守秘義務と公益性 木原事件の新展開

 もはや「木原事件」といってもいいような展開になってきた。最初はわずかだった週刊文春の記事によるyoutube番組も、がぜん多くなってきた。そして、わずかながら、大手メディアも少しずつ書かざるをえない状況がうまれている。ついに、当時中心的に木原氏の妻に事情聴取をしていた担当刑事が、すでに退職したということもあり、多くの事実を実名で、文春記者に語って、それが記事になったのだ。その内容は、ここでは詳しく紹介することはやめるが、(ぜひ文春を読んでほしい)ここで、新しいまったく別の問題が生じたといえるので、そちらにしぼって考えてみたい。
 担当刑事だったひとにとっては、当然、捜査内容を自身の判断で公表することは、守秘義務違犯になる。そのことは、当然本人は承知で、語っている。そういう決意をさせたのは、警察庁の幹部が、先日記者会見で、捜査のうえ、事件性がないことが確認されたと述べたことだった。当然現場の刑事たちは、事件性があり、殺人事件であることを確信して捜査をしていた。それが突然中止になったことだけでも悔しい思いをしているのに、警察の最高幹部が、事件性がないと、記者会見で断言した。つまり、嘘をついたわけである。このことにたいしての怒りが、文春記者に語る決意をさせたわけだ。

 
 さて、この守秘義務は、どうなるのだろうか。これは、当然単純な法律問題ではない。民間企業では、企業内の不正行為にたいして、手続を踏んで告発をした者を保護する規定がある。残念ながら、その保護はあまり有効ではなく、だいたい告発者はひどい仕打ちを受けたり、あるいは退社を余儀なくされるそうだが、公務員の場合には、そうした規定は、ないようだ。まして、警察官が取り調べた内容を、個人の意思で外部に告げる、つまり守秘義務を侵すことなどは、これまで、私の記憶にない。通常であれば、この守秘義務違犯にたいしては、厳罰を課すことになるだろう。しかし、企業での内部告発が、公益性をもつことで保護されるのだが、この場合の捜査過程の暴露は、公益性があるだろうか。もちろん、この事件を追ってきた者にとっては、公益性は、充分すぎるほどにあるといえる。これは単に、事件がうやむやになりそうになることを防ぐという意味ではない。現実に捜査がかなり進展し、犯人に近づきつつあったのに、強引に捜査が打ち切られただけではなく、警察の最高幹部から、「事件性がなかった」という虚偽の報告が記者会見で告げられたことに対してである。この虚偽報告は、殺人事件があったと考えるべきほぼ確実な状況であるのに、それがなかったと断定する(警察幹部が断定する)ことは、殺人犯人を野放しに、警察が公式に認めることになる。これは、あきらかに警察の使命を裏切ることであるし、社会にたいする警察としての裏切り行為ともいえる。警察幹部の公式発言は、たんなる発言ではなく、捜査に対する方針を示すものだからだ。
 
 もし、地方公務員法違犯、つまり、守秘義務違犯で、この退職刑事が起訴されれば、当然、彼は、公益性を主張して、そのように主張しなければ、警察自体が犯しているきわめて悪質な行為をとめることができず、みすみす殺人犯を社会にそのまま生かし、免罪してしまうことになる、それをとめるために、公表せざるをえなかったのである、これは、社会正義にのっとった行為であると主張するだろう。元刑事は、文春記者の取材に応じただけではなく、明日記者会見をするのだという。これは、さすがに大手メディアも無視できないだろう。あるいは、警察は、その前に、彼を逮捕するかも知れない。警察の不正をあばこうとした警察官を逮捕した事例が、かなり前だがあったような気がする。しかし、そこまでやったら、警察としては、恥のうわ塗り以外のなにものでもない。だが、そのまま記者会見させるのも、警察上層部にとっては、かなりの恥だ。
 
 この事件は、ほんとうに異例の事件だ。殺人事件と、政府の高官がからんだ捜査妨害というふたつのまったく異なった要素が絡み合っている。警察が国民の信頼をえられるか、かなりきわどいところにいるような気がするのである。この守秘義務違犯は、公益性があると、私は当然考える。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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