スウェーデンのコロナ対策 高齢者の孤独

 6月4日の時事通信の記事には、以下のように書かれている。

「新型コロナウイルスへの対応でロックダウン(都市封鎖)を行わない独自路線を進んでいるスウェーデン政府の疫学者アンデシュ・テグネル博士は3日、地元ラジオのインタビューで「われわれの取った行動には明らかに改善すべき点がある」と述べ、反省の念を示した。地元メディアが報じた。」

 ただし、この記事では反省を示しており、これから新しく対策をとるならば、今の政策と、欧米がとっている政策の中間だろうと述べているだけで、具体的な反省点や代替の方法を示しているわけではない。中間というのは、日本のような強制力のない自粛要請だろうか。
 スウェーデンのロックダウンをしない対策は、集団免疫を目指していると説明されている。それは事実なのだろうが、更に日本ではあまり紹介されていない理由がある。それは、隔離政策は、高齢者に致命的な打撃を与えるから避けるべきだというものだ。 “スウェーデンのコロナ対策 高齢者の孤独” の続きを読む

演奏会の映像は芸術か

 ティーレマンがウィーンフィルと録画したベートーヴェンの交響曲全集の制作過程をまとめた映像をみた。そのなかで、制作責任者であるブライアン・ラージの語っていたことが、とても気になった。ラージは、こうした映像作りも芸術であって、映像監督やスタッフは作品づくりをしているのであって、とくに監督はオーケストラの指揮者のようなものだというのである。
 ラージは、ウィーンフィルのニューイヤー・コンサートの映像監督などもしているので、クラシック音楽好きの人には、なじみのひとだ。顔を見たのは初めてだった。
 しかし、基本的に、私はこうした考えに基づく演奏会のライブ映像を好まない。間違っているというつもりはないが、私がほしいと思っている映像は異なる形のものだ。
 監督によって、カメラワークが異なるので、年によって違うのだが、ニューイヤー・コンサートの映像は、非常にこまめにカメラが動くのが特徴だ。会場にワイヤーがはってあって、小型カメラがワイヤーにそって動き、飛行機やヘリコプターが飛びながら映しているかのような映像がよく見られる。NHKのコンサート映像には見られない手法だ。
 単純な分類だが、ライブ映像の立場にはふたつあるように思われる。ひとつは、記録であるというもの。そして、もうひとつは、映像そのものが作品であるとするもの。 “演奏会の映像は芸術か” の続きを読む

10万円の申請用紙が送られてきたが

 日本社会の生産性が低いことは、いろいろなところで指摘されている。そんなことを実感することが、コロナ騒動、とくに政府や自治体の対応でみられる。10万円の給付について、マイナンバーカード申請の混乱は、かなりニュースにもなった。オンライン申請なのに、紙のデータと照らし合わせるという、昭和と令和が組み合わさったようなやり方をとったために、大混乱になったわけだ。
 紙による申請に関しては、ほとんどニュースになっていないが、実際に送られてきた用紙を見て、実に驚いた。国民のほとんどに出された文書だから、よくわかると思うのだが、(地域によって、もしかしたら違うかも知れない)これは、住民登録の台帳に登録されたデータで、世帯主に送られ、そこに家族の名前が予め印刷されている。住所と名前が明記されているわけだ。そして、送金する銀行等のデータを記入して送り返すことになるのだが、実に驚いたことに、世帯主の本人確認ができるものと、銀行口座の番号がわかる通帳のそれぞれコピーを同封しろと書いてあるのだ。自分たちが、自分たちの管理しているデータベースで作成した文書、しかもそこに名前が予め印刷されている文書に、記入して送り返すのに、なぜ、本人確認が必要なのか。白紙の申請用紙に、名前や住所を書いて申請するのならば、本人確認が必要であることは理解できる。そして、口座番号を書かせるだけではなく、通帳のコピーまで必要とするという神経が理解できなかった。このようにコピーするということは、ほとんどの国民は、コンビニなどにいってお金をはらってコピーする。その時間と費用の無駄、そして、当然受け取った役所の人は、それをチェックするのだろう。その時間の無駄。そこまでやっているから間違いなくできるというかも知れないが、間違えたとしたら、当人が口座番号を入力ミスするしかないのだから、そのミスによって送金できなかったとしても、本人の責任であろう。ミスなど滅多にないのだから、そのミスをカバーすればいい。確認ミスだってあるかも知れない。 “10万円の申請用紙が送られてきたが” の続きを読む

