カラヤンの「春の祭典」

 私が属している市民オーケストラが、今年の5月の演奏会で、ストラヴィンスキーの「火の鳥」組曲を演奏するはずだった。しかし、コロナ禍で演奏会自体が中止になり、練習もその後できない状態が続いている。最悪の場合、今年は、演奏会なしだ。本当に困ったことだが、政府も自治体も適切な対応をしないので、このまま長引くだろう。それはさておき、「火の鳥」はアマチュアオケにとって、非常な難曲だ。しかし、「春の祭典」はその何倍も難しい。だいたい、「春の祭典」を正確に演奏できるようになれば、オーケストラとして一人前だということになっている。よくもまあ、こんなに複雑で入り組んだ曲を作曲したものだ、とは指揮者で作曲家の徳岡氏が述べていた。実は、私のオケも「春の祭典」をやろうという雰囲気に一時なったらしいが、やはり無理だということで自重したようだ。プログラムは各セクションの責任者と選曲委員が決めるので、技術的検討が行われたのだろう。
 徳岡氏のyoutubeの番組を、私は登録して見ているのだが、「春の祭典」を取り上げていたので、注意してみた。モントウ、ブーレーズとかメータとか、その他名前を忘れてしまったが、何人かの演奏の特徴を解説したあと、徳岡氏が最も気にいっている演奏は、1960年代のカラヤンの演奏だというのだ。そこで私はびっくりしてしまった。 “カラヤンの「春の祭典」” の続きを読む

オペラ「ボリスゴドノフ」リムスキーコルサコフ改訂版も悪くない

 普段は、かなり部分的にしか見ないDVDを久しぶりに全曲視聴してみた。「ボリスゴドノフ」は、ユニークなオペラだ。また、私にとっても、思い出深いものでもある。
 何がユニークかというと、オペラの題材として、その国のトップの人物が主人公になっているものは、他には思いつかない。伯爵などのような貴族が主人公というのは、いくつかある。「セビリアの理髪師」「フィガロの結婚」「ドン・ジョバンニ」等。しかも、ボリスゴドノフは歴史上の実在の人物であり、悲劇的な死をとげる。だからオペラも、とにかく、全編暗い、陰謀だらけの話である。しかも、唯一美しい音楽が流れるポーランド貴族の娘であるマリーナの部屋以外は、音楽もほとんどが重苦しい。作曲したムソルグスキーが、最初の草稿を、劇場当局に見せたところ、あまりにも暗い話、暗い音楽なので、もっと女性を登場させなさいというアドバイスがあって、マリーナの場面が付け加えられたと言われている。劇場が不当な要求を、ムソルグステーに押しつけたという批判があるらしいが、実際のところは、ムソルグスキー自身がその批判をもっともだと思い、改作をしたものが、通常上演されている。ごく稀に第一稿の演奏やCDもあるが、私はマリーナの場面が一番好きなので、第一稿は視聴する気がおきない。 “オペラ「ボリスゴドノフ」リムスキーコルサコフ改訂版も悪くない” の続きを読む

カルロス・クライバー雑感

 本日はちょっと気楽に、カルロス・クライバーに関することを。
 これまでオーケストラ演奏の映像でもっていないものがけっこうあって、アメリカ発売で安いものがあったので購入した。これで、CDとDVDで、正規に録音・録画されたものは全部そろった。海賊版を購入する趣味はないので、そもそも海賊版をほとんどもっていないが、クライバーでは、シカゴを振ったベートーヴェンの5番がある。しかし、これはとてつもなく音が悪く、明らかに聴衆が密かに座席で録音したものだろう。これに懲りて、いくらクライバーでも、他に正規以外の録音を購入することはなかった。
 クライバーという指揮者は、ほんとうにいろいろなことを論じたい要素に満ちた存在だ。彼に関して、不思議な現象は、枚挙に暇がない。ファンなら常識になっていることだが。
 何故、自ら父親の反対を押し切って指揮者になったにもかかわらず、指揮をしたがらなくなったのか。父親よりも、誰もが高い才能を認め、父の演奏よりも優れていると、両方聴いたことがある人が述べているのに、父親には遠く及ばないと言い続けたのか。 “カルロス・クライバー雑感” の続きを読む

