読書ノート 『妻を帽子と間違えた男』1

 作者のオリバー・サックスは残念なことに亡くなってしまったが、その著作は、どれも本当に興味深い。映画の『レナードの朝』の原作者としても有名だが、手話に関する著作も非常に驚いた。これもそのうちに取り上げたい。ただ、なんといっても、サックスの著作の中では、『妻を帽子と間違えた男』が有名であり、かつ面白い。著者は、脳神経医であるから、脳の異常によって生じる様々な症例を紹介しているのだが、おそらく一般の人が日常的に接するようなことはほとんどないと思われる。だから興味本位に読むことも可能であるが、実は、よく考えてみると、正常と異常の境界線は、ほとんどの場合あいまいだろう。多くの人が経験する視力の低下は、第一部で扱われている「喪失」の一種だと思われるが、ある時突然「近視」になるわけではない。視力検査などは、一年に一度程度しかやらないから、そういうときに、数値で示されると、ある時視力が低下したと認識するが、しかし、それはまったく気付かないほどの程度で進行していたのである。視力は低下しても、眼鏡やコンタクトレンズなどの補強ツールがあるから、特別に問題とならないが、人間が脳を使って行う膨大な作業の多くは、補強ツールなどない。だから、元々なかったり、あるいは徐々に「喪失」が進行していても、なかなか気付くことがなく、その程度が激しくなったときに異常を感じ、医者に行くことになる。


 もちろん、この本を取り上げるのは、医学的関心ではなく、教育学として重要な意味があるからである。サックスのような事例研究は、ここでは「喪失」であるが、教育では、当然逆の進行になる。ない機能がついていくプロセスが発達であるが、機能の成長が極めて遅い場合や、ほとんど見られない場合は、こうしたある意味極端に喪失した事例を知っておくことが、成長の問題を理解する上で有効だと思うのである。

 サックスは脳神経医だから、ある症状が脳のどの部分の異常によって生じているのか、どのような検査が可能なのか等を重視しているが、もちろん、教育関係者は、現象だけが重要である。そして、実は、医者が行っていることも、教育者が行っていることも、それほど違いはないように思うのである。

善意の介護で発達を阻害されていたマドレーヌ
 教育学研究者として、この書物に関心をもつ理由を明確にしてくれるのが、5番目の「マドレーヌの手」という文である。
 マドレーヌは、脳性麻痺のために、はじめから盲目であり、かつ両手を思い通りに動かすことができない。それで、60歳でサックスの病院に入院してきた。おそらく裕福な家なのだろう、ずっと家で手厚い介護をうけ、体を動かす必要のないような生活を送ってきた。正常な人間に比較して劣るのだろうと思ってあってみると、「まれに見る知性と言語能力をもった活発な女性だった」ので、知性を裏付ける読書量を思い、「点字は自由自在なんでしょうね」とサックスが質問すると、手はまったく不自由で何もできないという。サックスの理解では、脳性麻痺は、手にはさほど影響しないので、おかしいと思って調べてみると、触られる感覚はわかるが、何かを手と触れさせて、それが何かを認知できるかをみると、まったくわからないという。
 サックスには、不可解な現象だったので、生まれてこのかた、まったく使わなかった(なんでも介護されていた。)ためかもしれないと考え、看護婦に、「食事をそばに置くだけにするように。あとちょっとで手が届くところに。食べさせてあげるようなことはしないで」と指導する。すると、ある日、空腹に耐えかねたマドレーヌが手さぐりをし、パンを見つけて、手につかみ、口のところまでもっていって食べたというのである。つまり60年の人生のなかで、始めて自分の手を使って、ある作業をしたことになる。
 それからは急速に手の感覚と作業能力が向上し、触るだけで物体の細部を感じることができるようになり、例えば、顔を触って、それを粘土で顔の像を制作するようになる。サックスによれば、目鼻だちは単純だが、表情が豊かで、エネルギーが横溢した像だという。

見抜く力と工夫が求められる
 この話の教育学的意味、あるいは、教師にとっての意味は明確だろう。
 本来豊かにもっている能力や資質を、まわりがないものと思い込み、そのように接する、そして、本人すらもないと思い込んでしまう。結果的に、能力も資質も発達しない。もっと悪ければ、あなたはそんな能力があるはずがないと決めこんで、発達を阻害するようなこともあるかもしれない。それらは、当然意図せずに行ってしまう。
 こういう危険性を、教師はいつももっているわけである。
 サックスが、マドレーヌをかえることになったのは、ふたつの要因があった。
 ひとつは、マドレーヌの知性が高いことに、率直に感動しており、他方、脳神経科医として、脳性麻痺が手の運動や感覚に影響することはほとんどないという知識をもっていたために、強い疑問とできるはずだという期待をもった点である。
 もうひとつは、手を使わないですむように配慮したために、機能が発達しなかったし、自分でも機能がないと思い込んでいたのを、食べ物を探す行為をさせる工夫をしたことである。食欲は人間の最も根源的な欲求だから、空腹状態に置かれたら、何かをするだろうと考えたサックスの卓見である。
 つまり見抜くことと、工夫である。
 サックスを訪れる患者は、脳にダメージを受けて、それまでもっていた機能を失っていく者が多いのだが、マドレーヌは違っている。発達する機会を封印されていたから、本来もっていた天才的な能力すら、まったく存在すら意識されなかった。ここまで極端でなくても、教育機関で日常的に、小さなレベルで起きている。しかし、見抜く力と工夫によって、もしかしたら、どんどん発達する隠れた能力を引き出せるかもしれない、そういうことを、教育に携わる者はいつでも自覚している必要があることを、マドレーヌの話は教えてくれる。

 次回からは、ひとつひとつの話の検討をしていく。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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