笑ってしまうが、深刻な話だ 中学でアベノマスクの強要

 記事を読んだときには、思わず「えっ」と声をあげ、あと笑ってしまった。埼玉県の公立中学で、休校開けで学校が再開されるにあたって、さまざまな指示を書いたプリントのなかに、アベノマスクを着用するか、携帯することを明記してあったということだ。ネットにそのプリントが掲載されているので、間違いないだろう。忘れた者は生徒指導の対象になるようなことまで書かれている。
 ここまでは、滑稽な話だ。そもそも、アベノマスクという言葉は、あまりにくだらない政策だと揶揄する表現である。ああ、いいマスクを配布してくれた、などという人たちは、使わない言葉だ。それを、必要と知らせる立場で使っているのだから、よほど言語感覚が鈍い人たちなのだろう。こんな言語感覚の人たちに教わる子どもたちは、かわいそうだ。
 しかし、本当に深刻なのは次だ。 “笑ってしまうが、深刻な話だ 中学でアベノマスクの強要” の続きを読む

9月入学にすると半年分過密になるというが

 9月入学に対する世論調査で、賛成が50%を越えており、反対は30%程度なのだという。私は、制度として9月入学が、あらゆる点で合理的であると思っているので、新型コロナウィルス災難をプラスに変える柱の一つとして、ぜひ実現させてほしいと思っている。
 ところが、かなり困難があるという記事が出ている。「9月入学で発生する大混乱 「1学年の人数が増える」問題とは」と題する週刊ポスト5.22.29号の抜粋記事である。名古屋大学の内田良氏が指摘していることだが、9月入学にすると、要するに、4月から8月までに生まれた人たちが、9月から翌年の8月までの人たちと一緒の学年になるために、その一学年分は、人数が1.5倍になるから教師も教室も足りなくなるというのである。
 確かに、そういう問題が起きる。しかし、現在の少子化事情を踏まえれば、乗り越えられない不利とは思えないのである。 “9月入学にすると半年分過密になるというが” の続きを読む

オリンピックは延期ではなく中止に

 IOCが、延期された五輪の追加費用を、日本側が大部分を負担するということで、安倍首相も合意したと公表し、日本側は、森委員長や菅官房長官、橋本五輪担当相などが、そうした事実はないと懸命に否定し、IOCがホームページからその旨を削除したという。日本側の慌てぶりが目に見えるようだ。しかし、肝心の安倍首相の「否定」は、今のところ目にしない。
 コロナウィルス問題で、明らかに今年の開催が不可能であるのに、なかなか延期の決定をしなかったのは、先に言い出すと、追加費用の負担を押しつけられるから、とにかく、相手に先に言わせようとしているのだ、などと噂されていた。そういうとは、当然あるだろう。
 しかし、私は、何らかの約束を安倍首相がしているのではないかと、疑っている。それは、おそらく2年延期が合理的であるのに、安倍首相がかなり強行に1年延期を主張して、それが通ったと報道されているからだ。 “オリンピックは延期ではなく中止に” の続きを読む

「宿題」というテーマから考えること

 『教育』を読むということで、今月号の特集テーマである「宿題」についての文章の検討をした。せっかくなので、私自身の考えや体験を書いてみたい。
 宿題をだすことの意味は、いろいろあるのだろうが、大学でも宿題をだす教師はいるし、私自身、かつて、非常にきつい宿題をだしていたことがあった。また、定年まで、教科書を自分で作成して、それを事前に読むことは、日常的な授業での課題としていた。明確な宿題ではないが、似たようなものだったろう。ただし、提出などはもちろんないのだが。
 かなりきつい宿題については、「最終講義」のなかで若干触れているが、再度紹介する。大学の一年生が主に受講する「生涯教育概論」という授業で、「自伝」を書かせていたことだ。年間の宿題として出し、主に夏休みなどに書くようにさせていた。秋になるとぼちぼちだしてくるので、今考えると、書く方もずいぶん大変だったろうが、読む自分もずいぶんと大変な作業をしていたことになる。間違いなく、これは全部読んだ。レポート用紙20枚が最低基準であり、それ以上いくら書いてもいいということにしていた。この宿題を最初の授業でだすと、当然驚きの声があがるのだが、実際に書き始めると、だんだん興味深くなるようで、40枚くらい書く学生もたくさんいた。 “「宿題」というテーマから考えること” の続きを読む

