2014年になくなったアバドは、現代最高の指揮者の一人であったし、私のもっとも好きな指揮者の一人だった。自分で勝った初めてのオペラのレコードが、アバドの「セビリアの理髪師」だったが、すべてとはいえないが、かなりのCDを所有している。交響曲ボックス、オペラボックス、ソニーのボックス、そしてDVDボックス(25枚組)である。新しく購入したオペラボックスとDVDボックスについて、感想を書いておきたい。
オペラ・ボックス クラウディオ・アバドのオペラ集大成のCDボックス、アバドという指揮者の特質をよく表している。ミラススカラ座、ウィーン国立歌劇場や、ベルリンフィルの音楽監督を歴任したアバドは、地位という点では、カラヤンにも匹敵するほどのエリート指揮者だった。しかし、カラヤンは、名曲を改めてすばらしい曲だと認識させるような指揮者だった。埋もれていた名曲を世にだしたとか、ある若手作曲家の曲を積極的に取り上げて、作曲家が育っていくのを、演奏家として援助したというような面は極めて希薄だ。あまり有名でもなかったが、カラヤンが取り上げたことで、名曲の仲間入りをしたというのは、ホルストの「惑星」くらいのものだろう。 一方アバドは、指揮者として絶対に取り上げるべき有名曲に、あまり関心をもっていなかったように思われる。優れたイタリアオペラの指揮者であったにもかかわらず、プッチーニはとりあげないし、アバドがウィーンを追い出されるような感じになったひとつの要因は、「ニーベルンクの指輪」の新演出上映を担当してほしいという、歌劇場からの提案に、けんもほろろな態度をとったからだという、噂を聞いたことがある。ベルディも、中期の最高傑作である、リゴレット、トロバトーレ、椿姫を、まったく取り上げていない。 プッチーニを取り上げない理由は、「嫌いではないが、革新が好きなのだ」と答えたことがあるそうだが、なるほどと思う側面と、いや違うぞという疑問もある。 ベルディでは、シモンボッカネグラに象徴されるように、あまり演奏されてこなかった曲が、実はとびきりの名曲であることを示した。シモンボッカネグラは、確かにベルディの作品のなかで、革新的な側面をもっていると思われる。アリアがほとんどなく、男性の低い声が主体であり、他の中期の作品に比べて、オーケストラが情景写実的に鳴っている。ベルディは、ウモンボッカネグラを改作しているが、やはり、そうした革新性を確立するために悪戦苦闘していたのだろう。ドビュッシーの「ペリアスとメリザンド」、リヒャルト・シュトラウスの「エレクトラ」、ベルクの「ヴォツェック」などを取り上げているのは、確かに、革新性が好きだというのも納得できる。 しかし、それにしては、オテロをあまり取り上げていないし、録音もない。スカラ座では、オテロの新演出上演をクライバーに任せたりしている。 ロッシーニはどうか。ロッシーニの復活は、アバドによるところが多いことは、衆目の一致するところだろう。トスカニーニは、ロッシーニは、あまりに演奏が難しい、という理由で、一切取り上げなかったらしいが、それは、決して「指揮」が難しいというよりは、メゾソプラノやテノール、バスまでがアジリタ技巧を駆使する必要があるので、歌える歌手を揃えることが難しかったからだろう。ほぼ唯一戦前もコンスタントに演奏されていたセビリアの理髪師は、ロジーナがソプラノによって歌われていた。アルバやベルガンサのような歌手が現れたから可能になったともいえるが、アバドの強い指導力なしには、ロッシーニ・ルネサンスは起きなかっただろう。 ところで、アバドのロッシーニについては、ふたつのことを注意しなければならない。 ひとつは、ロッシーニの復活に多大の貢献をしたにもかかわらず、アバドはオペラ・ブッファだけをとりあげ、オペラ・セリアは一切指揮しなかったことだ。しかし、大事なことは、ジャンルとしてのぶっファであっても、面白おかしい劇として扱っているのではなく、むしろまじめな人間劇として扱っているように感じる。アバドのセビリアの理髪師は、まじめすぎるという批判がけっこうあるが、セビリアの理髪師は、けっしてドタバタ劇ではないのであって、喜劇ではあるが、内容はごくまじめなものだ。