国民の教育権論の再建9 親の教育の自由1(持田栄一論2)

 持田は、公教育は国家が共同化した制度だから、そこに加われば、当然体制内化してしまうという状況認識を前提にして、親の復権のためには「参加」が必要であるという。しかし、参加すれば「体制内化」するのだから、持田のいう復権にはならないはずであるという矛盾を含んでいることだった。
 持田によれば、国民の教育権論のようなPTA民主化論では、変わらないし、また、話し合うだけでは済まない。そういうことで変わるというのは幻想共同体である。他方、PTAの無用論や解体論の立場には立たないと明言している。解体しても、何も生まれないからだ。(p106)
 存在している制度に組み込まれれば、体制内化してしまうので、それは誤りであるという議論は、当時さかんになされた。しかし、本当に誤りであり、体制内化しないためには、その制度に組み込まれないこと以外にはない。国家が設置した学校に通わず、フリースクールやホームスクールをする以外にはないだろう。PTAへの参加も同様だ。PTAは任意参加だから、加入しないことは十分に可能であるが、持田は、そういう無用論や解体論には与しないという。そこからは何も生まれないという。

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中村吉右衛門追悼

 歌舞伎役者の中村吉右衛門が亡くなったそうだ。前からかなり体調を崩していたと報道されていたので、いよいよという感じだったが、77歳というのは、まだ若い。歌舞伎界に大きな損失だ。
 私は歌舞伎はほとんど縁がないが、一度だけ、職場の定年停職の記念品としてもらった歌舞伎の券で妻と行ったことがある。中村吉右衛門も主役ではなかったがでていた。歌舞伎だから当たり前だが、写真の顔とあまりに違うので、あまり実感がなかったのだが。拍手は多かった。吉右衛門を見たという満足感は大きかった。
 というわけで、本職の歌舞伎役者としての吉右衛門に接したのは一度だけだが、やはり、多くの人と同様、池波正太郎の「鬼平犯科帳」の主役として親しんだ。鬼平犯科帳は4回テレビドラマとして放映されたが、最初の松本白鸚主演のメンバーが風貌のイメージを作っていた。その後、丹波哲郎、萬屋錦之助と続き、4代目が中村吉右衛門であり、おそらくこれがシリーズ物としては最後になるだろう。白鸚の息子である吉右衛門は、実際に白鸚のシリーズに息子の辰蔵役で出ていたので、鬼平犯科帳シリーズとしては、2回目だった。

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秋篠宮誕生日会見を見て 皇室のコストパフォーマンス論

 いろいろな意味で話題になっていた秋篠宮の誕生日会見が放映され、また宮内庁のホームページに文字化されたものが掲載されている。両方目を通したが、この方が将来天皇になるのかと思うと、正直暗澹たる思いになる。同様の感想をもった人は少なくないに違いない。いくら皇族といっても、記者会見の体をなしていない印象だ。質問は予め提出されていて、しかもかなりの準備期間があったはずである。記者は予め提出した質問の文章を最初に読み、それに対して秋篠宮が回答するのだが、ひとつの質問にはだいたい3つ程度の小さな質問が含まれている。準備してきた回答を述べるのだから、メモを見る程度は当然として、小さな質問をその都度確認して回答している。それが最後まで続いた。特段細かな質問ではなく、ごく大雑把な質問内容だ。それを一々再度質問を確認して、回答するというのは、真剣に質問を受とめているのかという疑問が起きた。

