小室氏結婚問題(一月万冊批判)

 一昨日は、政治的システムの天皇制について、小室-真子結婚後に起きる事態について考えてみた。今回は、今騒動になっていることについて、トピック的に整理してみたい。
 私がけっこうフォローしている「一月万冊」で、普段政権に批判的な姿勢であるにもかかわらず、この結婚問題については、いかにも「理解派」のように語っていることに、少々驚きを感じている。私のスタンスは、個人の結婚問題などはどうでもいいが、皇室利用、天皇利用については、敏感であるべきだということだ。少なくとも、小室氏だけではなく、秋篠宮、そして、彼らを利用しようとしている勢力が、この結婚を契機に、自分たちに都合のよい皇室システムを作り上げようとしていることが問題なのである。小室氏は、そのための非常に都合のよい駒なのだ。そして、自分も最大限に皇室利用をしている。そして、そこに費やされている費用は、ほとんど税金である。こういうことについて、一月万冊の人たちは、まったく気にしていないように感じる。単に、二人の若い人が結婚のために努力しているのに、様々な中傷しているというレベルでのとらえ方だ。そして、メディアが、そういう中傷の先頭をきっているかのように受け取っているらしい。しかし、メディアをずっとみていれば、大手メディアは、ほとんどが皇室批判や、この結婚への異議申し立てなどはしておらず、好意的に報道してきたし、今回の結婚決定で、いよいよその姿勢は明瞭になっている。羽鳥モーニングショーの玉川氏のスタンスをみれば、それははっきりわかる。あれほど、権力に批判的な玉川氏が、この結婚問題については、一貫して、ふたりを高く評価している。もちろん、個々の人をどう評価しようと、それは各人の自由だが、この結婚が、そういう二人の問題ではないということを見逃しているとしたら、それは不見識といわれても仕方ないだすろう。

 本間龍氏が、メディアは、絶対に反論しない人には、遠慮なく誹謗中傷すらする、その例が、今回の結婚問題に対する批判だ。ポニーテールなどの髪形などを批判するのは、その例だという。私も、ポニーテールなどどうでもいいが、しかし、皇室がメディアに反論しないというのは、事実ではない。すべての皇室とはいわないが、メディアコントロールは、けっこうしている。今回も、そうするだろうと思っていたが、やはり実行した。それは、真子内親王が、複雑性PTSDになっているという発表の形で表れた。2,3年前からそうだったというのだから、このタイミングで出てきたことに違和感を感じた人は多いはずである。この発表は、明らかにメディアに対する、極端にいえば恫喝である。
 勘違いしてはならないのは、これだけこの結婚に、国民的批判が広がったのは、当事者たちのこれまでの対応に多く起因しているのである。
 大分前に書いたことだか、ヨーロッパの王室でも、王族の結婚に対して、国民から強い批判が起きたことは、何度かある。そして、多くの場合、当事者が国民に対して、率直に語りかけ、逆に強い支持に変えてきた。その典型が、現オランダ国王が皇太子だったときの結婚だ。フィアンセとして発表された女性は、アルゼンチン人で、アルゼンチンの独裁政権のときに、父親が閣僚をしていたことに、国民が猛反発した。そのとき、その女性自身が、テレビ会見に出席して、父親は確かに閣僚であったが、独裁政権が行なった悪政、暴力などに加担していたことはないと釈明し、自分の立場も訴えた。しかも、見事なオランダ語だったそうだ。それで国民の意識が完全に反転し、積極的に支持されるようになったのである。
 もし、小室氏が、同様に、皇室的な形式に過ぎない会見ではなく、率直に国民に語りかけるような会見をすれば、事態は大きく変わった可能性は高いのである。しかし、いかに要求されようとも、そうした会見は開かなかった。今回会見するそうだが、それは結婚届けをしたあとの事後報告に過ぎないようだ。
 そして、会見しない間に、次々と共感できないような事実が語られるようになっていったのである。
 国民の批判に晒されたから、PTSDになったというのは、それはそれで気の毒ではあるが、かなりの程度自業自得的な側面が否定できない。父親や母親とは激しく言い合うような資質があるのだから、国民に対して、語りかけることも十分にできたろうし、そうすれば、PTSDになるどころか、国民の祝福を受けることができたに違いない。
 しかし、問題は、国民に説明できない事実があまりに多かったということだろう。そして、国民に支持されるはずがない感覚に囚われていたに違いないと思う。国民に寄り添っていくために、今回の結婚を決意したというのではなく、とにかく皇室から出たかったというのが、本音といわれているが、そんな感覚なら、国民に対峙するのは、確かに難しい。皇室を出たいという気持ちは、大いに支持するが。
 天皇や皇族は、奥の院に引っ込んでいて、存在しているだけでよい、というような天皇主義者にとっては、利用しやすい人物が天皇であることが好ましい。しかし、民主主義国家のなかで、天皇というような世襲君主制度が存続するためには、国民の支持を受けねばならないし、そのためには、積極的に、国民に説明することが必要になってくるのである。それは、政治的な影響力を行使するということではない。少なくとも、結婚という問題に対して、国民的な疑問がでたら、それに対して説明することなしに、国民からの祝福など受けられるはずもないのである。もちろん、国民からの祝福など必要ないということで、説明もしないし、自分の望みをかなえることに邁進するのは構わない。しかし、それなら、国民から批判されたのが辛いなどという泣き言をいわないことだ。
 今回のPTSD発表は、説明などしない、批判するなという、これまでの皇室の繰りかえされたコントロールであることを見のがすわけにはいかない。
 
 それから、世論調査の多くが、この結婚に反対であることを示しているのは、やはり合理的な理由がある。私がアンケートをとられたら、「どちらでもない」「どうでもよい」と答えるだろうが、自分の娘が小室氏のような人物と結婚したいといったら、あらゆる努力を傾けて諦めさせるだろう。諦めるかどうかはわからないが、しかし、そういう意志を示し、行動するだろう。
 どういう点が、そうさせるかは、具体的に書く必要はないくらい周知のことになっているから、ここでは触れない。借金問題などは、小さいことだとだけはいえる。大部分の国民が同様に思うような事実が出てくるから、反対している。その反対の気持ちは、だから十分に理解できる。
 最初に婚約会見したときには、私はそう思っていなかったが、ほとんどのメディアは祝福していた。だから、早い段階で、ネガティブな事実がでてきたときに、きちんと説明すればよかっただけなのだ。それをしないことが、批判を拡大し、更なるネガティブな事実を引き出してしまった。
 
 「一月万冊」に出演している人たちの、この問題に対する上っ面の見方には、正直がっかりした。
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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