この著作(論文といったほうがよい、短いものだ)は、1948.5.25に英文で出版され、1949.4.15に日本語で日本太平洋問題調査会編『日本社会の根本問題』として出版されたなかに含まれていた。著者は、実際に、キリスト教徒及び植民政策学の専門家として、満州事変や日中戦争に対する正面からの批判を行ったために、東大教授の辞任に追い込まれたという、まさしく宗教と民主主義・国家という関係性を体験した人であり、この問題を論ずるのに、戦後間もなくという時期には、最も適した論客だったろう。(本著作は、矢内原忠雄全集18巻に入っている。)
まず最初に、国家と宗教の分離は近世民主主義国家の一大原則であって、数世紀にわたる闘争の結果勝ち取った「寛容の精神」の結晶であるとする。そして、ふたつの主要点がある。
1 国家はいかなる宗教にも、特別の援助を与えず、制限を加えない。国家はすべての宗教に中立である。
2 国家は国民に宗教を信じるかどうかに干渉してはならない。信じる・信じない、いかなる宗教を信じるかは個人の自由であり、国民の私事である。(p357)
日本国憲法の国家と宗教の分離規定は、国際的にみてもかなり徹底しているもので、欧米諸国は、日本ほど国家と宗教の分離が明確ではない。北欧では、牧師に国家が給与を支払っている国があるし、欧米国家は、概して、キリスト教的風習を公的組織が行うことがある。また、キリスト教育の原理で国家が建設されていることを謳っている場合が少なくない。イギリスの王は、いまでもイギリス国教会の主である。
アメリカ憲法では、国家は国教を定めないと規定しているだけで、国家が特定の宗教的儀式を行うことを禁止してはいない。日本で、首相が靖国神社に参拝することが問題とされるようなことは、アメリカでは起きない。もちろん、それだけ日本の国家と宗教の分離は、憲法的には進んでいるのであり、優れているといえる。ただし、日常生活や学校教育のなかに、宗教的要素が入り込んでいる部分も皆無ではなく、憲法を離れると、公共の世界に宗教が入り込んでいることがある。
矢内原は、明治以降の軍国主義に至る理由のひとつに、宗教政策をあげる。
日本は江戸時代までは、キリスト教を除いて、宗教には涵養な社会であった。キリスト教の弾圧によって、日本には一神教は根付かず、多神教であっただけではなく、仏教と神道が融合するなど、今日の宗教的感覚からすれば、むしろいいかげんな社会であったともいえる。しかし、明治になって、それは変化していく。1868年の間にいくつもの勅令がでて、いわゆる新仏分離が指示され、その結果廃仏毀釈という全国的な運動が起き、貴重な寺院が破壊されていく。そして、キリスト教の禁止は相変わらずであった。明治新政府は、寺請制度をとっていた江戸幕府を否定し、江戸末期に勃興した国学思想を取り入れて、神道を国家の中心的な理念にしていった。しかし、条約改正のために派遣された岩倉使節団は、欧米の各地で、キリスト教弾圧について抗議を受け、方針転換せざるをえなくなる。条約改正のためには、西欧的な法整備が必要であり、そこでは信教の自由が重要な要素となることを認識せざるをえなかった。そこで、明治政府がとった方向は、信教の自由を不十分ながら認めつつ、神道は宗教ではないという体裁をとって、事実上神道をまるで国教のように、学校教育のなかで扱うようになった。教育勅語、修身科、歴史のなかで、教え込まれていったわけである。この過程を叙述しながら、矢内原は、次のように書いている。「飛鳥・奈良時代のように、国家としてキリスト教に対応していれば、歴史は違った可能性がある。」(p362)
矢内原には、国家はある主導的な宗教的な理念をもつという、おそらく彼自身の歴史認識を踏まえた判断があるのだろう。従って、国家が宗教的に中立であることは、法的には支持しつつ、かならずある価値判断が国家には内包されていると考えている。矢内原にとっては、キリスト教がその位置を占めるべきである。
しかし、明治以降、神道を中心的支柱としていった。教育勅語などは、内容的にはよかったものの、その運用において、間違っていた。その例が「不敬事件」であるとする。「不敬事件」は信教の自由への弾圧であり、そして民主主義全体への圧迫であった。その後、次第に、日本は軍国主義へと向かっていく。そのなかで、宗教団体も国策に協力するようになって、キリスト教も「日本基督教団」へと統合されていく。そうした動きに抵抗するもの組織もあったが、それは周知のようにごく少数であった。