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ノーベル賞受賞者が地方出身に多いこと

 日本人のノーベル賞受賞者は、地方出身者が多いことは、これまでしばしば話題になってきた。そして、今日この記事に気づいたので、考えてみることにした。日経の「ノーベル賞受賞者、都内高卒は1人、開成、筑駒はゼロ」という記事だ。筑駒は、私の母校であるので、思わず笑ってしまった。
 確かに、地方公立高校出身者がほとんどである。都内は日比谷高校卒の利根川博士のみだそうだ。私なりに考えると、理由がいくつか考えられる。
 まずノーベル賞というのは、自然科学が柱だ。自然科学者として業績をあげてノーベル賞を獲得するわけだが、ノーベル賞級の研究をするのは、まずは基礎研究が主で、それまでなかった発想で新しい発見をすることがもとめられる。そのためには、やはり、小さいころから自然に接して、自然の不可思議さに日々感応するようななかで育つことが有利なのではないかと思うのだ。私は自然科学者ではないので、想像するしかないのだが。

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腰痛克服記2

 前回の報告から、かなり日数が経過した。腰痛が起きたのが9月、10月に演奏会があったので、さすがに知人の整体にいき、みてもらった。かなり荒療治のような感じだったが、なんとか、翌々日の演奏会は乗り切った。そして、その後、中山道が国道化された部分をたどる旅行にでかけ、その間、ずっと運転していたので、かなりきついと覚悟していたが、思ったほどではなかった。もちろん、それでよくなったわけでもない。
 そして、腰痛対策は、1週間弱の旅行から帰ってから、本格的に始めた。
 前回は、痛みが出ても、なんとか緩和する方法がわかったということまで書いた。しかし、肝心のことは、なぜ腰痛が起きるのかということだ。もちろん、原因は、人によってかなり違うので、自分がどうなのか。整体では、原因などについては、まったく教えてくれず、チェックなどもしなかった。youtube情報では、整形外科にいっても、あまり原因はわからないという。確かに、他のことで、何度か整形外科にかかった経験はあるが、納得できるような原因説明と、対処法を教えてもらった経験がない。極端ないい方だが、痛いんですか、じゃ、この薬塗ってください、という程度だ。皮膚科だと、塗り薬をもらって、指示通りに塗っておくと、確かに症状が改善する。しかし、整形外科の場合には、これまでは、ほとんど薬が効いた感じがなかった。ということで、やはり、医者にいって、治療しようという気は全くおきない。それで、腰痛対策の本やyoutubeを、かなり調べまくった。

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小室圭氏とゆとり世代

 今ゼミ卒業生とのやり取りで、「世代」による感覚の違い、世代論的なやり取りをしているのだが、そういえは、小室圭氏は、「ゆとり世代」だなあと思い至った。ゆとり世代は、世間的には厳しい見方をされてきた、戦後の世代としては、少数派に属する。私は団塊の世代なので、常に競争に晒されてきた世代だ。そして、その後も若者の受験競争は厳しくなっていったが、ゆとり世代は、そうした競争が緩やかになった時代だ。実際にそうだったかは別として、たしかに、学校での学習量は減らされ、総合的学習などという、比較的自由研究的な内容が入ってきた。もっとも、競争が緩くなったというのは、学習指導要領の精選のためというよりは、少子化が進んだことが主な原因であり、そういう意味では、ゆとり政策が終焉し、全国学力テストが復活し、PISA(国際学力競争)、全国学テ、自治体の学力テストという、テスト漬けにされている現在のほうが、入試自体は緩くなっている。 “小室圭氏とゆとり世代” の続きを読む

旧中仙道旅行1

 以前から、国道を制覇することを、趣味としてやっていた。あまり時間もないので、たまにしか行けないが、これまで、1号、2号、4号、6号、7号、8号、9号、20号を制覇した。もちろん、そのほかにも、125号とかたくさんの関東近辺の国道は制覇したが、江戸時代からの基幹的な道路に添った国道として、中仙道が残っていた。ところが、他の江戸時代の基幹道路と国道の関係は、ほとんど一致しているが、中仙道だけは、ひとつの国道になっていない。17号から始まって、順番に21号までの部分がそれにあたっている。そこで、中仙道を国道にしている道をたどってみようという計画を立てた。
 ところが、最初から、計画が頓挫し、2日目からになった。そして、当初の国道17,18号は帰りに通ろうということで、最初に諏訪にやってきた。下諏訪大社と高島城をみた。