アバドは、ドタバタ喜劇の面白みを排除したのではなく、むしろ、貴族がえらく、平民は能力が乏しいなとどという偏見を打破する内容にふさわしい、社会的批判劇としての性格を復活させたのである。もっとも、ポネル演出の映画では、かなり滑稽なシーンもあるが。 さて、ロッシーニは、革新性に満ちた作曲家だったのか。オペラブッファの末期の作曲家であり、セビリアの理髪師がモーツァルトのフィガロの結婚より、革新的な音楽だったとは到底思えない。だから、革新生よりは、優れているのに埋もれていることから、世にだすことを望んだのだろう。 以上のようなことからも想像できるが、アバドは特にオペラにおいて、レパートリーが偏っていたといえる。偉大なオペラ指揮者には、ほとんどみられないムソルグスキー偏愛。未完のホバンシチーナまで全曲録音している。ボリスゴドノフは、本当に何度もやったらしい。私自身、ウィーンの引っ越し公演で生を聴いた。ワーグナーの録音はローエングリンしかない。これは、アバドの好みもあったろうが、前任者カラヤンほどの絶対的力と人気があったわけではなかったことも影響していたようだ。トリスタンをやりたいという提案を、レコード会社が拒否したという話もある。革新性を重視するアバドとしては、残念だったろう。
DVDボックス 既にいくつか持っていたが、未視聴のものが、多数あったので、購入した。特に興味深いのは、5つあるドキュメンタリーで、初めて知ったという点で、「シャローム・パパゲーノ合唱団」が最も興味深かった。ただし、ここにはアバドは全く登場しない。刑務所での囚人たちの合唱団を、おそらくアバドが提唱して立ち上げ、その活動を追ったドキュメントである。ベネズエラのエル・システマでも囚人たちのオーケストラが活動しているが、エル・システマに援助を与えていた(実際に指揮もしている)アバドならではの活動といえる。合唱を通して、囚人たちの人間的目覚めが実感できる。ドキュメンタリーとしては若干不満なのは、ヴェルディのレクイエムのリハーサルをつなげたもので、オーケストラリハーサル、別会場での、ゲネプロ風のリハをつなげていって、ほぼ全曲が聴けるというものだが、それなら本番を聴いたほうがいい。比較的短い部分を集中的にとりあげて、段々アバドの意図が反映されていくというような、リハーサルビデオでしか見られないようなシーンをもっと含めてほしかった。それに、ソリストたちのピアノリハでは、肝心のカバリエがおらず、代役が歌っていたのは、興味深いともいえるが、カバリエは練習のほとんどは出ておらず、本番直前に参加したということなのだろうか。 演奏会は全部をまだ聴いていないが、過去に聴いたものも含めると、ドビュッシーの海にまず惹かれる。実は、市民オケで演奏したときに、いろいろな演奏を聴いたが、なかなか曲そのものが好きになれなかった。このアバドの演奏を聴いて、初めて「海」のよさを実感したことがある。モーツァルトのレクイエムは、死後10年たって、やっと許されたカラヤン追悼演奏会のものだが、フーガが補充されたりしていて、びっくりする。日本での演奏会ライブも興味深かった。チャイコフスキーの5番が演奏されているが、シカゴとの全集とはまるで印象の違う演奏に驚いた。シカゴの全集を聴くと、アバドはチャイコフスキーが本当に好きなんだろうかと疑問も持ってしまう部分が少なくない。チャイコフスキーは、やはり没入する感じがないと、魅力を感じられないが、シカゴの悲愴は、終始醒めた演奏で、しらけてしまったが、サントリーホールでの5番は、カラヤン以上に濃密な部分すらある。ベルリンのまだカラヤン臭が強く残っていた時期のアバドは、特にカラヤンが得意だった曲では、カラヤンの演奏の記憶が残っているオケに乗っかって演奏する印象があったが、これもそういう感じがした。しかし、ライブのせいか、いい意味での相乗効果という感じだ。 指揮者としてのアバドが、他の偉大な指揮者になかった面として、いくつものユーゲント・オーケストラを立ち上げ、育てたことにあると思うが、それは、育てる面白さだけではなく、やはり、若者なら、自分のやりたいことを、無理してでもきいてくれるという、指揮者としての魅力もあったのだろう。ベルリンフィルのマーラー9番と、マーラー・ユーゲント・オケの9番を聴き比べると、アバドがやりたいことは、後者なんだな、と強く感じる。 ボックスは買っても全部聴くことは滅多にないが、これは時間をかけても全部聴くことになりそうだ。
