二期会「蝶々夫人」 後悔し続けたピンカートン?

 今日東京二期会の公演「蝶々夫人」を東京文化会館で見た。実は「蝶々夫人」はあまり好みのオペラではなく、プッチーニは「ボエーム」だけあれば、と思っているほうなのだが、今回はイタリアの若きマエストロ、バッティストーニが指揮をするというので、出かけた。バッティストーニは、「トロバトーレ」「オテロ」に続いて、3回目だ。1987年生まれというから、まだ32歳だが、指揮者として既に巨匠ではないかと思われるほどの活躍をしている。「トロバトーレ」と「オテロ」は、ヴェルディだからやさしい、とは言わないが、直球勝負でいけると思うが、「蝶々夫人」はかなり変化球が多いし、前二曲と違って、音楽的魅力において少々劣るから、指揮者の力量がシビアに試されるのではないか。スコアをみると、私などにもわかるのだが、拍子感からかなりずれたメロディーがよく出てくるが、それは、rit. を大げさにやるように書いてある。しかし、いきなりrit.を遅くすると、つながりが不自然になるから、自然にテンポを緩めながら、rit.を伸ばすように演奏しなければならない。オケと歌手をあわせるのも、こういうときには、難しいだろう。そういう部分がふんだんにあるし、テンポも頻繁に変わる。マーラーの後期の作品も同じような傾向があるので、お互いに影響しあっているのだろうか。
 昭和の終わり頃か、あるいは平成の始め頃か、「蝶々夫人」は日本を侮辱しているのではないか、特に、「蝶々夫人」は初演が失敗しているために、何度も書き直しが行われているが、その過程で、そうした侮辱的要素が生まれてきたのではないか、というような議論が、何度か行われていた。 “二期会「蝶々夫人」 後悔し続けたピンカートン?” の続きを読む

大作曲家の作品1

 昨日は、私の所属している松戸シティフィルの演奏会だった。松戸市がオリンピックにおけるルーマニアのホスト市になっているということで、ルーマニアの代表的な作曲家であるエネスク(以前はエネスコと呼ばれていた)の作品を演奏した。そして、指揮者として、ルーマニアのオーケストラの常任指揮者を務めている尾崎晋也さんが振った。海外で活躍されている大変優れた指揮者で、やさしい雰囲気で厳しいことをどんどん指摘することで、私個人としては、普段なら諦めてしまうような難しいパッセージもなんとか弾けるようになろうと、かなり練習したつもりだ。本番も普段よりは弾けたと思う。
 ルーマニア祭のような感じで、新聞(朝日、毎日)が取り上げてくれたために、オケ単独の演奏会としては、けっこう聴衆もたくさん入ったような気がする。
 ブログで、自分のオケの演奏会のことは、いままで書いたことがないが、書く気になったのは、大変珍しい「ルーマニアの詩」という曲が入っていたからだ。CDでも2、3種類しかでておらず、ユーチューブにも2つくらいしかない。交響詩のジャンルにはいると思うが、2楽章で30分もかかる。珍しいというのは、この曲が作品1だということもある。つまり、まだ音楽院の学生だったころの作品らしく、エネスクが、後年苦しいときには、この作品の作曲していたころのことを思い出しながら、自分を励ましていたと、指揮者の尾崎さんが教えてくれたのだが、作品1というのは、みんな青春の思い出なのだろうか。 “大作曲家の作品1” の続きを読む

歌舞伎を初めて見た

 今年度で大学も終わるので、大学からのプレゼントとして、歌舞伎の券を贈られた。一度くらい見ておきたいと思ってはいたが、私はオペラファンなので、まあ実際に見に行くことはないだろうとは思っていたのだが、こういう機会はぜひ利用させてもらおうと思って、昨日出かけた。場所は日比谷線の東銀座駅から直接いけるようになっているのだが、直接いけるのは、展示やお土産屋さんの並んでいるビルで、実際に歌舞伎座の劇場に入るには、外に出てから、道路に面している入り口から入る。暑くて、一斉に並んで入るので、かなり不便な仕組みだ。ロビーも狭いし、普段慣れている音楽会場とは違う。だが、この夏いったバイロイトの劇場はロビーがお世辞にも広いとはいえなかったので、似たようなものかも知れない。バイロイトは、休憩時間中は、外に(といっても庭園だが)出て,ビールやワインを飲む。歌舞伎座は、多くの人がお弁当を買っていて、座席で食べていた。休憩時間中は飲食オーケーなのだそうだ。音楽会とずいぶん違うと思ったのは、上演が始まってからも、時間的制限なく、遅刻してきた人を席にまで、係の人が案内していたことだ。クラシックの音楽会では、演奏が始まったら、通常はなかに入れないか、入ったとしても、席にはつけずに、後ろに立って聴かなければならない。 “歌舞伎を初めて見た” の続きを読む

