道徳教育教材分析を始めるにあたって

 私自身は、道徳教育を「教科」として、あるいは毎週特定の時間を使った「特設道徳」は必要だと思っていない。1958年に、道徳が時間設定されたときに起きた論争でいえば、道徳は教育全体のなかで行われるもので、教科としては、国語や社会のなかで、そして広く学校行事などで行われるものだと考えている。さあこれから道徳を勉強しましょう、などといって、道徳が身につくとは思えないのである。

その証拠として、文部科学省や教育委員会が推進している「道徳教育研究推進校」の取り組みは、それが終わると学校が荒れるというのは、かなり頻繁に見られる現象なのである。研究推進校は、教師の内部的要請で決まるのではなく、だいたいは行政あるいは管理職の意向で決まっていく。外から持ち込まれた研究課題だから、教師たちは本心から行えないし、また、どうしても形式的になる。特に道徳教育の場合はその程度が強い。「形が揃っていること」などを強調したりしがちである。だから、決められて期間を終わると、解放感から緩んでしまうわけである。「いじめのない学校づくり」をずっとめざして、道徳教育研究推進校として活動したあと、次の年にいじめによる自殺が起きた大津の中学の事例が、その典型例であるといえる。自殺者がでないまでも、学校が荒れた事例は少なくないといわれている。 近年、日本の企業や官庁をはじめとする大きな組織で、不祥事が続発している。官庁における統計のごまかし、国会における嘘の答弁、工事の手抜き、検査のごまかし等々。組織を動かしている人々の道徳心の欠如を感じさせることだらけである。こうした不正の中核にいる人たちは、決して学校教育で道徳教育を受けてこなかった人たちではなく、むしろ、道徳教育が強化された以降に学校教育を受けた人たちである。だから、道徳教育の無意味さを感じさせる、と私は最近まで思っていた。しかし、どうやら、そうではないような気もして、もう少し道徳教育について、教材レベルも踏まえて考察してみたいと考えるようになった。むしろ道徳教育を重視して実行させようとしている人たちのほうにこそ、問題が生じているのではないかと思うようになったのである。一番典型的なのは、現在の政府は、国民の多くが感じているように、嘘で固められている。厚生労働省の連続的な統計操作は、経済政策の真実を隠し、実態とは異なる現象を浮きだすために、政権の指示によって行われていると考えられる。ふたつの学校設立の過程をみても、同様のことがいえる。そして、この政権は、道徳教育にもっとも熱心な姿勢をずっととってきた。教育基本法の改定と、道徳教育の教科化は、この政権によってなされている。政権がこうであれば、政権の直接的影響とはいえないまでも、そうした政権を支配的に生み出している層、経営層の道徳観と連鎖していると見るのが自然であろう。 さて、こうしたことは、研究者として考えていても、実際の学校現場では、道徳の教科書が与えられ、毎週道徳教育の時間で教え、そして成績をつけなければならない。その現実にどう対応するのか、自分たちで自由に選ぶことができるわけではない道徳教科書の内容を、どのように教えていくのか。そうした問題に取り組むことを避けることはできない。ここの試みは、そうした必要性への私なりの努力である。  道徳教育は、いくつかの立場がある。 もっとも歴史的に主流なのは、「徳目主義」である。宗教的な背景をもった道徳教育は、ほとんどが徳目主義である。道徳的な徳目を、その教材の到達目標として掲げ、その徳目を典型的な表す物語を教材として提示する。その教材を読むことによって、「ああ、嘘をついてはいけないのだ」という徳目を、心に定着させようとするものである。 いかなる道徳教育も、徳目主義から完全に逃れることはできないといわざるをえない。社会には、守るべき規範があり、その規範は、徳目の要素となるからである。しかし、現代社会においては、いかなる徳目も、単純な形で受け入れれば、いざというときに適切に、その徳目にそって行動できるわけではない。もっとも否定しがたい徳目である「人を殺してはならない」という道徳の徳目でも、そうはいえない場面がたくさんある。・自分が殺されそうになったときに、反撃したら相手を死に至らしめた。(正当防衛)・耐えがたい苦痛に苛まれている人が、明確に、事前に文書をもって、安楽死を望んでいるとき、安楽死させた。・逃亡者を殺害するように命令され、実行しなかったらお前を殺すといわれて、銃を突きつけられた状態で、殺害を強制された。 殺人ですら、ある場合には、無罪になる事例は少なくない。まして、窃盗、嘘などは、より多様な場合があるだろう。もちろん、「結んではいけない」「うそはいけない」ということを教えるべきではないとはいえない。きちんと教えるべきである。しかし、それを教えて済ませることで、現在の道徳的な対応が可能になるわけではない。「嘘も方便」ということわざすらあるから、昔からそうだったともいえる。 このようななかで、道徳教育の方法として、もっとも優れているのは、私はコールバーグ理論であると考えている。そして、ジレンマ教材を使った道徳教育が、現代社会において、難しい判断を可能にする能力を育てる上で、有効だろうと思う。ところが、これまでの道徳副教材や、検定道徳教科書は、単純な徳目主義に陥っている事例も多く、ジレンマ教材とはいえないものが多数である。しかし、実は、いかなる単純徳目主義の教材であっても、ジレンマ教材化して、考えさせることはできる、と私は考えている。それは、教師が、現代社会における問題を深く考察しているかにかかっているのであるが、やはり、教材解釈として、考えるポイントを研究者が示しておくことは、大切であると考える。この場は、そうした試みである。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。