューはほとんどなく、指揮者がボニングでなければ、名盤になっていたのに、というようなレビューすらある。経歴をみても、オペラ指揮者ではあるが、有名オペラ劇場の音楽監督になったことはないようだ。しかし、オペラファンには名前はよく知られているし、また、CDの録音も多数ある。だから、レコード会社からは、有力指揮者として遇されていたことはまちがいない。
 では、なぜ、評価が低く、また人気があるとはいえないのか。そして、本当に実力のない指揮者だったのか。

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指揮者のこと

 先週の日曜日にファミリーコンサートの本番があり、今週から9月の演奏会のための練習にはいった。
 練習初日だが、本番を振る指揮者ではなく、代振りの人がきた。おそらく、我がオーケストラでは初めて迎える人だと思う。どういう経歴かなども、まったく知らされないから、年齢などもわからない。本番の指揮者は、演奏会当日のプログラムに詳細に書かれるからわかるのだが、そのときになってのことだ。だから、オーケストラと指揮者は、練習そのものしか接しない。もちろん、話しかければ応じてくれるし、そうしている人もたくさんいるが、私は、そうしたことをしたことがない。とにかく、練習そのものが大事だ。
 この文章を書こうと思ったのは、昨日初めて練習をつけてくれた指揮者が、とてもよかったからだ。オーケストラで実際に演奏したことのない人には、指揮者という存在について、それほど詳しくはわからないだろう。多くの人にとって、一度やってみたいこととして、必ずあがるのが「プロ野球の監督」と「オーケストラの指揮者」である。そういう憧れの職業であるが、大変な能力を必要とする仕事なのである。

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我がオーケストラの演奏会

 今日は、私が所属する市民オケ、松戸シティフィルハーモニーのファミリー・コンサートだった。ということで、いつものようなブログを書く時間がないので、演奏会のことを書きたい。
 曲目は、ウェーバー作曲「舞踏への勧誘」、ビゼー作曲「組曲ローマ」、そして、ブラームスの交響曲2番だった。
 クラシック音楽は、作曲家が創作した楽譜通りに演奏するのが、大原則なので、編曲は滅多に演奏されない。モーツァルトがヘンデルのメサイアを編曲したバージョンがあるが、CD1、2しかでていないし、実際の舞台で演奏されることは、現在ではほとんどないに違いない。モーツァルトが編曲しても、こうなのだから、やはり、編曲ものは異端として扱われる。ところが、2曲だけ、むしろ原曲よりも有名で、頻繁に演奏されるのが、この「舞踏への勧誘」と、ムソルグスキー作曲、ラベル編曲の「展覧会の絵」だ。ともに原曲がピアノ曲、編曲者が有名な作曲家であり、かつすぐれたオーケストレーションの名人である点が共通している。「舞踏への勧誘」は、ベルリオーズの編曲だ。いかにもロマン派の曲らしく、舞踏会で男性が女性を踊りに誘い、若干のやりとりのあと、おどりだす、そして、最後に挨拶して終わるというものだ。男性がチェロに割り当てられ、我がオーケストラには、チェロの名手がいるので、ここは実に、後ろで聴いていてもほれぼれした。

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HIMARIを聴く

 吉村妃鞠が、N響の定期演奏会で演奏したことを、youtube動画をみて知ったので、早速聴いてみた。HIMARI となっているので、既に国際的に活躍していることであり、五嶋みどりが midori として活動していることに倣ったのかも知れない。確かに世界中で活躍しているのだから、吉村妃鞠よりは、親しまれるに違いない。
 熱心に追いかけているわけではないので、久しぶりに聴くのだが、音がきれいであることにびっくりした。以前の、本当にまだ小さい子どもで、かなり小さいバイオリンをつかっているときには、こんな小さい楽器で、あのような音がでるのかとびっくりしたけれども、それでもやはり、大人のプロソリストの音ではなかったが、今回のN響との演奏では、完全に大人の美しい響きだった。まだかなり身体は小さいし、フルサイズではないのだろうが、コメントによるとストラディバリウスだというが、ウィキペディア情報ではアマティで、やはり分数バイリオンということだ。私には、正確なところはわからないが、本当に美しい音だった。しかし、演奏は、圧倒的にすばらしいとまではいえないものを感じた。というのは、前に聴いたコンクール時のものよりは、ずっと大人しく、お行儀のよい演奏なのだ。そして、オーケストラ伴奏よりも、ピアノ伴奏のほうが、すばらしい演奏になっていることが多いように思われた。

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高い目標をもつこと(大谷とエル・システマ)

