今日(24日)TBSサンデー・モーニングで、子どもの権利委員会が、日本政府に対して、親の体罰等に関する勧告を行ったというニュースを流した。あまり詳しくは触れられなかったのと、このことをうっかり見過ごしていたので、調べてみた。数年前から、私は、大学の講義で、教師の懲戒権を検討し、教師の懲戒権そのものを削除すべきであるという見解を紹介している。もちろん、そういう学説の紹介であるが、私自身の意見でもある。
今回の勧告は、今年になって発覚した千葉県野田市の少女虐待死ではなく、昨年起きた東京目黒区での5歳の少女虐待死事件を受けてのことだろうと思われるが、野田市の事件が騒がれているときの勧告だけに、政府も検討を始めたようだ。
事件等はよく知られているので、勧告の内容をまず紹介しておく。平野裕二氏の「子どもの権利・国際情報サイト」に掲載されている訳文を使用させていただく。https://www26.atwiki.jp/childrights/
詳しく知りたい人は、ぜひこのサイトをチェックされることを勧めたい。
野田や東京の事例に関わる「体罰」に関しての勧告は以下の通りである。
体罰
25.委員会は、学校における体罰が法律で禁じられていることに留意する。しかしながら、委員会は以下のことを深刻に懸念するものである。
*(a) 学校における禁止が効果的に実施されていないこと。
*(b) 家庭および代替的養育の現場における体罰が法律で全面的に禁じられていないこと。
*(c) とくに民法および児童虐待防止法が適切な懲戒の使用を認めており、かつ体罰の許容性について明確でないこと。
26.委員会は、体罰に関する一般的意見8号(2006年)を参照しながら、委員会の前回の総括的勧告(パラ48)を想起するとともに、締約国に対し、以下の措置をとるよう促す。
*(a) 家庭、代替的養護および保育の現場ならびに刑事施設を含むあらゆる場面におけるあらゆる体罰を、いかに軽いものであっても、法律(とくに児童虐待防止法および民法)において明示的かつ全面的に禁止すること。
*(b) 意識啓発キャンペーンを強化し、かつ積極的な、非暴力的なかつ参加型の形態の子育てならびにしつけおよび規律を推進する等の手段により、あらゆる現場で実際に体罰を解消するための措置を強化すること。
簡潔にまとめれば、
・学校での体罰禁止規定が不十分
・家庭や養育施設の体罰が禁止されていない
・民法で懲戒の活用を認めていて、体罰に許容的である
学校での体罰禁止は、行政的運用としてはかなり徹底していると思うが、これ以上は社会的通念の問題になると思う。
この勧告を報道しているのは、朝日新聞で、毎日や読売は検索にはかからなかった。
朝日新聞は、2月14日付けで、東京都の家庭における体罰禁止条例を制定する動きを紹介し、罰則がないものの、暴言も対象として禁止しようとしていると報じている。しかし、他方、体罰としけつの線引きがあいまいだとの「戸惑い」の声も紹介している。19日付けで、厚労相が、児童虐待防止法の改正案として、家庭での体罰禁止を盛り込むことを検討し、親の懲戒権も検討するとしている。20日の社説では、柏市の児童相談所の不適切な対応を批判するとともに、児童相談所の置かれた困難な状況の改善も必要であると指摘している。
民法で、親の懲戒権を規定した親権規定は以下の通りである。
第八百二十二条 親権を行う者は、第八百二十条の規定による監護及び教育に必要な範囲内でその子を懲戒することができる。
この条文の改正前には、「懲戒場にいれることができる」という文言があったが、改正で削除された。削除前には、この条文の通常の注釈に、懲戒の内容として、「 なぐる・ひねる・しばる・押入れに入れる・蔵に入れる・ 禁食せしめるなど」が書かれていたようだが、今はそうした解釈はあまりみられないようだ。成川豊彦『合格ノート 民法 親族・相続』第一版では、懲戒の具体的内容に関する駐車が書かれていない。
他方、大滝七夕『ライトノベルで学ぶ民法条文親族法編』は、「これも常識だわね。特に論点はないわ。次の条文。」と書いてすましているから、「懲戒権」そのものの問題性は意識していないようだ。
懲戒とは何か
様々な定義があるだろうから、私の見解を述べる。
「懲戒は、組織の目的や活動を守るために、組織に不都合な行為をしたものを、組織規定によって、不都合な行為をやめさて、行為者を組織から排除したり、罰として不利益な結果を負わせること」と考えておく。
多少古くさい概念であるが、テンニエスの「ゲゼルシャフト(特定の目的のために、選択意思によって成立した組織)に適応されるもので、ゲマインシャフト (自然に形成される組織、家族などが典型)には、ふさわしくない方法である。だから、学校には懲戒権があってしかるべきだが、家庭には、そもそもふさわしくないのである。
親と教師の懲戒権
親の懲戒は、普通は「躾け」と同じものと受け取られるだろう。一般的な行為は「躾け」と意識し、法的な概念では「懲戒」と意識する。実際は同じ行為のように意識されるだろう。しかし、同じように思われても、「懲戒」という言葉を法の規定にいれるのと、いれないのとでは、大きな違いが生じるように、私には思われる。懲戒権を規定すれば、懲戒とはどんなことが許されるのかという問題が必ず生じる。そして、朝日新聞で紹介されているように、どこまでが許される懲戒で、どこからが禁止されるのかという「線引き」論が出てくる。しかし、懲戒権という形で規定されなければ、民法上は、教育権にしつけが包含されることになる。懲戒と教育は、目的がまったく異なるから、同じ行為でも、教育として行うのと、懲戒として行うのとでは、まったく意味が違うのである。
