何故クラシック音楽が国際化したのか(1)

私が担当している「国際教育論」という授業で、今年度始めて、「文化の国際化」を扱いました。昨年までは、ほとんど戦争やグローバリゼーション等の固いテーマばかりやっていたのですが、残り少ない勤務ということもあり、自分の趣味である音楽も、国際社会の重要な要素でもあり、扱ってみました。音楽に親しんではきましたが、これまで正確には知らなかったことを調べて、わかったことも多々ありました。
 その内容は、自分で作成している「教科書」にはないので、ここで、講義資料をもとに、文章化して掲載します。

 文化も国際化の重要なテーマである。文化は通常民族固有のものと理解されているが、実際には、ある特定の民族や国家で生まれた文化が、形をかえることはあっても、基本的に同じ文化が多民族や外国で盛んになることは、いくらでもある。しかし、すべての文化内容が国際化するわけではなく、むしろ少数が国際的に拡大していくといえる。

クラシック音楽とは何か
 芸術の国際化。音楽の国際化を考える。国際化している音楽の代表は、クラシック音楽である。
 ただし、ここでいうクラシック音楽とは、古い音楽というわけではなく、正確に記譜された音楽のことをいう。記譜されているから、後代に残るし、また、外国でも演奏される。例えば、ジャズは基本が即興演奏だから、その場で消えてしまう。すべてのジャズの音楽家がそうではないが、記譜するのは、ジャズとして邪道だいう。しかし、アメリカにガーシュインという作曲家が現れて、音楽のジャンルとしては明らかにジャズだが、それを記譜して出版した。私自身、市民オケで「パリのアメリカ人」という音楽を演奏したことがある。元々は映画音楽だが、そのなかの曲をつなげて、組曲としての「パリのアメリカ人」という曲を作った。楽譜があるから、世界中で演奏されている。これは、音楽の分類としてはジャズ音楽だが、記譜されて、正確に伝えられるからクラシック音楽である。だから、記譜された形で作曲されれば、それは、21世紀に作られてもクラシック音楽である。


 したがって、ここでいう何故クラシック音楽だけが、国際化したのかというのは、このような意味におけるクラシック音楽を指していることを、断っておきたい。
国際化するスポーツとしないスポーツ
 スポーツではそれが明確に認識できる。国際的に広まっているスポーツは、古代ギリシャで生まれたものと、19世紀イギリスで生まれたものが目立つ。陸上競技の多くは、古代オリンピックで実施されていた種目である。その典型がマラソンだろう。
 サッカーと野球は、両方ともイギリス発祥だ。イギリスでは、野球はあまりやっていなくて、イギリスでは、クリケットというスポーツとして起こった。それがアメリカにわたって野球になった。そして、ある程度野球は、国際化しているが、サッカーと比べれば、とてもかなわない。しかし、クリケットは、旧イギリス植民地くらいでしか行われていない。イギリスのBBCテレビのスポーツ報道では必ずといっていいほどインドやオーストラリア、パキスタンなどで行われているクリケットの試合の結果が報道されるけれども、おそらく他の国のニュースでは、報道すらしていないのではないか。CNNのスポーツニュースでクリケットの結果を見た記憶がない。
 では、なぜ、クリケットより野球のほうが広まっているのか。野球よりも、サッカーのほうが広く普及しているのか。サッカーのアメリカバージョンともいうべきアメリカン・フットボールも、サッカーほど国際化していない。むしろ、世界ではマイナーなスポーツといっても過言ではない。こうした広がりの違いは何故生まれたのか。
 また、日本発祥のスポーツを考えてもよい。日本のスポーツで国際化しているのは、柔道と空手である。柔道はオリンピック競技として定着しているから、国際化しているスポーツといってよいだろう。空手も広まってはいるが、東京で開催されるから、オリンピック種目になったが、継続するかどうかはまだわからない。
 より日本的なスポーツとしての相撲は、定期的な大会が行われているというのは、日本以外にはないだろう。日本で活躍している外国人力士も、おそらく他の格闘技などをやっていて、日本にきてから相撲をとり始めた者が多いと思われる。「国技」などと称していることでもわかるように、日本の相撲関係者は、柔道のように、相撲を国際化しようとは思っていないだろう。では、柔道、空手、相撲の違いは何故生じたのか。
 こうしたことは、ここでの課題ではないので、ぜひ関心をもった人は、いろいろと調べてみてほしい。