 今日は、普段雑多に考えていることについて書く。
 大谷翔平は、誰にも大きな驚きを与える存在だが、私が最も驚くのは、生活のすべてを野球の向上のために使い、常識的な付き合いすら断ってしまうほどの、ストイックさである。日ハムの新人としてはいったときに、先輩の食事の誘いを断ったとか、それは今年ヌートバーと再開して、食事に誘われたときにも、「寝るから」といって断ったというように、一貫した姿勢であり、ニューヨークで試合のためにいっても、まったく街にでないので、街の印象もないという徹底ぶりだ。それだけではなく、食事も、完全に野球のためのものにして、定期的に血液検査をし、それに基づいて栄養を考えるのだそうだ。味はほとんど気にしないとか。練習方法も、おそらく専門のスタッフがいるのだろうが、二刀流の実現するための必要なトレーニングを開発し、無駄なことはしないのだそうだ。

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オペラは死んだのか?

 車田和寿氏のyoutubeで、「オペラは死んだのか?」というテーマの映像がでた。大変興味のあるテーマなので、早速みた。
 実は、オペラは死んだということは、これまでにも、いろいろなひとによって言われており、それぞれまったく違う角度から、そうした問題を扱っていた。
 
 第一は、新しく魅力的で、大衆的な人気を獲得するオペラが作曲されなくなった、という意味で言われる。たとえば、最後の人気オペラは、リヒャルト・シュトラウスの「バラの騎士」で、100年も前だ。それ以降、オペラはたくさんつくられたが、たとえば、人々が自然に口ずさむようなメロディーをもっていて、人気のあるオペラは作曲されていないという。私もそれには同意する。「ボツェック」は高く評価されているが、大衆的人気があるとはとうてい思えないし、その一節が自然にでてきて、口ずさむなどということはないだろう。

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指揮者の晩年7 オットー・クレンペラー 心身の苦難を乗りこえて

 オットー・クレンペラーは、指揮者としては、かなり波乱の富んだ人生を送ったひとだ。若いころから、双極性の精神疾患を患っていたといわれ、それが原因で、歌劇場支配人やオーケストラとトラブルを起こしていた。更に、ヒトラー政権から逃れて渡ったアメリカで、脳腫瘍にかかって、大きな手術をしている。更に、飛行機のタラップからおりるときに、踏み外して大怪我をしたり、更に、ホテルで寝煙草が原因でシーツが燃え、かなりの火傷をして、大がかりな皮膚移植手術を受けている。
 こうした身体的なトラブルだけではなく、アメリカの市民権を得ていたが、戦後初期にハンガリーの歌劇場で指揮をしていたために、マッカーシー旋風が吹き荒れていたときに、共産主義と関係があると疑われて、パスポートの没収にあったりしている。

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生の演奏会か録音か

 先日、音楽会をこよなく愛するひとと話す機会があった。極論すれば、上手なCDより、多少劣るとしても、生の演奏会のほうを聴きたいという意見だ。そこは、重なる部分もあるが、違う部分もあると感じた。
 もちろん、録音は所詮音の缶詰であって、実際の演奏ではない。ライブ演奏といっても、人際には、ほとんどの場合修正してある。人間が演奏する以上、ミスはあるから、リハーサルや複数の演奏会の録音をとっておいて、ベストのものを主体に、他の録音でミスを修正するのである。クラシック音楽に、文字通りのライブ放送がほとんどないのは、ミスなしの演奏など、ほぼ無理だからだ。スポーツの場合には、相手がいるので、当然ミスは多い。しかし、それも観戦の面白さだと思うひとが多いだろう。

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トロバトーレを聴く

 トロバトーレは、最も好きなオペラのひとつだ。最近は、一人の指揮者が同じオペラを、何度も録音・録画するが、以前はオペラの全曲録音はかなり大変な作業で、カラヤンやショルティでも、複数回録音したオペラは少ない。しかし、カラヤンはトロバトーレを4種類出している。ミラノ・スカラ座とのモノラル(主演はマリア・カラス)、ベルリン・フィルとの録音(レオタイン・プライス、ボニソッリ、カプッチルリ)、ウィーン・フィルとの録画(ドミンゴ、カプッチルリ)、そして、カラヤンとしてはめずらしいザルツブルグライブ(プライス、コレルリ)だ。最後のライブは、カラヤンが正式にセッション録音したわけではないが、生前から市販されており、かつカラヤン・コンプリート、オペラ集にも入っているから、発売そのものは認めていたのだろう。他には4回というのは、バラの騎士くらいだろう。

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