白鵬が引退した。もう少し続けること思ったが、今から考えれば、もうずっと前に引退してもおかしくないような怪我だった。前にも書いたことがあるが、引退という契機に、再度書いてみたい。
白鵬が引退に際して、今後、行動を慎むことの誓約書を求めたと報道されている。ここまでやるか、という寒々しい気持ちになった。白鵬が親方になったら、霞んでしまうような現在の親方たちが、自分たちの地位を守ろうと必死になっているような感じすらする。何故、ここまで彼等は白鵬を嫌うのだろうか。そして、それはどういう意味をもつのだろうか。
私は、別に相撲ファンでもないが、この問題の背景にあることについては、無関心ではいられない。
これまでは、明確には書かなかったが、相撲協会や、よき伝統に固執する相撲ファンたちの、白鵬への対応は、「民族差別」そのものである。白鵬は弱い存在ではないから、そうした差別をはねのけているが、それがますます差別意識を強めている。
白鵬に対する彼等の「批判」は、日本の大相撲の伝統に、白鵬の行動が反しているということになる。そのことは事実である。だから、批判しているひとたちが、真剣にそう思い、意図的に嫌がらせをしているのではないことは、十分に理解している。しかし、だからこそ、たちが悪いのである。
外国から移民を受け入れる際に、彼等のもっている文化なり伝統をどのように扱うかについて、様々な立場がある。
ひとつは同化主義と言われるものだ。フランスにその傾向が強いと言われる。つまり、フランスに移民した人は、フランス語を修得し、フランスの文化を受け入れるべきであるということだ。かつての植民地帝国は、基本的に同化政策をとっていたといってよい。日本の朝鮮や台湾に対する政策も、同化主義であった。
しかし、現在、徹底した同化主義を採用している国は、私の知る限りない。そういうことは間違っているし、無理なのだということが、経験から認識されてきたからである。しかし、程度の差はあれ、部分的には同化主義傾向が強い国はある。
同化主義に対して、多文化主義がある。出身国の言語や文化、習俗を尊重する。放送、メディア、教育機関などで、言語や文化を基本にした形を許容する。当然、様々なレベルや形態があり、現在では、まったく同化的要求をせずに、出身国の言語・文化のまま生活することを認めている国もまた、ほとんど存在しない。実際には、同化主義と多文化主義の中間にいるのである。ちなみに、日本は移民政策をもっていないので、日本の政策はどちらなのかと決めるのは難しい。
ところで、同化主義の国家であっても、出身国の文化的背景として通常認めるていることに、宗教や服装、生活習慣などがある。しかし、国家の法律などは、完全に従うことを求めている。このことを踏まえて、白鵬に対する相撲協会や伝統主義者の対応を考えてみよう。
まず、「国技」などといっているが、大相撲は、外国人に対して開いている。つまり、外国人であっても、大相撲の世界で生きていくことができるのである。国家が移民を受け入れているようなものだ。
国家には法律があるように、大相撲には、入門の規定や、相撲そのものに対する規定、金銭に関する規定、そして、部屋をもつ、親方になることの規定がある。
そういう規定のなかで、不合理だと考えられるものもある。その代表例だと、私が思っているのは、親方になるためには、日本国籍を取得しなければならないという規定だ。他のスポーツで、日本チームの監督は、日本国籍でなければならない、というような規定をもっているのがあるだろうか。この規定については、まったく正当な理由がないと思う。
さて、そういう疑問となる規定があるとしても、白鵬は、その規定をきちんと守っているといえる。親方になるために、かなり不本意だったと思うが、モンゴル国籍を放棄して、日本国籍を取得した。彼はモンゴルの国民的英雄だ。したがって、モンゴル国籍を放棄することは、かなり躊躇したはずである。だから、彼はルール、規定を守っているのだ。
にもかかわらず、白鵬を非難するのは、「伝統」に反するというのが理由だ。
白鵬は、横綱にふさわしくない相撲をとっている。かちあげや張手は、横綱がやるべき手ではない。三本締めなども、相撲ではやらない。その音頭をとるとはなにごとか。
だが、かちあげや張手は、もちろん、手として認められていることであって、だからこそ、技名があるわけだ。だが、横綱以外はやってもいいが、横綱はだめだという。相撲ファンではない私などには、まったく理解できない理屈である。まして、外国人にはまったく納得できないだろう。三本締めをしてはいけないという「ルール」があるのだろうか。要するに、それは「伝統」ということだ。しかし、伝統などというのは、実はあいまいなのものであって、人によって違うイメージをもっている場合が多い。夫婦同姓は日本の伝統だという人がいるが、夫婦同姓は明治以降に、法で決められたからそうなっていたに過ぎない。江戸時代までは、庶民は姓をもっていなかったのだし、武士や貴族の女性は、結婚して夫の姓になったわけではない。だから、夫婦同姓が日本の伝統などではないと考える人も、たくさんいるのである。過去の横綱は、本当に張手をしなかったのだろうか。あやしいものだ。
「伝統」を押しつけることは、どういう意味をもつだろうか。
この場合の伝統とは、外国人を受け入れるようになった相撲のあり方ではなく、日本人のみによって行われていた時代の「伝統」だと断言できる。言い換えれば、「日本の大相撲の伝統」なのである。そして、その伝統は、ルールではなく、人々のイメージであり、ルールから離れた価値観である。その価値観を外国人に強制するということは、例えば、国家レベルでは、帰化して日本人になった者に対して、日本の宗教を強制するようなものではないだろうか。日本には、宗教の自由がある。だから、法に反しない限り、自分の宗教的信念を維持することが、日本人になったとしても認められる。もし、日本の宗教をもつことが、国籍取得の条件になるとしたら、それは明らかに民族差別である。
外国人を受け入れたにもかかわらず、外国人に対して、ルールを守っているにもかかわらず、「日本の伝統」という価値を押しつけるのは、同じように民族差別といわざるをえないではないか。
白鵬を非難するひとたちは、白鵬が怪我を乗り越えて、勝つための努力を、どれだけ激しくしているか理解しているのだろうか。そんなことは、たいしたことじゃないと思っているとしたら、何をか況んや、だ。スポーツは、勝つための努力こそ、称賛に値するものだろう。なにか、白鵬を非難している相撲協会の重鎮たちをみていると、たいした成績を残せなかった力士たちが、自分たちがもっていると思い込み、白鵬がもっていないという「伝統」なるもので、必死に自分たちを守ろうとしているあがきのように感じてしまう。そんな相撲協会であれば、この間、短命に終わった稀勢の里以外の横綱が全員外国人であったという状況を変えることはできないだろう。それは「日本の伝統」に照らして、どうなのか。
外国人に開いた以上、国際社会に通用するルールのみならず、その「運用」を実践すべきである。