音楽と舞踊は国際化しやすい
 芸術もいろいろな分野で国際化のあり方は変わっている。
 文学は、もっぱら翻訳されて他国で普及する。翻訳という作業は非常に難しいので、誤解も生むだろうし、また、翻訳者がいない言語では、なかなか普及しない。
 絵画や彫刻は、オリジナルがひとつある形だから、文学や音楽のような国際化は、不可能といえる。手法などが伝わるか、あるいは、移動しての展示、写真などで広まっていくのだろう。
 音楽と舞踊はもっとも国際化しやすい分野といえる。ちなみに、ソ連時代、芸術家の活動は国家によってコントロールされていたので、自由を求める優れた芸術で亡命者がたくさんいた。しかし、亡命者の大部分は音楽家と、舞踊家であり、音楽家も器楽奏者がほとんどだった。文学者の亡命はソルジェニツィンくらいで、彼も結局ソ連に戻ってしまった。アメリカでは、歓迎されて受け入れられたが、結局、英語で執筆活動をするには、壁が厚かったのである。器楽奏者や舞踊家は、言葉を媒介しないから、外国で活躍しやすいことは、容易にわかる。
 しかし、いくら言語を介しないといっても、音楽や踊りのあり方が、民族性に強く制約されて、他の文化背景の人たちには、受け入れにくいとしたら、事情が変わるに違いない。
 音楽も舞踊も、あらゆる種類の音楽や舞踊が国際化しているわけではない。阿波踊りは、日本に限定されているだろうし、また、日本国内でも、他の地域で普通に踊られているわけではない。音楽も、一国に留まっている民族音楽は無数にあるだろう。
 では、それにもかかわらず、何故音楽は、他のジャンルに比較して、国際化しやすいのか、そして、国際化した音楽は、西洋のクラシック音楽であるのは何故なのか、それを考えていこう。

 アメリカの有名な作曲家であり、指揮者であったレナード・バーンスタインは、音楽の基礎は、人類が遺伝的要素としてもっているもので、だから、民族を超えて広まるのだと主張している。遺伝的要素があるということを、チョムスキーの普遍文法の理論を応用する形で紹介している。(ハーバード講義)
 しかし、私はそれは多少無理があると考える。音楽の文法が遺伝的に存在しているというのは、証明が難しいし、おそらく当分はそれが事実であったとしても、不可能だろう。遺伝的要素として考えるよりは、音とは何かという視点から考えれば、普遍性をより説得的に理解できる。
 つまり、音楽は、規則性をもった音階を必ず土台にする。音階として、いくつの音から構成されているかは、民族特有の性格をもっているが、音そのものは、物理現象だから、民族性とは無関係である。世界中どこにいっても、同じ物体を同じように扱って音をだせば、同じ音がでる。音階は、音の高さの相違から生まれるわけだから、それぞれの異なる音の物理的性質を周波数として、一意的に決まる。だから、音階、言い換えれば、音律がどのように決まっていくかは、まずは物理学や数学の領域で研究されてきた。だから、これは、民族文化とは無関係なのである。

音楽が国際化しやすいのは自然現象が基礎だから
 バーンスタインは、音階、音律の原初形態が、倍音列から生まれるとしている。倍音とは、ある音をだしたときに、その音の周波数の2倍、3倍、4倍・・・という音がなっているもので、その音列の並びは、下記のような数式で表されるという。率直に、私にはまったく理解できないが。音が自然現象である以上、自然科学で分析できるというわけだ。


そして、この倍音列で、適宜高い音をオクターブ下にずらすことによって、近似的ではあるが、現在の12音に近い音列が定まるとされる。もっともバーンスタインは、上の7番目の音である変ロ音は、イ音との中間的な音であって、便宜的に変ロで示しているとしている。(ハーバード講義) この倍音は、金管楽器を演奏する場合に、同じ指遣いでいくつもの音がでる原理でもある。
 このようにみれば、音楽が国際化しやすい理由が、バーンスタインのように、人類に遺伝的に組み込まれていると考えるよりも、地球上どこでも同じ「自然現象」としての「音」を、人間がつかみ取っていくからだと考えるほうが、より正確だろうと思う。
 しかし、各国、あるいは各地方の民俗音楽は、国際化することなく、近代になって、ヨーロッパで発展したクラシック音楽が国際化したというどういうことなのか、具体的にみてみよう。
 日本的音楽である越天楽(宮廷雅楽の代表)を、本来の楽器で演奏したものと、オーケストラ用に編曲された演奏、そして、日本人の宮城道雄が作曲した「春の海」をオリジナルの尺八と琴の演奏と、西洋の楽器であるフルートとピアノで演奏したものを聴いてみよう。

民族楽器の音楽をクラシックの楽器で演奏
 越天楽 
https://www.youtube.com/watch?v=BZ0lcZKFQ5M

https://www.youtube.com/watch?v=eHToH9t8G2c

春の海
https://www.youtube.com/watch?v=29WgFkhv62w
https://www.youtube.com/watch?v=SbPGYZ_IEgU

 多少のニュアンスの違いはあっても、少なくとも西洋の楽器で演奏しても、自然に聞こえる。しかし、逆に、クラシック音楽を日本の古来の楽器で演奏したらどうだろう。残念ながらそういう映像を見つけることができなかったので、予想に過ぎないが、例えばベートーヴェンの「運命」交響曲を、雅楽の楽器で演奏しても、違和感なしに聴くことはできないだろう。
(もっとも、日本古来の楽器で、モーツァルトの「フィガロの結婚」を上演する予定になっているが、ぜひ、インターネットあるいはDVDで聴けるようにしてもらいたいと思う。当日残念だが、いくことができないので。ただ、モーツァルトの音楽の魅力を低下させずに、自然に表現できるとは、私は思えない。)

 クラシック音楽として発達した様式、楽器等で、民俗音楽を演奏できるし、また、いわゆるクラシック音楽ではないジャンルとされる音楽も、作曲、演奏行為では、クラシック音楽が開拓してきた技術が使用されているということである。次にそのようになった理由を考えていこう。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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