演奏家のなかには、これから円熟の時期を迎え、偉大な演奏家としてたくさんの録音を残すことができたはずであるが、その前に亡くなってしまい、それにもかかわらず、残された録音によって、いまだに多くの人に聴かれて、称賛されている演奏家が何人かいる。そういうなかで、何人かをとりあげていきたい。こういう話題をとりあげようと思ったのは、山岸明子氏の『心理学で文学を読む』(新曜社)を読んだことがきっかけだ。心理学は、分析の具体的事例として、文学作品をとりあげることは少なくないが、それは個人の事例をもちだすことが、プライバシーなどの問題を起こすことから、消極的な代替策として行われる。ところが、この本は、最初から文学作品を心理学的に分析的に読もうという、非常にユニークな発想で書かれたもので、とりあげられている作品も古今東西多岐にわたっていて、文学の読み方に疎い私にも、たいへん興味深く読める。そして、その「続」のなかに、「ジャクリーヌ・デュ・プレの生涯と才能教育」という章がある。これは、話題になった「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ」という映画の原作となった姉の回想録を分析の対象にしている。私は、この映画について、所属の臨床心理学科で協同して書いた著作のなかで、書いたことがあり、このデュ・プレは、まったく「ほんとうのデュ・プレ」ではなく、あくまでも姉の通してみたデュ・プレであると解釈している。
ただ、姉が描いた回想録やそれを元にした映画が「ほんとう」のデュ・プレを表現しているかどうかは、ここでは問題にしない。演奏家としてのデュ・プレには、まったく関係がないし、私生活がどうであれ、録音や映像として残されたデュ・プレは、ほんとうにすばらしいチェリストだった。私は、市民オーケストラでチェロを弾いているのだが、おそらくあらゆるチェロ弾きにとって、デュ・プレは憧れと崇拝の対象だろう。
デュ・プレは、小さい頃からチェロを学び始め、(多くのチェリストが最初はバイオリンなどをやって、途中からチェロに転向するのとは違っていた。ただ、最近のトップチェリストは小さい頃からチェロを弾く人が多いようだ。)16歳で正式に演奏家としてデビューし、27歳くらいで筋肉が徐々に動かなくなる病気になって、引退せざるをえなくなった。だから、10年と少しの演奏家生活であって、円熟した大家に成長する余地を残したまま、舞台からは去っていった。しかし、幸いにも、デビューまもないころから、非常に高く評価されたために、多くの録音を残し、EMIでは、17枚分のCDが残されている。その他に映像もあるし、ライブ放送の音源が発売もされている。
デュ・プレがデビュー当時からいかに高く評価されたかは、比較的早い時期に、最高級のストラディバリウスのチェロが、2つも無料で寄贈されたことでわかる。実は、このような最高品質の楽器が、無償で貸与されたり贈与されることは、その奏者が、たんなる人気ではなく、実質的な実力を評価されている証拠になる。五嶋みどりも13、4歳のころに、10くらいならんでいる著名な楽器のなかから、好きなものを選びなさいといわれて、その後かなりの間、その楽器をつかっていた。(あとで買い取ったようだ)
さて、デュ・プレのチェリストとしての魅力は、雄渾な音色と、音楽に完全に没入することで紡ぎだされる表現力だ。バーンスタインは、「女性のチェリストは、繊細だが小さな音でしか弾けない人が多いが、デュ・プレは、男性以上に大きな音をだせる」と語っていたが、単に大きな音というのではなく、雄大に広がるような音なのだ。デュ・プレが亡くなったあと、より高い評価をうけていた方のチェロをヨー・ヨー・マが買い取って、現在でもつかっているのだが、ヨー・ヨー・マの音のほうが、ずっと繊細で軽い。デュ・プレの音のほうが、広がりがあって強い音なのだ。同じ楽器でも、はっきりと違う印象をあたえる。
デビュー以来、デュ・プレは、イギリスの大指揮者バルビローリに高く評価されて、なんども共演し、エルガーのチェロ協奏曲は、現在でも最高の演奏として、ゆるぎのない評価を獲得している。「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ」でも、この曲がテーマ曲のように何度も出てきて、まるで、この映画のために作曲されたかのような、ぴったりの印象をあたえていた。(ただし、演奏は、バリビローリとの共演ではなく、夫であるバレンボイムとのものだったと記憶している。)20世紀最高のチェリストの一人であるロストロポーヴィッチは、デュ・プレの思い出のために、この曲を生涯録音しなかったといわれている。この曲の冒頭近くに、チェロが2オクターブを駆け上っていく部分があるが、病気のために引退せざるをえなかったデュ・プレの、無念な気持ちが表現されているのではないかとも思われてくる。
エルガーの協奏曲が、デュ・プレ最高の演奏とされることが多いが、私は、シューマンの協奏曲のほうが、さらに一層すばらしい演奏だと思う。オーケストラが和音を鳴らしているなか、チェロがゆったりとはいってきて、ゆっくりあがっていくのだが、この音色に圧倒される。チェロを弾いている者なら、誰にでもわかるのだが、なぜあんなにすばらしい音色がでるのだろうか、と感嘆せざるをえないのだ。ヨー・ヨー・マもなにかのインタビューで、この部分の、その音色のすばらしさ、あのような音をだすことの難しさを語っていた。
演奏は、基本的には聴くものだが、やはり、映像で演奏している姿をみると、その受け取りかたも違ってくるし、なお一層、感動が深まることが多い。デュ・プレが、バレンボイムの指揮で、ドボルザークの協奏曲を演奏しているライブの映像が、youtubeにあるが、これをみると、以上述べたようなことが、視覚的にも確認できるだろう。
ただ、録音のなかでも、残念なものもある。悪い演奏というのではないが、すでに少し発病していて、コントロールが完璧ではなくなった最晩年の録音である、ベートーヴェンのチェロソナタ全曲だ。これは、当初はスタジオでのセッション録音を予定していたらしいが、体力的に難しいということで、ライブの一発録りになったらしい。全盛期のデュ・プレでは考えられないような、音が一瞬かすれたりする部分がある。演奏が破綻しているわけではないし、十分にすばらしい演奏なのだが、やはり、病気でない時期であれば、もっとすばらしかったろうと思わざるをえないのだ。