(昨日書いてアップを忘れていたものです。)0
実はうかつにも、『レコード芸術』のことを今日まで知らなかった。それだけ、『レコード芸術』には関心がなくなっていたということだ。しかし、院生時代から結婚初期くらいまでは、ひんぱんに買っていたし、それ以後図書館で読むことは、たまにあった。しかし、最近は、『レコード芸術』を手にすることはほとんどなくなり、興味もなくなっていた。クラシック音楽関係の雑誌で廃刊になったものは、すでに複数あるから、『レコード芸術』もそのうち廃刊になるだろうとは思っていた。そもそも、レコードというものは、通常、SPやLPなど、回転させて溝にきざんだ波を針で拾って、音にするという器具のことだとすれば、CDはレコードではない。最近でも、LPレコードは発売されているが、私の知るかぎり、すべて過去の名盤の復刻であって、新録音はまず見当たらない。そういう意味で、レコードそのものが歴史的存在になっているのだから、『レコード芸術』という雑誌が生き残る余地はあまりなかったといえる。もちろん、レコードは現在ではCD、DVD、BDなどに発展してきているのだから、それをレコードと考えて、『レコード芸術』がこれまで生き残ってきたのだろう。しかし、やはり、決定的なのは、CDすらもたない、聴かないひとたちが、若い世代のほとんどになってきたことが、『レコード芸術』の販売量を決定的に減少させたのだろう。
私は、ごく最近は、五十嵐著作集の仕事で忙しくて、CDを聴かなくなっているが、それでも、まだCD派だ。ステレオ装置にかけて、スピーカーをとおして、部屋一杯に音を鳴らして聴くのが好きである。ヘッドフォンで音楽を聴くのは好きではないし、感じがまったく違うので、なじめない。やはり、スピーカーで聴くほうが、実際に生の演奏会での響きに近いのである。
しかし、若い世代(といっても、後期高齢者である私からみて若いということだから、40代くらはいまでは若者だと思っている)は、ほぼ、ネット上の音楽をイヤフォンかヘッドフォンで聴くだろう。youtubeは無料でかなりのものを聴くことができるし、複数ある有料のストリーミングサービスとサブスクリプション契約すれば、ほぼどんなものも、録音されたものは聴くことができるとさえいえる。CDを買うよりずっと安くすむ。こうなれば、いちいち『レコード芸術』のような堅い解説や紹介文を読まなくても、どんどん実際の演奏をネットでいろいろと聴く方が、有効だ。なにも批評家の意見を参考にするまでもなく、いろいろと聴きくらべをすることで、自分なりの評価を形成していくことのほうが、おもしろい。ネット上のレビューも参考になる。なにもお金をだして、時間をつかって専門家と称する人の意見を知る必要もないのだ。
そういうひとたちに多くなっているのは確実だから、『レコード芸術』が売れなくなるのは自然で、やがて廃刊になることは、以前からわかっていたことだろう。廃刊しないでほしいという署名運動もあるそうだが、それで続けて行けるなら、廃刊になどしないかっただろう。
出版界は、大きな岐路にたっている。新刊図書はたくさんあるのに、出版界の多くは危機的だとされる。新聞の発行部数も、朝日にかぎらず、ほとんどが減少している。しかし、だれかが情報を提供し、論評を書き、音楽では、演奏会があり、録音がなされ、販売される。こういうことは、変化していないのだ。その流通の構造が激変しているのである。
ベルリンフィルは、アバドの時代までは、CD市場の最大の人気演奏家集団だった。とくにカラヤンの時代には、毎月1,2枚の新譜がでて、しかもそれが間違いなく売れた。カラヤンはアンチもたくさんいたから、2人が同じ盤の批評をする『レコード芸術』は、存在価値が大いにあった。一人が誉め、一人が批判するようなことも珍しくなかった。ラトルの時代になって、CDのだし方がまったく変ってしまい、レコード会社との契約ではなく、ベルリンフィルがレコード会社を設立して、デラックスのCDをだいたいボックスで出すようになった。そして、過去の録画も含め、ライブ映像をネットで配信するようになったのである。2万余をだすと、一年間、ライブ演奏会を視聴し、過去の映像を見放題になる。世界中に会員がいるから、わざわざCDなどださなくても、大いに収益があがっているはずだ。実力と人気のあるアーティストにとっては、かつてのようなレコードよりはずっと、効果的な表現媒体になっている。
ネット時代になると、月刊という周期も、非常にまだるっこしい感じになる。ネットというのは、とにかく時間が強烈に速く進んでいくものなのだ。以前であれば、外国の事件は、知られること自体が稀だったろうが、新聞ができ、ラジオ、テレビの時代になると、次第に知られるようになり、かつ速く知られるようになった。しかし、それでも、テレビ中心であれば、数日後には報道されることになった。それが現在のように、当日に知られるようになったのは、テレビ自体がネットを使うようになったあとである。そして、いまでは、ネットとテレビは融合しているから、ほとんどリアルタイムで知られるようになるし、オリンピックなども、リアルタイムで世界中で放映されるようになる。つまり、このスピード感に月刊誌はあわないといえる。いまは、かつての人気月刊誌も、軒並み部数を減らしているのは、そうしたスピード感のおそさも原因となっているだろう。
他面では、一月単位であるために、じっくりと情報をあつめ、しっかりとしたデータベースを構築するような要素が『レコード芸術』にはあった。そういう情報、レコードディレクター、使用マイク、会場等々が正確に記されているような雑誌は他になかったといわれている。『レコード芸術』という雑誌をとくに好んでいた人は、そうした少数のマニアであろう。しかし、大多数の人にとっては、使用マイクなど、あまり気にしないだろう。話題の演奏を早く聴ける、有名な過去の演奏も自由に選んできける。そういう環境がある以上、CDは見向きもしなくなり、また、自由にたくさんのものを比較視聴できる環境がある以上、批評家よりは自分の耳を信じるようになる。
冷静に考えれば、『レコード芸術』の廃刊はやむをえないという感じである。