バイロイトでパルジファルを鑑賞

 8月5日、バイロイトでパルジファルを鑑賞してきた。私自身は、ワーグナー党ではないので、好んでワーグナーを聴くわけではないが、なんといっても、オペラ好きではあるので、一生に一度はバイロイトにいきたいと思っていた。今回別の用でドイツにいき、バイエルンに滞在していたので、バイロイトのチケットを申し込んだところ、とれたのはラッキーだった。演目としては、あまり聴いたことがなく、親しまれているとは言い難いパルジファルだったが、ワーグナーが唯一、バイロイト劇場の音響を前提に書いたオペラなので、よかった。
 しかし、粗筋などの解説を読んでも、パルジファルというオペラは、どうもよくわからない。しかも、ワーグナーが書いた台本のように演出が行われることは、最近はほとんどないようで、特にバイロイトは、荒唐無稽ともいいたいほど、妙な演出となっている。音楽や演奏よりも演出が話題になる傾向は決していいとは思わないが、あまりに原作とはかけ離れた演出をされると、話題にせざるをえなくなり、演出家の術策にはまってしまうということだろうか。 “バイロイトでパルジファルを鑑賞” の続きを読む

ウィンナワルツのウィーン風

 昨日は、私の所属する市民オケのコンサートだった。観客も多かったのは、曲のせいか、コンチェルトをやったせいか、あるいは、天気がよかったせいか。演奏する側としては、やはり聴衆が多いといい感じだ。ミスもいくつかしてしまったが、眠気覚ましのチェコレートを食べたせいか、途中、疲れはしたが、最後まで気力がもった。
 ブログにこれまで、自分の出た演奏会について書いたことなどなかったのだが、普段考えていることを、今回の演奏曲目で再度考えさせられたので、書いてみる気持ちになった。
 前プロという最初の曲で、ヨハン・シュトラウスの「春の声」を演奏した。演奏会全体のテーマを「春」としていて、最後のシューマンの交響曲第一番が「春」という題なので、5月にふさわしいというわけだ。「春の声」は、シュトラウスのワルツでも、特に人気の高い作品で、メロディーはクラシック音楽のファンではなくても知っているだろう。ところが、ウィンナ・ワルツというのは、非常に演奏が難しく、ちゃんとしたウィンナ・ワルツはウィーン・フィルの専売特許のようにいわれている。ベリルンフィルにしても、シカゴにしても、シュトラウスのワルツをやっても、ウィーン風にはやらない。欧米文化を土台にしているひとたちでも、感覚的にできないのだ。 “ウィンナワルツのウィーン風” の続きを読む

音楽の国際化5 録音とネット

 グッドールは、「音楽を変えた5大発明」の最後に「録音」をあげていたが、当然、映像も重要な要素である。音楽そのものの想像に、楽譜の発明が甚大な影響を及ぼしたことは、既に述べたが、録音技術の発展、そしてインターネットの発達が、楽譜発明時とはまったく逆の方向で、作曲に大きな変化をもたらしたといえる。

 かつては、音楽を鑑賞するには、演奏の場にいなければ不可能であった。それでは、特定の音楽が広まるには、限界がある。印刷術が発明され、普及する前は、楽譜があったとしても、作曲された音楽は、作曲家が活動している範囲を大きく超えて鑑賞されることは稀であったし、また、作曲家が死んでしまうと、一部の人間以外には、その音楽を知ることが難しくなった。バッハが、死後忘れられた作曲家となったとよくいわれるのは、そのためである。しかし、音楽の専門家たちにとっては、バッハは決して忘れ去られることはなかったのであり、モーツァルトもベートーヴェンも、作曲を学ぶときには、バッハの音楽を熱心に研究したのである。しかし、それは、バッハの書いた楽譜や、誰かが写譜したものを、誰かが所有していて、それを見ることができたときに、可能だっただけである。
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音楽の国際化3 平均律

