秋篠宮誕生日会見を見て 皇室のコストパフォーマンス論

 いろいろな意味で話題になっていた秋篠宮の誕生日会見が放映され、また宮内庁のホームページに文字化されたものが掲載されている。両方目を通したが、この方が将来天皇になるのかと思うと、正直暗澹たる思いになる。同様の感想をもった人は少なくないに違いない。いくら皇族といっても、記者会見の体をなしていない印象だ。質問は予め提出されていて、しかもかなりの準備期間があったはずである。記者は予め提出した質問の文章を最初に読み、それに対して秋篠宮が回答するのだが、ひとつの質問にはだいたい3つ程度の小さな質問が含まれている。準備してきた回答を述べるのだから、メモを見る程度は当然として、小さな質問をその都度確認して回答している。それが最後まで続いた。特段細かな質問ではなく、ごく大雑把な質問内容だ。それを一々再度質問を確認して、回答するというのは、真剣に質問を受とめているのかという疑問が起きた。

 そして、回答自体にも疑問がわく。まったく対応した回答というつもりはないが、質問が期待していることとは、まるでずれた回答をしている場面が散見されるのだ。例えば、30年間の真子さんとの思い出と新生活についてどう思うかという質問に対して、マダガスカルに出かけて、10時間くらい車に乗って移動したことが一番の思い出だなどと回答している。はっきりとは聞いていないが、当然この4年間の交流を質問していると、第三者は思うのだが、まったくそれを意図的にか逸らしている。小室氏のことも聞かれているが、ほとんど回答を無視し、しかも「娘の夫」という言い方をしている。
 とにかくがっかりするような記者会見だった。ちなみに、youtubeで見ることができた映像は、記者会見の前半部分だけで、宮内庁はその後の付加的質問と回答も掲載しており、そこで、週刊誌やネットへの「反論の基準」をつくる必要などという、かなり重大なことが語られている。また、映像と、宮内庁によるそのおこしは、私の記録では多少の違いがあるように思った。重要な相違ではないが。
 
 さて、秋篠宮の誕生日会見は、ネットでは、予想通り不評だが、皇室のコストパフォーマンス論がかなり出てきたというコメントがあった。ネットの世界では確かにそうだが、マスメディアではまだまだそうした感覚は浸透していない。私は、メディアがもっとコストパフォーマンス的観点から皇室をきちんと報道すべきであると思っている。
 散々書いてきたが、日本の天皇制は、時代によってその存在形態が大きく変化してきた。奈良時代までの実質的な権力をもっていた時期から、平安時代以降になると、ときの最大権力者に活用される存在になった。平安時代は、それでも権力者たる藤原氏や上皇が、天皇を押し立てる形での活用だったが、武士の世の中になると、完全に名目的な権威になっていた。武士の時代では、江戸時代に至るまで、天皇が実際の政治的影響力を行使したことは、一時期の後醍醐天皇以外には存在しない。明治になって、徳川幕府から新しい権力形態に移行するために、天皇を大いに活用し、それが肥大化してしまったわけだが、戦後になり、民主主義になると、天皇は「国民の総意に基づく象徴」になった。つまり、国民の総意が天皇を基礎づけることになったわけである。逆にいえば、国民の総意に反する天皇は存在してはならないということだ。幸い、これまでの戦後3代の天皇は、国民によって強く忌避されることはなく、支持を受けてきたといえる。
 しかし、小室圭・真子結婚を契機として、国民の秋篠宮への「総意」は大きく揺らいでいる。少なくともネットの世界では、秋篠宮の皇統の継承には強い反対意見が溢れている。そして、出てきたのが、評論家がコストパフォーマンス的視点を語り始めたことだ。
 