オペラ・ボックス クラウディオ・アバドのオペラ集大成のCDボックス、アバドという指揮者の特質をよく表している。ミラススカラ座、ウィーン国立歌劇場や、ベルリンフィルの音楽監督を歴任したアバドは、地位という点では、カラヤンにも匹敵するほどのエリート指揮者だった。しかし、カラヤンは、名曲を改めてすばらしい曲だと認識させるような指揮者だった。埋もれていた名曲を世にだしたとか、ある若手作曲家の曲を積極的に取り上げて、作曲家が育っていくのを、演奏家として援助したというような面は極めて希薄だ。あまり有名でもなかったが、カラヤンが取り上げたことで、名曲の仲間入りをしたというのは、ホルストの「惑星」くらいのものだろう。 一方アバドは、指揮者として絶対に取り上げるべき有名曲に、あまり関心をもっていなかったように思われる。優れたイタリアオペラの指揮者であったにもかかわらず、プッチーニはとりあげないし、アバドがウィーンを追い出されるような感じになったひとつの要因は、「ニーベルンクの指輪」の新演出上映を担当してほしいという、歌劇場からの提案に、けんもほろろな態度をとったからだという、噂を聞いたことがある。ベルディも、中期の最高傑作である、リゴレット、トロバトーレ、椿姫を、まったく取り上げていない。 プッチーニを取り上げない理由は、「嫌いではないが、革新が好きなのだ」と答えたことがあるそうだが、なるほどと思う側面と、いや違うぞという疑問もある。 ベルディでは、シモンボッカネグラに象徴されるように、あまり演奏されてこなかった曲が、実はとびきりの名曲であることを示した。シモンボッカネグラは、確かにベルディの作品のなかで、革新的な側面をもっていると思われる。アリアがほとんどなく、男性の低い声が主体であり、他の中期の作品に比べて、オーケストラが情景写実的に鳴っている。ベルディは、ウモンボッカネグラを改作しているが、やはり、そうした革新性を確立するために悪戦苦闘していたのだろう。ドビュッシーの「ペリアスとメリザンド」、リヒャルト・シュトラウスの「エレクトラ」、ベルクの「ヴォツェック」などを取り上げているのは、確かに、革新性が好きだというのも納得できる。 しかし、それにしては、オテロをあまり取り上げていないし、録音もない。スカラ座では、オテロの新演出上演をクライバーに任せたりしている。 ロッシーニはどうか。ロッシーニの復活は、アバドによるところが多いことは、衆目の一致するところだろう。トスカニーニは、ロッシーニは、あまりに演奏が難しい、という理由で、一切取り上げなかったらしいが、それは、決して「指揮」が難しいというよりは、メゾソプラノやテノール、バスまでがアジリタ技巧を駆使する必要があるので、歌える歌手を揃えることが難しかったからだろう。ほぼ唯一戦前もコンスタントに演奏されていたセビリアの理髪師は、ロジーナがソプラノによって歌われていた。アルバやベルガンサのような歌手が現れたから可能になったともいえるが、アバドの強い指導力なしには、ロッシーニ・ルネサンスは起きなかっただろう。 ところで、アバドのロッシーニについては、ふたつのことを注意しなければならない。 ひとつは、ロッシーニの復活に多大の貢献をしたにもかかわらず、アバドはオペラ・ブッファだけをとりあげ、オペラ・セリアは一切指揮しなかったことだ。しかし、大事なことは、ジャンルとしてのぶっファであっても、面白おかしい劇として扱っているのではなく、むしろまじめな人間劇として扱っているように感じる。アバドのセビリアの理髪師は、まじめすぎるという批判がけっこうあるが、セビリアの理髪師は、けっしてドタバタ劇ではないのであって、喜劇ではあるが、内容はごくまじめなものだ。アバドは、ドタバタ喜劇の面白みを排除したのではなく、むしろ、貴族がえらく、平民は能力が乏しいなとどという偏見を打破する内容にふさわしい、社会的批判劇としての性格を復活させたのである。もっとも、ポネル演出の映画では、かなり滑稽なシーンもあるが。 