 今回は、グッドールの5大発明のなかの「平均律」である。もっとも、平均律よりは、そこに至る無数ともいえる音楽家たちの苦闘が主題ともいえる。
 最初から余談になってしまうが、確かニュートンが、宇宙のことを理解するようになればなるほど、この宇宙は神が創造したものだという畏敬の念が強くなる、神の存在を意識せざるをえなくなる、と言っていた。しかし、音律の問題を考えると、とても神など存在するはずがないという意識になる。もし神が存在するとしたら、全知全能などとはほど遠い無能な存在か、あるいは能力があるのだとしたら、相当にいじの悪い存在だと思う。
 さて、音楽が民族文化の相違を超えて、同質性がかなりの程度あるのは、音が自然現象だからだということを前に述べた。この音律の問題こそ、自然現象であることの特質が出てくる。そして、音律の実践的・理論的発展があったのは、ヨーロッパだけであるが、理論に限っていえば、かなり広い世界で同じことが論じられていたのだそうだ。いろいろな書物に、これから紹介することと、ほとんど同じことが、中国の古い文献に既に出てくるそうである。では、何故、音律はクラシック音楽の専売特許のようになったのか、それを今回考えてみよう。
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何故クラシック音楽が国際化したのか(1)

私が担当している「国際教育論」という授業で、今年度始めて、「文化の国際化」を扱いました。昨年までは、ほとんど戦争やグローバリゼーション等の固いテーマばかりやっていたのですが、残り少ない勤務ということもあり、自分の趣味である音楽も、国際社会の重要な要素でもあり、扱ってみました。音楽に親しんではきましたが、これまで正確には知らなかったことを調べて、わかったことも多々ありました。
 その内容は、自分で作成している「教科書」にはないので、ここで、講義資料をもとに、文章化して掲載します。

 文化も国際化の重要なテーマである。文化は通常民族固有のものと理解されているが、実際には、ある特定の民族や国家で生まれた文化が、形をかえることはあっても、基本的に同じ文化が多民族や外国で盛んになることは、いくらでもある。しかし、すべての文化内容が国際化するわけではなく、むしろ少数が国際的に拡大していくといえる。

クラシック音楽とは何か
 芸術の国際化。音楽の国際化を考える。国際化している音楽の代表は、クラシック音楽である。
 ただし、ここでいうクラシック音楽とは、古い音楽というわけではなく、正確に記譜された音楽のことをいう。記譜されているから、後代に残るし、また、外国でも演奏される。例えば、ジャズは基本が即興演奏だから、その場で消えてしまう。すべてのジャズの音楽家がそうではないが、記譜するのは、ジャズとして邪道だいう。しかし、アメリカにガーシュインという作曲家が現れて、音楽のジャンルとしては明らかにジャズだが、それを記譜して出版した。私自身、市民オケで「パリのアメリカ人」という音楽を演奏したことがある。元々は映画音楽だが、そのなかの曲をつなげて、組曲としての「パリのアメリカ人」という曲を作った。楽譜があるから、世界中で演奏されている。これは、音楽の分類としてはジャズ音楽だが、記譜されて、正確に伝えられるからクラシック音楽である。だから、記譜された形で作曲されれば、それは、21世紀に作られてもクラシック音楽である。 “何故クラシック音楽が国際化したのか(1)” の続きを読む

クラウディオ・アバドのボックス

 2014年になくなったアバドは、現代最高の指揮者の一人であったし、私のもっとも好きな指揮者の一人だった。自分で勝った初めてのオペラのレコードが、アバドの「セビリアの理髪師」だったが、すべてとはいえないが、かなりのCDを所有している。交響曲ボックス、オペラボックス、ソニーのボックス、そしてDVDボックス(25枚組)である。新しく購入したオペラボックスとDVDボックスについて、感想を書いておきたい。

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