最近、作曲家で指揮者の徳岡直樹氏が、youtubeで連続的に行っているヒストリカルレコードの分析に少々はまっている。そのCD収集と詳細な分析には、まったく恐れ入るという感じで、とにかく面白い。ただ、CDを紹介するだけではなく、触りでもかけてもらえるといいのだが、著作権の問題があるのだろうか。
そのひとつとして、フルトヴェングラーがバイロイト音楽祭の戦後復活の前夜祭として行った第九(ベートーヴェンの第九交響曲)の分析を行っている。こうしたことに興味のある人には、有名なことだが、バイロイトの第九は、人類の至宝と評価され、クラシック音楽の録音の最高峰と位置づけられている。はじめてこの録音を聴いた人は、まず例外なくショックを受けるだろう。私も高校生のときに聴いて、同様な思いをした。ただし、今では、滅多に聴かないし、第九のベスト録音とも思っていない。ショルティなどは、かなり辛辣に評価しているそうだ。
この実演が行われたのが、1951年。フルトヴェングラーが亡くなったのが、1954年。最初のレコードが死後発売され、以後第九の王者として君臨した。しかし、2007年に、ORFE D’ORから、バイエルン放送協会に保存されていた別テイクの第九が発売され、以後大論争になった。そして、いまだに結論が出ていないのだが、それに対して、徳岡氏が自身の見解を述べたのが、上記のyoutubeである。 “フルトヴェングラー、バイロイトの第九 徳岡直樹氏の見解は?” の続きを読む
カテゴリー: 音楽
読書ノート『カラヤンとフルトヴェングラー』中川右介
『フルトヴェングラー』の続きになる。
脇圭平氏と芦津丈夫氏による『フルトヴェングラー』が、フルトヴェングラーの非政治性を絶対視していたのと違って、本書『カラヤンとフルトヴェングラー』は、フルトヴェングラーを徹底的に政治的に振る舞った人物として描いている。
ベルリンフィルの常任指揮者に若くしてなったときの政治力の発揮、そして、カラヤンに対する徹底的な排除活動が、この本の主題である。音楽的な分析は、ほとんどなく、ふたりの闘争史のようなものになっている。私は、フルトヴェングラーのカラヤン排撃は、戦後になってからのものだと考えていたのだが、本書を読むと、戦前のときから既に始まっていたのだとする。資料的に確認している(ただし日本語文献のみ)から、それは事実なのだろう。つまり、戦後のカラヤン排撃は、戦前の継続に過ぎないということのようだ。しかし、それが本当であるとすると、フルトヴェングラーの政治性は、やなりかなりピントがずれていて、まわりに振り回され、利用されたということにしかならない。 “読書ノート『カラヤンとフルトヴェングラー』中川右介” の続きを読む
読書ノート『フルトヴェングラー』脇圭平・芦津丈夫
表題の『フルトヴェングラー』(岩波新書)を読んだが、本稿は、その紹介とか音楽論的な批評ではない。チェリビダッケについて何度か書いたので、どうしてもフルトヴェングラーについて触れざるをえなくなった。チェリビダッケは、フルトヴェングラーがナチ協力の嫌疑で裁判にかけられて、演奏を禁止されていた時期に、代役としてベルリンフィルを指揮していた。フルトヴェングラーが復帰してからも、フルトヴェングラーが死ぬ直前まで、一緒にベルリンフィルの指揮者であったが、フルトヴェングラーが終身常任指揮者になったとき、チェリビダッケも同時に指揮者になることを望んだようだ。が、オケとチェリビダッケの関係が決裂し、チェリビダッケが去ったことによって、その後ただ一度の例外を除いて、ベルリンフィルとチェリビダッケは関係をもつことはなかった。ただ、フルトヴェングラーとの関係は、その決裂後直ぐにフルトヴェングラーが死んだために、壊れることはなかったようだ。チェリビダッケは終生フルトヴェングラーを尊敬し続けたと思われる。 “読書ノート『フルトヴェングラー』脇圭平・芦津丈夫” の続きを読む
チェリビダッケのリハーサル3
チェリビダッケは、映像などを見れば見るほど不思議な人物に思えてくる。そういう意味では、カルロス・クライバーと双璧だろう。クライバーは、父親の反対を押し切ってまで、指揮者になったのに、指揮することを拒むような指揮者になっていった。小沢征爾は、クライバーのことを、「彼は、いつも、予定された演奏会を、どうやったらキャンセルできるか、その理由を探していた」と述べている。本当にささいなことで、キャンセルしている。ベルリンフィルを初めて指揮することになっていたときに、「新世界交響曲」の楽譜を、新しく買ってほしいと事務局に注文を出し、新しい楽譜に、自分の注意書きを転記してほしいのだと言い添えた。