ジプシー男爵序曲の聴き比べ カラヤンとクライバー

 ヨハン・シュトラウスの「ジプシー男爵序曲」の聴き比べをしてみた。カラヤン2種とクライバー。いずれも、ライブの録画で、しかも、カラヤンの映像ソフトとしてめずらしい部類だが、ライブそのものなので、ヘンテコリンな楽器群の映像が一切ない。実際に、ライブ会場でカメラが撮ったものだ。今のライブ映像としては当たり前だが、カラヤンの映像のほとんどは、演奏はすべて後撮りか、ライブ映像でも部分を使用し、後で、指揮姿とか楽器群毎に撮ったりする。特定の日時のコンサートライブの映像は、カラヤンに関しては、今回紹介する以外では、ベルリンフィル100年記念演奏会の「英雄」、何度かのジルベスターコンサートくらいしかない。そして、共通することは、いずれのライブも非常に評価が高いという点である。生前の評価とは全く違って、カラヤンは録音よりもライブを重視する指揮者だったことがわかる。
 視聴したのは、
1983年、ベルリンフィル・ジルベスターコンサートのカラヤン指揮
1987年、ウィーンフィル・ニューイヤーコンサートのカラヤン指揮
1992年、ウィーンフィル・ニューイヤーコンサートのクライバー指揮
である。いずれも文句のつけようのない名演奏であって、比較するのも変な話だ。好き嫌いで選ぶものだろう。 “ジプシー男爵序曲の聴き比べ カラヤンとクライバー” の続きを読む

演奏会の映像は芸術か

 ティーレマンがウィーンフィルと録画したベートーヴェンの交響曲全集の制作過程をまとめた映像をみた。そのなかで、制作責任者であるブライアン・ラージの語っていたことが、とても気になった。ラージは、こうした映像作りも芸術であって、映像監督やスタッフは作品づくりをしているのであって、とくに監督はオーケストラの指揮者のようなものだというのである。
 ラージは、ウィーンフィルのニューイヤー・コンサートの映像監督などもしているので、クラシック音楽好きの人には、なじみのひとだ。顔を見たのは初めてだった。
 しかし、基本的に、私はこうした考えに基づく演奏会のライブ映像を好まない。間違っているというつもりはないが、私がほしいと思っている映像は異なる形のものだ。
 監督によって、カメラワークが異なるので、年によって違うのだが、ニューイヤー・コンサートの映像は、非常にこまめにカメラが動くのが特徴だ。会場にワイヤーがはってあって、小型カメラがワイヤーにそって動き、飛行機やヘリコプターが飛びながら映しているかのような映像がよく見られる。NHKのコンサート映像には見られない手法だ。
 単純な分類だが、ライブ映像の立場にはふたつあるように思われる。ひとつは、記録であるというもの。そして、もうひとつは、映像そのものが作品であるとするもの。 “演奏会の映像は芸術か” の続きを読む

シューマンのマンフレッド序曲 フルトヴェングラーの名演

 チェリビダッケから始まって、いろいろと昔の指揮者について書いたが、再度フルトヴェングラーについて書きたい。あまりフルトヴェングラーが好きではないのだが、フルトヴェングラー以外の演奏は聴けない、というほど気にいっている曲がひとつだけある。脇圭平・芦津丈夫『フルトヴェングラー』(岩波新書)で、丸山真男が、フルトヴェングラーの演奏には、フルトヴェングラーもいいが、他の演奏もいい、というのと、フルトヴェングラーじゃなきゃだめだという二種類があると語っている。単純に、フルトヴェングラーのはよくないというのもあると思うが、そういうものは、ここに集まった3人にはないようだ。ただ、私にも、フルトヴェングラーじゃなきゃだめだというのが、彼らとは違うが、ひとつだけあるので、それを書きたい。
 そもそも、この曲は、**の演奏でないとだめで、他の演奏を聴くとみんながっかりする、というほどの名演奏というのは、それほどあるものではない。この曲は、**の演奏がベストだというのは、いくらでもあるだろう。しかし、セカンドでもけっこういいのがあるというのが普通だ。もちろん、そこまで気に入るのは、その人の趣味も反映していると思う。私にもいくつかそういうきがある。ホロヴィッツの「クライスレリアーナ」(シューマン)、ハイフェッツの「ツィゴイネルワイゼン」(サラサーテ)、ポリーニの「練習曲集」(ショパン)、ワルター「大地の歌」(マーラー フェリア盤)、アバド「シモン・ボッカクグラ」(ヴェルディ)、カラヤン「蝶々夫人」(プッチーニ フレーニ盤)などである。 “シューマンのマンフレッド序曲 フルトヴェングラーの名演” の続きを読む

フルトヴェングラー、バイロイトの第九 徳岡直樹氏の見解は?