その違いは、教師が行う懲戒を考えると分かりやすい。
学校教育法で、校長と教師に懲戒権が認められている。しかし、校長が行う懲戒は、退学・停学・訓告等と規定されているが、教師の懲戒は具体的な規定はなく、「線引き論」がさかんに議論されている。そして、禁止されている体罰との線引きが多く論じられるわけである。線引き論は、私は無意味だと思っているので、ここでは、特に反対の意見があまりないようなことをとりあげてみよう。忘れ物が多い、授業中おしゃべりばかりしている、掃除当番をさぼった、こういうときに、教師は罰を与えることができる。教師によって異なるだろうが、例えば、漢字を書かせる、掃除の回数を増やす、席をかえる、等をしたとき、これは体罰でないことは明らかだから、やってはならないとはいわれないだろう。
ところで、教師は、生活指導もしている。同じ場合に、生活指導として、今あげたような行為を、教師が子どもにさせたとしよう。
懲戒として行ったことと生活指導として行ったことは、原因となった行為も同じだし、対応策としても同じ行為である。しかし、ふたつはまったく異なる面をもっている。懲戒は、実行されればそれで終わりだが、生活指導は、目的を達成したかどうかが問われるという点である。
懲戒の最も厳しい形である「懲役」を考えればわかりやすい。いかなる凶悪殺人犯でも、懲役期間を終えれば出所し、普通の生活に戻ることができる。再犯が少なくないことでわかるように、殺人を犯すような人間性が改善されたかどうかは、まったく問われないのである。改善がみられれば、途中で刑期が短縮される場合もあるが、こいつは、必ず再び誰かを殺すに違いないと、刑務所のほとんどが不安視したとしても、刑期を満了すれば釈放である。それが「懲罰」の避けられない特質といえる。再び殺人を犯せば、捕まって再度懲役処分になるだけだ。
教育現場で行われる、事実上の教師による懲戒も同じだろう。
忘れ物をしたからと、罰で漢字100回書かせたして、忘れ物をしなくなったかどうかなどは、気にしないだろう。そもそも、漢字100回書いたから忘れ物をしなくなるはずがない。嫌だから少しの間は忘れ物をしなくなったとしても、根本は変わらないのだから、もとに戻るだろう。しかし、懲戒である以上、変わらないことの是非は、教師自身が気にしないに違いない。しかし、生活指導の一環として、忘れ物をしないように改善する目的で、漢字を書かせたとしたら、それは、間違った指導だと指摘される可能性もあるだろうし、そもそも結果が伴わないはずだから、この指導が適切であったのかと、自問しなければならなくなる。
だから、教師は、子どもたちの悪い点を改めることは、「懲戒」としてではなく、「生活指導」として行う必要がある。もちろん、同じ行為をしたとしても、当初の目標に近づいているかどうかの「点検」を伴うことが大事なのである。そのようにすれば、教師の懲戒権は、むしろ余計なものであって、ないほうがよいという結論になる。
親のしつけも同様だろう。
殴るしつけをする親の子どもよりも、説得してしつけをする親の子どものほうが、自立的であり、理性的で、かつ問題行動が少ないことは、以前から指摘されている。それは当たり前のことといえる。
体罰肯定論の理屈
「言ってわからない場合がある」というのが、体罰肯定論の定番であるが、その理屈にはふたつの間違いがある。
第一に、子どもが、言ってもわからないのではなく、わかるように親がいえないというのが、事実なのである。言葉がしゃべれるようになれば、多くのことは、いってわかるはずである。親は子どもがやっていることを簡単にとめられるのだから、とめた上で、やってはいけない理由を説明すればよい。また、他のことに関心を向けさせることも大切だろう。危険な状況になっているとしたら、もちろん強引にやめさせる必要があるだろうが、そのとき体をはってとめる行為を体罰とはいわない。
第二に、言ってわからないことを、体罰でわからせることは不可能である。体罰で悪いことをやめたとしても、わかったわけではなく、恐怖心でやめただけで、そうした関係を続ければ、やがて子どもが親を怖がらなくなったときに、どうにもならなくなる。そうして起きた不幸な事件は無数にあるのである。家庭内暴力の多くが、そうしたプロセスをたどっていると考えてもいいだろう。
以上のように考えれば、線引き論は無意味であることがわかる。線引き論には、体罰期待の気持ちが混じり混んでいる。だから、ここまでならいいはずではないかという、その線引きがほしいのだろう。一切の体罰を否定していれば、線引きは必要ない。学校では、懲戒ではなく生活指導として、家庭では、体罰ではなく、言葉で躾けをする姿勢に徹すれば、線引きは無意味になる。そして、「懲戒」という概念そのものを追放したときに、こうした姿勢に完全にたつことができるのである。
教師の懲戒権と親の懲戒権は、両方とも法律から削除すべきである。学校での懲戒権は校長にのみ認められばよい。親の子どもへの躾けは、説得力のある言葉で行われる必要がある。