今回は指揮者のギド・カンテルリである。指揮者は、他の楽器のように、10代でデビューし、20代ではほとんどトップグループにいる、などということは、けっしてない音楽家たちである。30代で本格的な指揮活動を始められる人が極めて少なく、それにはかなり優秀でなければならない。だいたい、50歳くらいまでは若手とみられ、60代が中堅、70を超えると大家と受け取られる。なんといっても、100人の、しかも多様な楽器群の演奏家たちを指揮するのだから、音楽的に優れていないと問題にならないだけではなく、楽団員に尊重される人間的雰囲気がなければならない。50代くらいまでは、年上の団員がたくさんいるし、なかには音楽学校で指導をうけた先生がいたりするわけだ。ところが、70代になると、そういう団員は定年でいなくなるし、音楽学校の教授たちも引退している。そして、だれよりも長い経験をしているので、おのずと指導・指揮に従う雰囲気がでてくるものなのだ。
だから、若くして、トップクラスのオーケストラを頻繁に指揮して、そういうポストに就く者はほんとうに稀である。そういうなかで、36歳で亡くなってしまったカンテルリは、指揮者としては、もっとも夭折した天才指揮者であった。亡くなる少し前にミラノスカラ座の音楽監督になっていた。ちなみに、比較的若く亡くなったが、すでに一流の指揮者の仲間いりをしていたひととしては、ケルテス(海水浴をしていて溺死したといわれている)、シッパース(癌で死亡)などがいる。しかし、かれらの年齢はもっと高かった。
カンテルリが亡くなった原因は、ヌヴーと同じく、飛行機事故だった。
カンテルリといっても、よほどのクラシック音楽、とくに指揮者に拘っているひとでなければ、知っているひとはすくないだろう。1920年にミラノ近郊で生れ、1956年に亡くなった。幼少のころから、天才少年として有名だったようだが、第二次世界大戦で召集され、その後脱走して、レジスタンス運動に加わったりしたようだ。戦後直ちに指揮者として頭角をあらわし、トスカニーニに認められて、トスカニーニのNBC交響楽団にも招かれている。1956年は、すでにステレオ録音が登場してはいたが、ほとんどの録音はまだモノラルでなされていたという時期だ。だから、この時期の録音のほとんどはモノラルだが、わずかにステレオがある。カラヤンの有名な「バラの騎士」はステレオ録音である。カンテルリは、さすがに36歳でなくなっているので、録音は少ないが、10枚以上残されており、ステレオもわずかながらあるそうだ。私自身は、実は一枚ももっていない(この夭折で紹介しているなかでは、CDをもっているのはデュ・プレだけだ)。だが、youtubeでほとんど聴くことができるので、いくつか聴いてみた。
トスカニーニは、「自分の若いころとよく似ている」とカンテルリを評価していたそうだ。ウィキペディアは、それにたいして、ふたりの演奏は、あまり似ていないように書いているが、みそは、「若いころ」のトスカニーニというところだ。どのような演奏家でもそうだが、若いころと晩年ではけっこう違うスタイルに変化していく。指揮者は80代でも現役のひとが多いこともあり、身体上のこともあるのだろう、晩年になるにしたがって、ゆっくりしたテンポをとるようになるのがほとんどだが、トスカニーニは例外的に、晩年のほうが、あきらかにテンポが速くなっている。壮年期のトスカニーニ、とくにニューヨークフィルを指揮している演奏は、落ちついたテンポで、明解でありながら、徹底的に歌う演奏が特徴だった。ところが、晩年、とくに戦後の演奏では、せかせかした感じと、歌うよりは、アタックの強い演奏が多くなる。なぜかはわからないが、私は、トスカニーニは放送用のオーケストラで、ラジオ放送のための演奏をしていたので、時間に縛られるために、速くなっていったのかと想像している。
カンテルリの演奏は、こうした晩年のトスカニーニとは、たしかにあまり似ておらず、テンポはずっと落ちついていて、よく歌う演奏だ。カンテルリが天才少年として活動し始めたころには、トスカニーニはイタリアを去って、アメリカで活動していたから、戦後になって初めてトスカニーニの演奏を、じかに聴いたはずである。だから、若いころはサーバタなどを聴いていたのではないだろうか。そう考えると、たしかにトスカニーニのいうように「若いころの」トスカニーニとは似ている側面があるようにも思われる。
録音はわずかであり、かつ大量の同曲録音がある名曲ばかりだから、特別カンテルリに惹かれる演奏があるというわけではないが、どれも非常にオーソドックスで、むしろ安心して聴けるという印象だ。だから、普通にその後も活躍していけば、次第に個性もでてきて、ほんとうに優れた指揮者になっていったことは間違いないだろう。
カンテルリのこととは関係ないのだが、彼のリエンツェの序曲をきいていて、思い出したことがある。
私たちの市民オーケストラが、リエンツェ序曲を演奏したときのことは、忘れられない事故があった。リエンツェの出だしは、トランペットのPから始まって、トラハンペットが長く音を伸ばしながらクレッシェンドしていき、そこにオーケストラ全体が重なっていくようにつくられている。そして、そのパターンが3度ほど繰り返されるのだ。指揮者が、トランペット奏者に、タンギングをしないで、無から音がでてくるように吹いてくれ、と注文をだしたのだ。私は、そんなの無理にきまっていると思ったが、トランペットではないし、だまっていた。演奏会の最初の曲目で、しかも、最初の音をたった一人で吹き出すというのは、かなりのプレッシャーだ。そして、金管楽器が、タンギング(tuと発音して音をだす)をしないで音をだすのは、そうとう難しいのだ。この二重の困難を強いられたのは、入団したばかりの若いひとだった。心配したとおり、この音をだせず、指揮者が棒をふりおろしたのに、なかなか音がでてこない。でてきても、当然乱れている。オーケストラもどうあわせていいかわからない状態だ。一回目、そういう失敗して、二回目にうまくいくはずがないから、オーケストラ全体の混乱が三度つづき、建て直しに時間がかかった。この指揮者は、他にも、いろいろな、団員のあまり納得できない要求をする傾向があり、結局、その後なんどか演奏したあと、オーケストラとしては呼ばなくなった。そして、この演奏会のあと、そのトランペット奏者は、やめてしまった。プロなら当然の要求かもしれないが、アマチュアの団員に、プロでも難しいことを要求する指揮者がいるが、私は遠慮したいところだ。やはり、無理をさせて、演奏が破綻するよりは、多少、ああ無理だから無難にやっているのな、と思われても、きちんと演奏できるような解釈がいいと思うのだ。
チェリビダッケが、ベルリンフィルと険悪な関係になったのは、かなり高度な要求をして、それに応えられない高齢の団員をやめさせると公言していたことだった。実際にフルトヴェングラーのあとをついだカラヤンは、彼等が定年になるのをしんぼう強くまった。カラヤンは最初に音楽監督になった歌劇場で、コンサートマスターをやめさせようとして、逆に彼に銃殺されかかり、双方がやめさせられてしまい、その後かなりポストをえるのに苦労したという苦い体験をしていて、その後人間関係を大事にすることを学んだようだ。
トスカニーニは、癇癪もちで、汚いことばで団員たちをどなりつけたことで有名だが、カンテルリは、そこまででないにしても、けっこうきついいいかたをしていたともいう。時代的に、指揮者の横暴が大目にみられていたこともあるが、youtubeにあるベートーヴェン5番(運命)のリハーサル風景をきいてみたが、厳しいが、乱暴でもなかったから、やはり、戦後世代の指揮者として、協調的にオーケストラを育てていくタイプの指揮者になったのではないか。