 最近、作曲家で指揮者の徳岡直樹氏が、youtubeで連続的に行っているヒストリカルレコードの分析に少々はまっている。そのCD収集と詳細な分析には、まったく恐れ入るという感じで、とにかく面白い。ただ、CDを紹介するだけではなく、触りでもかけてもらえるといいのだが、著作権の問題があるのだろうか。
 そのひとつとして、フルトヴェングラーがバイロイト音楽祭の戦後復活の前夜祭として行った第九(ベートーヴェンの第九交響曲)の分析を行っている。こうしたことに興味のある人には、有名なことだが、バイロイトの第九は、人類の至宝と評価され、クラシック音楽の録音の最高峰と位置づけられている。はじめてこの録音を聴いた人は、まず例外なくショックを受けるだろう。私も高校生のときに聴いて、同様な思いをした。ただし、今では、滅多に聴かないし、第九のベスト録音とも思っていない。ショルティなどは、かなり辛辣に評価しているそうだ。
 この実演が行われたのが、1951年。フルトヴェングラーが亡くなったのが、1954年。最初のレコードが死後発売され、以後第九の王者として君臨した。しかし、2007年に、ORFE D’ORから、バイエルン放送協会に保存されていた別テイクの第九が発売され、以後大論争になった。そして、いまだに結論が出ていないのだが、それに対して、徳岡氏が自身の見解を述べたのが、上記のyoutubeである。 “フルトヴェングラー、バイロイトの第九 徳岡直樹氏の見解は?” の続きを読む

読書ノート『カラヤンとフルトヴェングラー』中川右介

 『フルトヴェングラー』の続きになる。
 脇圭平氏と芦津丈夫氏による『フルトヴェングラー』が、フルトヴェングラーの非政治性を絶対視していたのと違って、本書『カラヤンとフルトヴェングラー』は、フルトヴェングラーを徹底的に政治的に振る舞った人物として描いている。
 ベルリンフィルの常任指揮者に若くしてなったときの政治力の発揮、そして、カラヤンに対する徹底的な排除活動が、この本の主題である。音楽的な分析は、ほとんどなく、ふたりの闘争史のようなものになっている。私は、フルトヴェングラーのカラヤン排撃は、戦後になってからのものだと考えていたのだが、本書を読むと、戦前のときから既に始まっていたのだとする。資料的に確認している(ただし日本語文献のみ)から、それは事実なのだろう。つまり、戦後のカラヤン排撃は、戦前の継続に過ぎないということのようだ。しかし、それが本当であるとすると、フルトヴェングラーの政治性は、やなりかなりピントがずれていて、まわりに振り回され、利用されたということにしかならない。 “読書ノート『カラヤンとフルトヴェングラー』中川右介” の続きを読む

読書ノート『フルトヴェングラー』脇圭平・芦津丈夫

 表題の『フルトヴェングラー』(岩波新書)を読んだが、本稿は、その紹介とか音楽論的な批評ではない。チェリビダッケについて何度か書いたので、どうしてもフルトヴェングラーについて触れざるをえなくなった。チェリビダッケは、フルトヴェングラーがナチ協力の嫌疑で裁判にかけられて、演奏を禁止されていた時期に、代役としてベルリンフィルを指揮していた。フルトヴェングラーが復帰してからも、フルトヴェングラーが死ぬ直前まで、一緒にベルリンフィルの指揮者であったが、フルトヴェングラーが終身常任指揮者になったとき、チェリビダッケも同時に指揮者になることを望んだようだ。が、オケとチェリビダッケの関係が決裂し、チェリビダッケが去ったことによって、その後ただ一度の例外を除いて、ベルリンフィルとチェリビダッケは関係をもつことはなかった。ただ、フルトヴェングラーとの関係は、その決裂後直ぐにフルトヴェングラーが死んだために、壊れることはなかったようだ。チェリビダッケは終生フルトヴェングラーを尊敬し続けたと思われる。 “読書ノート『フルトヴェングラー』脇圭平・芦津丈夫” の続きを読む

チェリビダッケのリハーサル3

 チェリビダッケは、映像などを見れば見るほど不思議な人物に思えてくる。そういう意味では、カルロス・クライバーと双璧だろう。クライバーは、父親の反対を押し切ってまで、指揮者になったのに、指揮することを拒むような指揮者になっていった。小沢征爾は、クライバーのことを、「彼は、いつも、予定された演奏会を、どうやったらキャンセルできるか、その理由を探していた」と述べている。本当にささいなことで、キャンセルしている。ベルリンフィルを初めて指揮することになっていたときに、「新世界交響曲」の楽譜を、新しく買ってほしいと事務局に注文を出し、新しい楽譜に、自分の注意書きを転記してほしいのだと言い添えた。ところが、事務局では、その要求に応えるには時間がかかりそうだということで、いつも使っている楽譜(パート譜のこと)にある書き込みをきれいに消し去って、とりあえずきれいな状態にしていた。ところが、早めにやってきたクライバーは、そのパート譜を見たとたんに、新しくないではないかと憤って、そのまま帰ってしまったというのである。予定通り、演奏旅行から帰って、練習会場にやってきたメンバーを待っていたのは、指揮者がいない状況だった。そうした事態を引き起こした事務員は、カラヤンに、このような対応で間違っていたかと質問したところ、カラヤンは、まったく問題なかったはずだ、パート譜はきれいになっているし、と答えたそうだ。次にクライバーが指揮することになったときには、この事務員を、クライバーから目につかないところに退避させたという。 “チェリビダッケのリハーサル3” の続きを読む