 私が1992年にオランダに海外研修にいったときに、非常に驚いたことのひとつに、オランダ王室への国民の態度があった。端的にいえば、コストパフォーマンス意識そのものだったのである。王室は国民の税金で支えられているのだから、税金支出に見合う活動をしているか、国民が監視しているのだ。現在のところ、王室を国民の半数以上は支持しているが、無駄だと思っている人もいるといっていた。オランダの王室は、女王が3人程度のSPをつれてスーパーマーケットに自分で買い物にいくということで、それはニュース番組でその姿が映されたことがあるし、当時の皇太子(現国王)は、戦後最大の洪水が起こった50周年の日に、自ら現地を訪れてテレビのレポーターをしていた。オランダでは政治家のSPが非常に少なく、2002年に400年ぶりに政治的暗殺が起こるまで、政治家へのテロがなかった。そのために、国会議事堂の中庭で、気軽に国民が首相に質問ができるということだった。21世紀になって、前年ながらそうした状況はかなり悪化しているようだが、日本に比べれば、要人の警護に使う費用は格段に少ない。そして、王室のメンバーの生活は、日本よりははるかるオープンである。
 また、2002年に再びオランダにいったときに、今度は、皇太子の結婚をめぐる事件に驚いた。有名な話だが、皇太子の婚約者が、かつてのアルゼンチンの独裁政権の大臣の娘だったために、オランダ中で非難が起き、それに対して、当の婚約者自身がテレビにでて、自分の親は確かに大臣だったが、独裁的政策には関与していなかったと、直接国民に訴え、しかも、見事なオランダ語を駆使しての対応だったために、国民の反感が溶け、無事に結婚するに至った。日本の事情とは、まったく異なるわけである。似たような事例は他の国の王室である。
 歴史を無視することはできないので、簡単にオランダ王室の歴史を概括しておこう。オランダは、16世紀後半から植民地領主国だったスペインに反乱をおこし、長い独立戦争の結果17世紀に独立を勝ち取った。その中心的な指導者が、現在の王室の先祖である。(オレンジ公)しかし、オレンジ公の一族を「王」とは認めず、あくまで共和制をとって、総督として契約するような関係をしばらく続けた。独立時からしばらくは、オランダは代植民地帝国であったが、イギリスとの闘いに敗れ、そして、ナポレオンに滅ぼされて一時国家が消滅した。(インドネシアの統括者はその事実を隠して、江戸幕府との関係を続けたことも、日本史として重要なことに違いない)ナポレオン没落後、オランダが復活したが、その際オレンジ家がオランダ国王の地位に就くことになった。当時ヨーロッパ各国はすべて王国だったから、国を保持するためには必要だと国民が判断したといえる。そして、その後現在までオランダ王室として存続してきた。しかし、この流れを見れば、オランダ人が王室を国民のために尽くしているかを重視して、コストパフォーマンス意識をもって見ていることを納得できるだろう。もちろん、コストパフォーマンスといっても、経済効果だけではなく、国民の尊敬、社会的共感、そして安定への寄与など、精神的な要素も含むものだ。
 
 日本の皇室は、オランダの王室とはまったく違う歴史をたどってきた。しかし、現在到達している理念は、オランダや他のヨーロッパ王室と基本的に同じなのではないだろうか。国民に支えられ、支持されていなければ存続する意味がないという点において。そして、小室圭-真子結婚騒動は、決定的に日本国民に皇室のコストパフォーマンス的感覚を呼び起こした。これは、肯定的な事態であるといえる。
 小室圭-真子両氏の結婚についてのコストパフォーマンスを考えてみよう。メディアはそれなりに利益をえただろう。しかし、忖度報道になってからは、テレビの利益はあまりあがらなかったに違いない。利益をあげたのは週刊誌だろう。
 問題は国民だ。国民にとっては、プラスの面があるとしたら、皇室への敬愛・尊敬の念が高まり、日本社会の安定に寄与したという感覚をえられることだろう。しかし、ほとんどの国民にとっては、二人および秋篠宮家に対するネガティブな感情が強まったと考えられる。そして、コストとしては、儀式や一時金が放棄されたことによる費用面での軽減があった一方、現時点ではほとんどの生活費が税金を原資としていると考えざるをえない。そして、それがいつまで続くかわからない。通常の形で「一般人」になる形に比較して、莫大な公費が使われることになり、コストパフォーマンスはまったく悪いと評価せざるをえない。
 更にこれまで何度か書いたように、彼らに「援助者」として現れるひとたちが期待する「見返り」が、皇室にとってトラブル要因になる危険性が高いし、また、皇室への信頼を損なうことになりうる。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です