矢内原はそのごく少数の一人であり、東大を辞職したわけだが、この論文で、辞職させられた「理由」を三つ書いている。
「昭和12年日華事変の起こった時、開戦に反対して平和論を唱えたため、且つファッショ的日本を葬れと言ったため、且つ天皇は人間であると言ったため等々」の理由をもって辞職を余儀なくされたと書いている。通常、矢内原の辞職理由は、前のふたつであるとされているのだが、立花隆が『天皇と東大』のなかで、実は、「日本精神の懐古的と前進的」(本全集18巻の『民族と平和』所収)と題する『理想』に掲載された論文が本当の理由だったと指摘しており、矢内原自身の指摘と、立花の指摘は符合している。この論文で、矢内原は、天皇の神格性を明確に否定していて、要するに、天皇は人間だと言い切っている。
表向き、平和論とこんな国家は死ぬべき、というのが辞任理由とされたが、やはり、矢内原自身、本当の理由は、天皇神格性の否定だったことを自覚していたことになる。
しかし、矢内原が天皇を否定していたわけではなく、むしろ天皇個人に対しては、高い尊敬の念をもっており、天皇制を否定するという意識は、まったくなかった。天皇は利用されていたのだと考えていたと思われる。むしろ、戦後昭和天皇が「人間宣言」をしたことについて、それこそ自分の考えだと思ったことだろう。
昭和14年(1939年)宗教団体法によって、宗教団体は統合され、キリスト教各派は、日本基督教団としてまとまった。これによって、宗教団体は戦争に反対しにくくなり、実際に抵抗した組織は極めて少数になってしまった。政府は宗教団体を「国家に協力させることに成功」したわけである。(p380)
戦後改革のなかで、宗教団体のあり方が変わったと同時に、神道の位置も変わった。
矢内原によれば、占領軍の指令の意味は以下の3点である。
1 神道が宗教になった。
2 国家の神道に対する援助が不可能になる
3 神道に対する信仰が自由になった
では、戦前、国民が神道の強制にあまり違和感をもたなかった理由は何故か。矢内原があげる理由は以下のようである。
1 神社の宗教性が希薄であったこと
2 仏教が神道と闘争的ではなく、調和併存していた。
3 日本人の宗教意識が希薄で、信教の自由については、あまり自覚的ではなかった
ただし、矢内原は、日本国内ではそうした政策にさしたる抵抗がなかったが、植民地においてはかなりの抵抗にあったことを記している。(p379)
戦後、宗教団体法は廃止され、宗教は認可制から認証制の宗教法人になった。そして、憲法に結実するわけであるが、矢内原は戦後改革が不徹底であったことをあげいる。ひとつは、宗教人のなかの戦争協力者の追放を実行しなかったこと、そして、日本基督教団を解散しなかったこと。
そして、最後に、矢内原らしいキリスト教精神が国家の支柱になることを希望して、以下のように書いている。
「民主主義的精神は個人の人格観念の確立によってのみ基礎づけられ、個人の人格観念の確立に寄与する宗教こそ、日本民主主義化に最も深く貢献する宗教である。而してこれが基督教であることは、歴史的にも教義的にも証明せられるところである。端的に言えば、日本の民主主義化のためには、国民の間に真正の基督教信仰が広く且つ深く植えつけられねばならない。それは日本が国教として基督教を採用するという意味ではないが、ただ日本国民の間に基督教の信仰が植えつけられるのでなければ、真に根底ある民主主義国となるをえないと思われるのである。」(p388)
このような認識は、矢内原の論文の終わりにほぼ必ずといっていいほどに書かれている。
国家が信仰にかかわらず、信仰は自由であることと、特定の宗教、ここではキリスト教が、国民に広く植えつけられることが必要だという認識と、どのような関係になるのか、いつも考えこんでしまうのである。私のような、普通の人間には、その意識の構造が厳密には理解しにくい。もちろん、矢内原は、新に信仰の自由を認め、キリスト教信者以外の人を疎むようなところはなかった。戦後社会科学研究所の所長だったときに、宇野弘蔵氏を自ら要請して、所員に迎えた。有名なマルクス主義者である宇野氏は、自分が何故矢内原のようなキリスト教の学者に、教授として招待されたのか不思議だったと回想している。大内兵衛とは生涯変わらぬ親友であった。
キリスト教徒と社会科学者、公人と私人というそれぞれの立場での、矢内原の心のあり方をもっと掘り下げる必要がある。