ところが、事務局では、その要求に応えるには時間がかかりそうだということで、いつも使っている楽譜(パート譜のこと)にある書き込みをきれいに消し去って、とりあえずきれいな状態にしていた。ところが、早めにやってきたクライバーは、そのパート譜を見たとたんに、新しくないではないかと憤って、そのまま帰ってしまったというのである。予定通り、演奏旅行から帰って、練習会場にやってきたメンバーを待っていたのは、指揮者がいない状況だった。そうした事態を引き起こした事務員は、カラヤンに、このような対応で間違っていたかと質問したところ、カラヤンは、まったく問題なかったはずだ、パート譜はきれいになっているし、と答えたそうだ。次にクライバーが指揮することになったときには、この事務員を、クライバーから目につかないところに退避させたという。 “チェリビダッケのリハーサル3” の続きを読む
チェリビダッケのリハーサル2
「チェリビダッケのリハーサル1」を書いてから、いくつかチェリビダッケの演奏を聴いてみた。
チェリビダッケはレコーディングをまったく許さなかったという点で、他に存在しない指揮者だった。レコーディングが嫌いな指揮者は、カルロス・クライバーなど他にもいる。しかし、クライバーは、CDでは12枚分の正規録音を残しているし、映像は、正規に許可したものもいくつかある。ただし、死後、自分のライブ録音を市販することを、厳格に禁じる遺言を残していたらしい。だから、私の知るかぎり、死後表れたライブ録音の製品化は、皆無ではないが、極めてわずかだ。「ばらの騎士」「椿姫」「ボツェック」などだろう。しかし、これらは、ファンから真っ先に望まれている音源とはいえないところが、不思議だ。クライバーファンが望んでいるのは、おそらく、バイロイトでの「トリスタンとイゾルデ」、ミラノでの「オテロ」と「ボエーム」などだろう。もちろん、いずれも鮮明な録音で残れされているはずである。とにかく、クライバーは生前は僅かだが、正規のレコーディングを残した。(しかし、晩年は演奏そのものをしなくなったし、セッション録音は、かなり早い時期からしないようになって、発売されるものはほとんどがライブ録音になった。)しかし、死後、録音されているライブを絶対に発売しないように禁止した。 “チェリビダッケのリハーサル2” の続きを読む
チェリビダッケのリハーサル1
チェリビダッケのDVDボックスが格安で売られていたので、入手して、リハーサルを見た。ミュンヘン・フィルとのブックナーの交響曲9番である。また、クラシカジャパンで放映されたベルリンフィル復帰コンサートの7番を再度見直した。
率直にいって、私はチェリビダッケは好きではない。どちらかというと嫌いな指揮者だ。よくあるパターンで、あのテンポの遅さに耐えられない。また、指揮者としては理論派で、とにかく哲学的な内容をオーケストラ団員にも長々と語る。オーケストラの楽団員にとっては、そういうお話は、有り難くない。むしろ、うんざりするのが本心だろう。ベルリンフィルとのビデオでは、現在は引退した古い団員のチェリビダッケに関する思い出話がかなり出てくる。チェリビダッケがベルリンフィルを指揮していたころは、当然20歳前後の若手だった。チェリビダッケが団員と軋轢が生じたのは、主に古参団員との間だったようで、若手には人気があったそうだ。フルトヴェングラーがナチ協力の疑いで、演奏禁止されていた時期、ほとんどの演奏会をチェリビダッケが指揮していた時期もあったようだし、結局、フルトヴェングラーの死の直前に、最終的な決裂をして、ベルリンを去るまで、絶対的な指揮者であったフルトヴェングラーよりずっと多くの演奏会を指揮していたはずである。しかも、最初にベルリンフィルを指揮したときには、まだ音大を卒業したばかりで、実際のオーケストラを指揮した経験がほとんどなかったというのだから驚きだ。あの時代でなければ、絶対になかったチャンスだった。しかし、ものすごい勉強で、ほとんどの曲を暗譜で指揮したという。しかも、かなりベルリンフィルとしても新しいレパートリーも含まれていた。 “チェリビダッケのリハーサル1” の続きを読む
ベルリオーズの「ファウストの劫罰」
ベルリオーズの「ファウストの劫罰」は、ずいぶんと奇妙な音楽だ。もちろん、ゲーテの「ファウスト」の内容に剃った音楽だが、構成は違うところが多いし、また、原作にはない場面が挿入されていたりもする。また、ベルリオーズ自身が、どのような形態での上演を考えていたのかも、あまり明確ではないようだ。