『教育』2020.3を読む 大学で、教養と教育を考える

 『教育』2020年3月号の第二特集が、「大学で、教養と教育を考える」である。4つの論考が掲載されており、それぞれ興味深いが、まずは教科研委員長である佐藤広美氏の『「三つ編み」の学び--学問を自己と社会に結ぶ』を取り上げる。
 佐藤氏は、卒業研究をする場である氏のゼミは、なんでもありだということになっていて、美容、アイドル、恋愛、食文化、痩身願望、不登校など多様なテーマを扱っていると書き、そんな中、最終盤でテーマをかえた学生の事例を、このテーマの題材として提起している。高校時代に告白されて友人関係が切れてしまった、それを研究テーマにしたいということで、セクシュアルマイノリティとの出会いを通して自分の生き方を考える卒論を書いたという例。それから、小さいころ虐待され、母子で児童養護施設に避難した経験、その後出会った里親(制度)について書いた例。佐藤氏は、このふたつを、自分が切実に感じる問題を学問の対象とし、自分一人の問題ではなく、社会的な広がりをもって存在し、学問的に解明できることを経験してほしかったという位置づけをしている。
 ただ、私には、佐藤氏のいわんとするところが、あまり明確には理解できなかった。後者の事例は分かりやすいが、前者の事例は、高校時代の経験とセクシュアルマイノリティとの出会いという関連が、明確ではないからである。
 それはさておき、「自分の切実な問題」は「社会的な広がり」があるということと、学問的に解明できるということは、どういうことなのだろう。単にそう書かれていても、大学での教育や教育の分析は、それは結論ではなく、出発点ではないか。 “『教育』2020.3を読む 大学で、教養と教育を考える” の続きを読む

アバドのドキュメント「沈黙を聴く」を見て

 アバドのドキュメント「沈黙を聴く」は、DVDボックスセットのなかに入っており、以前にもこのボックスの演奏をいくつか書いたが、改めてこれを視聴した。繰り返しになるが、クラウディオ・アバドは、私がもっとも好きな指揮者の一人だ。まだ30代のときから、ファンだったといえる。最初に買ったのが、ロッシーニの「セビリアの理髪師」で、これは、いまでもこの曲のベストだと思っている。映像バージョンもあって、ポネルの演出のオペラ映画で、ロッシーニにあってほしいと思われている「おふざけ」にも事欠かない楽しい映画だ。
 アバドのドキュメントは多数あるが、「沈黙を聴く」は、アバドがベルリンフィル常任の途中で、癌にかかったために、契約の更新をしないと表明して、手術後復帰したあたりまでを描いている。契約を更新しないと表明したのは、ベルリンフィル史上初めてだ、ショックだったと楽団員が語っているが、途中でやめたという意味では、初めてではない。そもそも、アバド以前の3人の常任指揮者は、形式的には、任期のない終身制の指揮者だった。しかし、フルトヴェングラーは聴力が衰えたために、辞任しているし、カラヤンは喧嘩分かれして辞任した。もっとも、二人とも、辞任後数カ月で死去している。 “アバドのドキュメント「沈黙を聴く」を見て” の続きを読む

安倍首相が全国の学校休校を要請 逆効果の可能性はないのか

 安倍首相が、来週月曜日(3月2日)から、全国の小中高や特別支援学校の休校を要請したと報道されている。春休みまでということだから、事実上、今年度の授業は終わりということになる。極めて突然のことであり、またまた、繰り返されたやり方という感じがする。そして、本当に効果があるかどうかわからない。しっかり検討された結果という感じが全くない。
 繰り返されたというのは、徴用工への賠償命令の判決がでたあとの対応に似ているのだ。韓国はあの時期、次々に日本に対する不当な行為をやっていた。反韓ではない私でも、そう感じている。あのような事態があれば、ひとつひとつきちんと対応して、抗議だけではなく、有効な対抗措置をとる必要があるのに、かなりの間、単なる抗議の伝達で済ませていたように、国民には見えていた。もちろん、非公開のルートでの交渉はあったろうが、対抗措置はとられなかった。それが、あるとき、堪忍袋の緒が切れたかのように、輸出規制に踏み切ったわけである。 “安倍首相が全国の学校休校を要請 逆効果の可能性はないのか” の続きを読む