さて、ロッシーニは、革新性に満ちた作曲家だったのか。オペラブッファの末期の作曲家であり、セビリアの理髪師がモーツァルトのフィガロの結婚より、革新的な音楽だったとは到底思えない。だから、革新生よりは、優れているのに埋もれていることから、世にだすことを望んだのだろう。 以上のようなことからも想像できるが、アバドは特にオペラにおいて、レパートリーが偏っていたといえる。偉大なオペラ指揮者には、ほとんどみられないムソルグスキー偏愛。未完のホバンシチーナまで全曲録音している。ボリスゴドノフは、本当に何度もやったらしい。私自身、ウィーンの引っ越し公演で生を聴いた。ワーグナーの録音はローエングリンしかない。これは、アバドの好みもあったろうが、前任者カラヤンほどの絶対的力と人気があったわけではなかったことも影響していたようだ。トリスタンをやりたいという提案を、レコード会社が拒否したという話もある。革新性を重視するアバドとしては、残念だったろう。
DVDボックス 既にいくつか持っていたが、未視聴のものが、多数あったので、購入した。特に興味深いのは、5つあるドキュメンタリーで、初めて知ったという点で、「シャローム・パパゲーノ合唱団」が最も興味深かった。ただし、ここにはアバドは全く登場しない。刑務所での囚人たちの合唱団を、おそらくアバドが提唱して立ち上げ、その活動を追ったドキュメントである。ベネズエラのエル・システマでも囚人たちのオーケストラが活動しているが、エル・システマに援助を与えていた(実際に指揮もしている)アバドならではの活動といえる。合唱を通して、囚人たちの人間的目覚めが実感できる。ドキュメンタリーとしては若干不満なのは、ヴェルディのレクイエムのリハーサルをつなげたもので、オーケストラリハーサル、別会場での、ゲネプロ風のリハをつなげていって、ほぼ全曲が聴けるというものだが、それなら本番を聴いたほうがいい。比較的短い部分を集中的にとりあげて、段々アバドの意図が反映されていくというような、リハーサルビデオでしか見られないようなシーンをもっと含めてほしかった。それに、ソリストたちのピアノリハでは、肝心のカバリエがおらず、代役が歌っていたのは、興味深いともいえるが、カバリエは練習のほとんどは出ておらず、本番直前に参加したということなのだろうか。 演奏会は全部をまだ聴いていないが、過去に聴いたものも含めると、ドビュッシーの海にまず惹かれる。実は、市民オケで演奏したときに、いろいろな演奏を聴いたが、なかなか曲そのものが好きになれなかった。このアバドの演奏を聴いて、初めて「海」のよさを実感したことがある。モーツァルトのレクイエムは、死後10年たって、やっと許されたカラヤン追悼演奏会のものだが、フーガが補充されたりしていて、びっくりする。日本での演奏会ライブも興味深かった。チャイコフスキーの5番が演奏されているが、シカゴとの全集とはまるで印象の違う演奏に驚いた。シカゴの全集を聴くと、アバドはチャイコフスキーが本当に好きなんだろうかと疑問も持ってしまう部分が少なくない。チャイコフスキーは、やはり没入する感じがないと、魅力を感じられないが、シカゴの悲愴は、終始醒めた演奏で、しらけてしまったが、サントリーホールでの5番は、カラヤン以上に濃密な部分すらある。ベルリンのまだカラヤン臭が強く残っていた時期のアバドは、特にカラヤンが得意だった曲では、カラヤンの演奏の記憶が残っているオケに乗っかって演奏する印象があったが、これもそういう感じがした。しかし、ライブのせいか、いい意味での相乗効果という感じだ。 指揮者としてのアバドが、他の偉大な指揮者になかった面として、いくつものユーゲント・オーケストラを立ち上げ、育てたことにあると思うが、それは、育てる面白さだけではなく、やはり、若者なら、自分のやりたいことを、無理してでもきいてくれるという、指揮者としての魅力もあったのだろう。ベルリンフィルのマーラー9番と、マーラー・ユーゲント・オケの9番を聴き比べると、アバドがやりたいことは、後者なんだな、と強く感じる。 ボックスは買っても全部聴くことは滅多にないが、これは時間をかけても全部聴くことになりそうだ。