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小室氏結婚問題(一月万冊批判)

 一昨日は、政治的システムの天皇制について、小室-真子結婚後に起きる事態について考えてみた。今回は、今騒動になっていることについて、トピック的に整理してみたい。
 私がけっこうフォローしている「一月万冊」で、普段政権に批判的な姿勢であるにもかかわらず、この結婚問題については、いかにも「理解派」のように語っていることに、少々驚きを感じている。私のスタンスは、個人の結婚問題などはどうでもいいが、皇室利用、天皇利用については、敏感であるべきだということだ。少なくとも、小室氏だけではなく、秋篠宮、そして、彼らを利用しようとしている勢力が、この結婚を契機に、自分たちに都合のよい皇室システムを作り上げようとしていることが問題なのである。小室氏は、そのための非常に都合のよい駒なのだ。そして、自分も最大限に皇室利用をしている。そして、そこに費やされている費用は、ほとんど税金である。こういうことについて、一月万冊の人たちは、まったく気にしていないように感じる。単に、二人の若い人が結婚のために努力しているのに、様々な中傷しているというレベルでのとらえ方だ。そして、メディアが、そういう中傷の先頭をきっているかのように受け取っているらしい。しかし、メディアをずっとみていれば、大手メディアは、ほとんどが皇室批判や、この結婚への異議申し立てなどはしておらず、好意的に報道してきたし、今回の結婚決定で、いよいよその姿勢は明瞭になっている。羽鳥モーニングショーの玉川氏のスタンスをみれば、それははっきりわかる。あれほど、権力に批判的な玉川氏が、この結婚問題については、一貫して、ふたりを高く評価している。もちろん、個々の人をどう評価しようと、それは各人の自由だが、この結婚が、そういう二人の問題ではないということを見逃しているとしたら、それは不見識といわれても仕方ないだすろう。

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日本は本当に能力主義社会か3 能力主義の定義

 では、能力主義とは何か、その意味をまず整理しておこう。 
 まず英語で確認をしておこう。
 研究者の新和英大辞典は、能力主義に対して、a merit system, a meritocracyを例示し、逆に、  meritocracy に、能力主義社会という訳語を与えている。
グロービス経営大学院のホームページでは 
 能力主義 → ability-based pay 
   成果主義 → result-based pay
   実績主義 → merit-based pay
という3つの関連用語に、それぞれ英語を当てはめている。いずれも、給与の支払い方である。経営学としての用語に特化しているということだろう。では、一般の英語辞書ではどうか。

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日教組制度検討委員会報告の検討4 子ども主体の選択と学習

  前回以下の課題を提示して終わった。
 第一に、競争的な試験ではなく、子どもが選択することに、教師たちが賛同できるかという点。
 第二に、競争的な試験なくなって、子どもたちは勉強するのだろうかという点である。
 第一の問題を考えてみよう。これについては、ふたつの大きな転機があった。ひとつは、教師に対する生徒・学生からの授業評価の普及であり、近年は下火になったが、公立小中学校の選択制度である。大学では、学生による授業評価は、ごく当たり前になっている。しかし、それが実際に、何か具体的な対策として活用されているかどうかは、かなり疑問である。私の大学では、本人に結果を知らせる学部がほとんどで、結果を教員全体が共有して、議論する学部はひとつだけだったと思う。しかし、そこでは、評価の高い教員はますます高くなり、低い教員はその逆で、格差が埋まるよりは、拡大することが多く、もっとも重要な評価の低い教員の授業改善には、そうした討議をしても、意味ある結果が出ていないと聞いている。だから、これらはあくまでも形だけの評価にとどまっており、実質的な変化をもたらす評価ではない。例えば、担任を子どもたちが選ぶとか、学校を選ぶという、明確に結果がでることについては、これまで教師たちは拒絶反応を示してきた。学校選択制度が提起されたときには、明確にそうした対応をとった。

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