更に、ゲーテのファウスト自体が、現在、原作のままで上演されることはあるのだろうか。私は、2003年に、ドイツで実際にファウストの野外公演を見たことがある。しかし、それは、原作をかなり短縮したもので、野外だから、あまり仕掛けはなく、リアルな形式での上演だったように思う。話題になったのは、メフィストフェレスが女性だった点だった。メフィストフェレスは悪魔だから、男性に限定することもないのかも知れないが、通常は男性がやる。ドイツ人に、女性だったと話したら、怪訝な顔をしていた。 “ベルリオーズの「ファウストの劫罰」” の続きを読む
読書ノート『モーツァルトを聴く』海老沢敏(岩波新書)
クラシック音楽の聴き方に関して、「モーツァルトに始まり、モーツァルトに終わる」という言葉がある。私の場合、確かにそれが当てはまる。子どものころ、我が家にあった古いレコード、当時は既にLP時代に入っていたのではないかと思うが、我が家には、手回しの蓄音機とSPレコードしかなく、LPを買うようになったのは、2,3年後だった。そこで、ブルーノ・ワルターのSPを何度も繰り返し聴いたものだ。そこにモーツァルトのアイネ・クライネ・ナハト・ムジークとジュピターがあった。戦前のウィーン・フィルの録音だ。アイネ・クライネの演奏に関しては、いまだに、この演奏を越えるものを知らない。ただし、CDになったその演奏は、SP時代の潤いのある音質がなくなっている。SPは確かに針の音がはいって、聞き苦しかったが、回転数が速かったせいか、音そのものは悪くなかったのだ。とにかく、モーツァルトから始まったのだが、その後、ベートーヴェン、マーラー、ヴェルディとめぐって、やはり、モーツァルトが最高というところに戻ってきた。だからモーツァルト本は、できるだけ読むことにしていて、今回この本を読んでみた。 “読書ノート『モーツァルトを聴く』海老沢敏(岩波新書)” の続きを読む
蝶々夫人のオリジナル版
昨年二期会の「蝶々夫人」を聴きにいったので、多少このオペラに関心が高まっていた。私はプッチーニは、「ボエーム」以外はあまり好きではないので、「蝶々夫人」も敬遠してきた。だから、いまだに細かいところまで理解ができていないのだが、リッカルド・シャイーが「蝶々夫人」の第一稿による公演をして、それが市販されていることを最近知り、アマゾンで購入して早速聴いてみた。
オペラ好きの人には、よく知られていることだが、今日名作とされて、頻繁に上演されているこのオペラも、初演は大失敗で、一日だけで引っ込めてしまい、2カ月後に改訂版を上演して成功をおさめたとされている。初演を指揮したのは、著名なトスカニーニで、彼の忠告で2幕構成を3幕構成に改訂して、今に至っている。
演奏はミラノのスカラ座のもので、歌手、指揮、オーケストラすべて優れている。演出もなかなかよかったが、私の興味はバージョンなので、そこに絞って書く。HMVのレビューで村井翔氏が、第一稿がもっとも優れているとずっと思っていたと書いているが、音楽よりは、劇の進行上、第一稿のほうが多少合理性があるように感じる。ただ、音楽という点では、「ボエーム」はどこをとっても魅力的な音楽だが、「蝶々夫人」はけっこう退屈な部分があるので、より長い第一稿は、まだすっと入っては来ない。唯一、何度も聴く第一幕最後の二重唱は、多少違う部分があったが、改訂版(通常演奏される)のほうが優れているように感じた。 “蝶々夫人のオリジナル版” の続きを読む
思い出深い演奏会3
今回で最後だが、まずはカルロス・クライバーの2度目のオペラ。クライバーの正規録音、録画はすべて所有しており、また、すべて何度か聴いているが、すごいと思いつつ、やはり、指揮者としては、あまりに特殊な存在だったと思う。小沢征爾は、クライバーについて、「いつでも、演奏会をどうやったらキャンセルできるかを考えているようだ」などと語っていたことがあるが、およそ指揮者で、なんとか演奏を逃れたいなどという人は、この人以外には、いないだろう。ピアニストには、かなり長期間演奏活動をやめてしまう人がいるが、病気でもないのに、演奏しないというのは何故なのか。父親に対するコンプレックスという解釈が広く支持されているが、どうなのだろう。父親エーリッヒ・クライバーは、戦後は比較的早く亡くなってしまったので、あまり親しまれていないが、私自身はいくつかのCDをもっている。そして、カルロスが演奏する曲は、だいたい父親が得意にしていた曲で、その他はあまりやりたがらなかったらしい。そして、父親の演奏になんとか近づきたいという意識が強かったそうだが、二人の演奏を聴き比べた誰もが感じるように、息子のカルロスのほうが、ずっと優れていると思う。にもかかわらず、自分の演奏は父親の足元にも及ばないとずっと言い続けたというのは、本当に不思議だ。 “思い出深い演奏会3” の続きを読む