チェリビダッケから始まって、いろいろと昔の指揮者について書いたが、再度フルトヴェングラーについて書きたい。あまりフルトヴェングラーが好きではないのだが、フルトヴェングラー以外の演奏は聴けない、というほど気にいっている曲がひとつだけある。脇圭平・芦津丈夫『フルトヴェングラー』(岩波新書)で、丸山真男が、フルトヴェングラーの演奏には、フルトヴェングラーもいいが、他の演奏もいい、というのと、フルトヴェングラーじゃなきゃだめだという二種類があると語っている。単純に、フルトヴェングラーのはよくないというのもあると思うが、そういうものは、ここに集まった3人にはないようだ。ただ、私にも、フルトヴェングラーじゃなきゃだめだというのが、彼らとは違うが、ひとつだけあるので、それを書きたい。
そもそも、この曲は、**の演奏でないとだめで、他の演奏を聴くとみんながっかりする、というほどの名演奏というのは、それほどあるものではない。この曲は、**の演奏がベストだというのは、いくらでもあるだろう。しかし、セカンドでもけっこういいのがあるというのが普通だ。もちろん、そこまで気に入るのは、その人の趣味も反映していると思う。私にもいくつかそういうきがある。ホロヴィッツの「クライスレリアーナ」(シューマン)、ハイフェッツの「ツィゴイネルワイゼン」(サラサーテ)、ポリーニの「練習曲集」(ショパン)、ワルター「大地の歌」(マーラー フェリア盤)、アバド「シモン・ボッカクグラ」(ヴェルディ)、カラヤン「蝶々夫人」(プッチーニ フレーニ盤)などである。
そしてフルトヴェングラーでは、シューマン作曲の「マンフレッド序曲」だ。そして、この曲のフルトヴェングラーと他の演奏との差は、上記のものよりずっと大きい。
シューマンのマンフレッド序曲は、CDがそこそこあるが、人気曲とはいえないし、演奏会で頻繁にだされるものでもない。まして、フルトヴェングラーの演奏を聴いたことがある人は、あまりいないようだ。ウェブで、この曲をとりあげているサイトでも、フルトヴェングラーが対象になっているものを見たことがない。かつて、フルトヴェングラー教の教祖みたいだった宇野功芳氏が、何かの座談会で、マンフレッド序曲の演奏比較をしているきに、どれも気に入らず、「フルトヴェングラーの演奏はないのかなあ」とぼやいていたことがある。私自身は、中学生のころに、「モルダウ」との抱き合わせの25センチLPをもっていたので、それで散々聴いていたから、宇野氏が知らないのか?と驚いたものだ。
さて、演奏だが、最初の一小節目から、フルトヴェングラーは、他の誰とも違う。楽譜では、Rasch(速く)と書かれ、四分音符が152と指定されている。(楽譜はすべて弦楽器部分)
フルトヴェングラー以外の演奏では、どれもが、ジャン・ジャン・ジャンと素早く3つの音が連打される。しかし、フルトヴェングラーは、ここを、ジャーーン・ジャーーン・ジャーーンというように、次の指定であるLangsamの指定であるかのように演奏する。どう考えても、フルトヴェングラーが楽譜に従わずに演奏していて、他の指揮者は作曲者のテンポ指定に従っているのだ。しかし、なんど、それぞれを聴いても、フルトヴェングラーの独自テンポのほうが、この曲の出だしに相応しいと感じるのだ。聴いている方は、4分音符3つと聞こえるが、楽譜を見ると、これは最初に8分休符があって、シンコペーション、しかも、8分音符にタイ記号がついている。だから、フルトヴェングラーのように「引きずる」感じで演奏するのが、作曲者の意思のように解釈できる。
youtubeで映像もみられるヤノフスキーの演奏では、8分休符はあまり活かされておらず、普通の4分音符が最初から開始されるように見える。おそらく、他の指定通りのテンポでの演奏も同じなのだろう。その点では、フルトヴェングラーの特異な遅いテンポがしっくりくる。
しばらく遅いテンポで、神秘的な雰囲気で曲が進むが、そこに匠みに第一主題の断片が入れ込まれ、次第に速くしながら、主部に滑り込む。テンポをあげることは、楽譜で指定していることなので、すべての演奏がテンポをあげるのだが、その推移の仕方は、やはり、フルトヴェングラーの天才的な手腕が発揮されている。
この第一主題は、情熱的なテンポということになっていて、144が指定される。多くの演奏は、ここまでテンポをあげて以降、基本そのテンポで音楽が続いていく。ところが、フルトヴェングラーの演奏は、主部にはいっても、まだテンポをあげ続けていくのだ。そして第二主題になると、落ち着いたテンポになっていく。この第二主題の演奏の仕方は、どの演奏もほとんど違いはないようだ。
そして、フルトヴェングラーと他の演奏の大きな違いは、比較的イン・テンポで進む他の演奏と違って、フルトヴェングラーは、第二主題のあと、テンポをぐっと落とし、沈潜するような雰囲気をつくる。そして、Mit grosser Kraft (より大きな力で)と書かれた部分になると、思わせぶりたっぷりに、あるいは、苦悩に苛まれているように、大きな表情をつけて少しテンポをあげたり、また、落としたり、緩急を繰り返しながら、勢いをつけていく。
第一バイオリンのDの音を、強く長めにたっぷり弾かせることで、マンフレッドの悩みを強調しているように聞こえる。ところが、他の演奏は、どれもが、フルトヴェングラーのような思い入れをこめるのではなく、単に力を増しただけなのである。以後も、第一主題ではテンポをあげ、第二主題で少し落とし、その緩急の使い方の見事は、何度聴いても感動する。どうしたらこんなち)、匠みにテンポを動かし、それが音楽にぴったりあうように表情づけできるのだろうか。
フルトヴェングラーの演奏に比べると、他のどの演奏も、主部に入ると、一貫したテンポで押し通す。だから、古典派の音楽のように聞こえる。マンフレッドというドラマの音楽であることを実感させるのは、フルトヴェングラーの演奏だけだ。
今回、楽譜をみながら聴き比べをした演奏は
サバリッシュ ドレスデン・シュターツ・カペレ
ティーレマン フィルハーモニア
セル クリーブランド
ジュリーニ フィルハーモニア
ヤノフスキー HRオケ
であり、フルトヴェングラーは、ベルリンフィルとのライブ(1949)と、ウィーン・フィルとのセッション(1951)がある。ベルリンのほうは、ライブなのでアンサンブルが乱れる部分もあるが、よりスリリングである。ウィーンはさすがにセッション録音なので、フルトヴェングラーの意図が徹底しており、音もいいので、私は後者のほうが好きだ。