前回、毎日新聞、スウェーデンの Svenska Dagbladet、そしてベルギーのDe Standaardを元に、ベルギーで起きている高校生の温暖化に抗議するデモを紹介した。毎週木曜日に行われいるもので、学校の授業を欠席して、多くの高校生が参加している。デモを礼賛する毎日新聞に対して、スウェーデンの新聞は、批判的な論調も紹介しているように、少なくとも大人の社会では、高校生デモについて、評価が分かれている。そのような紹介をして、次回のデモの様子を現地の新聞によって紹介すると予告したが、今回の文は、その紹介のためである。更に、高校生がこうした政治的主張をかかげて、デモすることを、更に、わざわざ授業がある日時に行っている意味についても、考察してみたい。
2月21日予定通り、ブリュッセルで高校生によるデモが行われ、予告されたように、スウェーデンの高校生活動家のGreta Thumbergが参加しただけではなく、父親のSvanteも参加した。’GRETA ONGEMERKT TUSSEN DE MENSEN KRIJGEN? DAT DRAAIDE ANDERS UIT’(De Standaard 2019.2.22)
参加者たちが、主張していることは、温暖化問題が深刻な問題で、地球を変化させてしまう危険があるにもかかわらず、政治家たちに代表される大人が、分裂した議論をしているだけで、具体的な行動にでない、だから、我々が行動しているということだろう。ブリュッセルでの参加者は予想よりは少なかったようだが、この日は、世界のかなり広い範囲で、同じような行動がなされたと、このデモの参加者たちは、考えている。しかし、当たり前のことだろうが、この高校生たちが、温暖化対策のための具体的な施策を主張しているわけではないと思われる。少なくとも報道でみる限りは、もっと大人はちゃんとやれというレベルではないだろうか。
温暖化対策は、国際的にみても、30年以上の取り組みがあり、京都議定書、パリ協定と議論を積み上げてきているが、それでも、温暖化対策をしなければならないとする勢力の間でも対立点が深刻に残っており、トランプのように、パリ協定から脱退してしまう政治家もいる。
だから、高校生としては、ある意味「ショック」を与えて、大人に問題提起しているのだろう。そこで、学校の授業をさぼってまでデモに参加する形態をとっている。土日の学校が休みのときにデモをしても、それほど注目されないけれども、授業をさぼってデモをすれば、注目度があがるのだというのが、主催者たちの理由付けである。
次に、’Jung und weiblich – Protest? wie verändert sich’と題するドイツの新聞 ”Der Tagesspiegel” 24 Feb 2019を紹介しよう。もっと広い運動を扱っているが、ベルギーの高校生のデモをきっかけにしていることは明らかである。筆者は、 Klaus Hurrelmann。
この記事は、明示していないので、どのデモを念頭においているのかわからないのだが、むしろ、近年多くなっている若者の抗議行動全般を指しているのかもしれない。しかし、最初に、デモに対するメルケル首相の言葉を紹介し、それを批判しているのである。「若者のデモは、いったいどこに行こうとしているのかわからない、プーチンの影響なのではないか」などとメルケルは批判したようだが、筆者は、それに対して、若者たちは、市民的不服従のような運動をしており、学校を欠席していることへの処罰は覚悟しており、わかっての抗議行動なのだと若者を擁護している。
何故、今若者がこうした抗議行動にでるのかについて、筆者は、世代的特質をあげている。2000年以前に出生した若者たちは、政治的、経済的危機の時代に育ち、若者の失業が多いときだったから、勉学と仕事をえることに、エネルギーを集中せざるをえなかった。だから、社会の矛盾に立ち向かう余裕などがなかったのに対して、2000年以後に生まれた、現在の若い世代は、ベビーブーマーたちが退職した時期であるために、就職が前の世代に比べてかなり楽で、余裕があり、それが社会に目をむけて、問題に立ち向かう姿勢がでているのだという。かつて、窮乏が革命運動につながるという議論があったが、社会運動の多くは、最底辺の層によって担われることは少ない。
次に筆者は、現在の運動の特質として
1 若い13-14歳が主体となっていること。この世代は、小さいころからデジタル機器を接しており、スマホなどで自己主張しているし、また、集会参加の呼びかけなども、無理なくできる。他方、環境問題への関心は強い。
2 女性が多いこと。一般的に女性は政治的な関心は薄いが、気候と環境問題は別だとしている。
3 世代間葛藤を引き起こしている。
3の例として、ブレクジットの投票をあげている。EUから離脱を支持したのは、比較的古い世代で、栄光のイギリスというイメージに固執しているのに対して、若い世代は、当初からグローバルな意識で生きており、孤高の帝国意識などもっていない。むしろ、そういう意識に批判的である。このような世代間の「相違」以上の「対立」があることが、メルケルのような反応を引き起こすのだろうが、筆者は、若者の問題提起を受とめるべきだと考えているようだ。
さて、では日本はどうなのか。
高校生の政治的デモに好意的であろうと思われる朝日新聞のデータベースで検索したところ、
2015.8.3 安保反対、高校生ら「制服デモ」高校生が立ち上げた「ティーンズ・ソウル」が主催したデモが、東京渋谷であり、5000人が参加した。「人の命を左右することになのに、国民の意見を聞かずにきめてしまいそうで納得いかない」という15歳の高校生の見解を紹介している。
2015.12.20 「憲法守れ」集う高校生。東京原宿でのデモで、ティーンズ・ソウル主催で1000人。これだけではなく、他の地域でもデモが行われたとしている。
2016.4.30 同じく安保反対のティーンズ・ソウルの主催で、国会前でのデモが行われたことを報道している。
高校生の政治活動に関しては、18歳選挙権に関連して、それまで禁じていた高校生の政治活動を認めざるをえないが、制限してはどうかという、いくつかの教育委員会の提言に関連した議論が、なんどか記事になっている。
因みに、上の3つのデモは、いずれも土日や祝日に行われており、学校の授業がある時期にあえて行われたデモは、おそらくないだろう。朝日の記事によると、いずれもティーンズ・ソウルという高校生の団体が主催しているが、その団体は大学生中心のシールズに指導されていると書かれている。ベルギーのデモが、スウェーデンのデモに刺激されたものであるが、スウェーデンのデモは、不登校であったグレータが行った日常的な抗議行動に刺激されたものなので、源泉が高校生であったことは間違いない。だからこそ、自分たちのやむにやまれぬ気持ちからの運動だといえるだろうし、また、あえて授業日にぶつけている覚悟も感じられる。
だから、日本の高校生が意識が低いというつもりはない。
日本では、60年代末の大学紛争から発した高校生の活動に対して、政府が高校生の政治活動を禁止する規則を制定し、学校に対して強力に指導してきたという経緯がある。日本では、児童会、生徒会すべて「教育として行われる活動」であって、あくまでも教師が指導して活動するものになっている。ヨーロッパでの、権利をもって代表を送るようなものではない。そして、日本の教育全体が、子どもたちの意見形成や表明を促進するようには行われていない。その傾向は、「アクティブ・ラーニング」が要請されるようになっている現在でも、ほとんど変わらないのである。
ブラック企業といわれる公立の小中学校でも、教師たちは、ほとんどがブラックな労働条件に表立って抗議をし、改善をせまる行動にはでていない。そうした中で、社会の問題に目をむけ、改善を目指す運動をする意識は、育ちようがない。
どこを変えたらよいのか。多少長い目で考えていきたい。(教育行政学ノートでも、扱う予定。)