矢内原忠雄「近代における宗教と民主主義」を読む(続き)

 矢内原の論を踏まえて、考えを発展させたい。
 日本国憲法の「信教の自由」条項は、私は順調に機能したと思う。しかし、かなり微妙な問題も起きている。
 戦後日本で起きた宗教に関係する最大の事件は、なんといってもオウム事件だろう。日本における戦後最大のテロ事件であるし、また、サリンを使ったという点で、世界でもそれまでに類のない事件であった。一宗教団体が、何故あのような事件を起こすことができたのか、人間としての問題と、財政的問題と両方の面でいまでも考えねばならない課題であり続けている。何故、優秀な人材が麻原のような人物に取り込まれ、あのような犯罪まで犯してしまったのかという問題は、多くの論者によって考察されてきたが、結局、真相は分からない。優秀な人物は悪いことをしないなどということは、歴史を見ても、全く成り立たない命題であるから、優秀な人材が取り込まれたこと自体は、不思議ではない。優秀な人材が社会的に適切に評価されるとも限らないことを考えれば、ある意味不遇を囲っていた人材が、才能を振るう場を与えられれば、そこにのめり込むことは、大いにありうることではないだろうか。たくさんの手記もあるが、個々の事例に関して、どのように取り込まれていったのかについては、正直あまり興味がないので、触れないことにする。私自身は、どうやって悪に入り込んでいったのかよりは、教育学者として、どのように困難を克服していったのか、その力をどうやって獲得したのかに関心がある。
 だから、オウム事件については、一番気になったのは、何故あのような事件を起こすほどの財力をえたのかという点だ。実は、犯罪的なことをやっているのではないかという宗教団体は、オウムだけではない。そうした団体に共通すると思われるのは、豊富な資金力である。もちろん、社会的に批判されるようなことのない宗教団体でも、資金が豊富な団体は少なくない。私が子どものときに住んでいた地域に、ごく普通の古びた寺があったのだが、私が成人して別の地域に引っ越したあと、寺だけではなく、住居の建物も含めて、極めて壮大な建築物に変わっており、寺って、本当に儲かるのだと実感したものだ。ひとつの寺ですらそうだから、より大きな教団は、もっともっと大きな資産をもっているだろう。 
 しかし、こうした資金を宗教団体が得られる根拠と、日本国憲法は矛盾しているように、私はずっと思っていた。憲法は次のように規定している。

第二十条  信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
○2  何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
○3  国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

 私が拘るのは「国から特権を受け」という部分である。宗教法人は、宗教活動に関する収益は、基本的に税を免除されている。もちろん、宗教上の行為とは無関係の事業による収入には課税されるが、宗教活動によるものは無税である。学校法人とその点では似ているが、宗教法人の活動と、学校法人の活動は、公共性において同じだろうか。
 同じであると言えるのは、「倫理」にかかわる側面をもつという点だろう。しかし、それ以上の共通点は、私には見当たらない。
 矢内原も認めているように、宗教は憲法上完全に「私事」なのである。しかし、学校は、学校教育法に規定された法令を遵守して、国家によって設立されたり、あるいは国家に認可されて設立される法人である。だから、純粋な「私事」に関する組織ではない。「公教育」と言われるように、学校は公共性に関わっている。もちろん、教育を受ける国民の側にとって、教育は「私事」としての側面を強くもっている。しかし、教育を保障するために組織された「学校」は、公事なのである。
 税が免除されているのは、公益に関する活動をしているからであると理解されている。しかし、宗教は「私事」なのだから、公益に関する活動とはいえないのである。私事であるのに、税を免除されるというのは、憲法が禁止する「国から特権を受け」ることではないだろうか。
 さらに、非常に異なる点がある。
 宗教は、ごくわずかな聖職者がいて、まわりに膨大な信者がいるのが普通である。信者は、様々な理由で、宗教組織に寄付をする。また、宗教的な行事に際して、費用を負担する。それが、宗教法人が莫大な資産を形成しうる理由である。しかし、学校は、教師と生徒がおり、その割合は、宗教団体の聖職者と信者の割合とは比較にならないくらい、教師の割合が多い。また、宗教活動に、建物や道具は不可欠ではない。それは無教会派の存在が証明している。それに対して、学校は、教育活動を行うために、様々な資源が必要であり、かなりの費用がかかる。だから、私学であっても、国庫からの補助がある。補助があることは、公共性の証でもある。
 以上のことを考えれば、宗教法人の非課税という制度は、憲法に違反すると判断せざるをえないのである。
 矢内原の宗教的な師であった内村鑑三は、不敬事件で、一高の教授を辞任してから、宗教活動によって生計をたてていたが、所得税をきちんと払っていたそうだ。税務署の担当者が、わざわざ、「先生は宗教家なので税を払う必要がない」と説明しても、国民として、収入をえれば、税を払うのは当たり前だといって、払っていたのだそうだ。矢内原自身はどうだったのだろうか。矢内原は、東大辞任後、文筆業によって生計をたてていたと思われる。岩波書店などが、矢内原を助ける意味もあって、出版の話をいろいろと世話していて、ベストセラーとなった書物を出版している。(『奉天三十年』の翻訳や『余の尊敬する人物』など。ちなみに、『奉天三十年』は岩波新書の第一巻と第二巻である。)また、個人雑誌を出している。残念ながら、矢内原の戦時中の活動を書いた自身の文章や、あるいは矢内原の人となりについて、多くの人が書いた文章をまとめた『矢内原忠雄 -信仰・学問・生涯』(岩波書店)にも、こうした彼の戦時中の収入源や税に触れた文章は、まだ見ていない。
 矢内原が「私事」原則と、宗教法人の非課税制度をどう考えていたのか。今後の課題としたい。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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