カテゴリー: 未分類
安倍首相辞任の意向
『教育』2020.9号を読む 石井崇史「子どもの世界に応答する教材づくり」
道徳教育ノート「闇の中の炎」
BC級戦犯の記事 8.15を機会に
教育学を考える12 授業 斉藤喜博の授業論2
斉藤喜博とクライアント中心主義のロジャースとを比較する研究がある。非常に説得力がある議論なので、参考にしつつ、斉藤喜博の授業論を進めたい。(若原直樹「斎藤喜博『わたしの授業』の一つの読み方--斎藤喜博のカウンセリング・マインド」『北海道教育大学紀要(第一部C第46巻2号』)
ロジャース理論の根幹は、クライアントとの信頼関係を作ることと、クライアント自身のなかにある回復力を信頼して、それを引き出すことによって、問題を解決することである。ロジャースは、そのプロセスを7段階にわけているが、それは省略し、ポイントだけ確認して、斉藤喜博の検討に行こう。まず信頼関係を築くために最も重要なのは、「一致」とされる。つまり、セラピストが、本当の「自分」をクライアントに対して示すということだ。私自身は、カウンセリングをしたことがないので、正確なところはわからないが、カウンセリングに訪れる人は、当然心に問題をもっている。セラピストはそれを解決してあげるという、一段高いところに自身をおきがちである。だから、信頼関係を築くために、「あなたを信頼している」という態度を示しても、どこかで、「この人は、こんな弱点があるから、今の問題が発生しているのだ」というような、ある意味探るような視線を投げつけかねない。そうすると、心で思っている本当の自分と、クライアントに示す姿にずれが生じる。つまり「一致」が崩れるわけである。こうならないように、「一致」させる必要がある。そうでないと、信頼関係は築けないというのが、ロジャースの考えである。 “教育学を考える12 授業 斉藤喜博の授業論2” の続きを読む
小池百合子氏が卒業証書を公開 さて?
昨日の記者会見で、小池百合子氏が疑惑をもたれているカイロ大学卒業に関して、疑惑を否定して、卒業証書と卒業証明書とされるものを公開して、「自由にみてください」といったそうだ。毎日新聞の記者会見の記事を読むと、写真をとってあるが、突っ込みをいれる質問などがなされたのかは、疑問である。
今後どうなるのかわからないが、今思うところを書いてみる。
今年になって黒木氏の長い告発の文章、そして石井妙子氏の著作は、やはり、小池都知事としては大きな脅威となったはずである。そして、当然、弁護士と相談して、どうやって切り抜けるかを検討したはずである。最低限死守しなければならないのは、公職選挙法違反には問われないようにするということだったろう。つまり、卒業認定が虚偽ではないという形を作れるかどうかだ。そのために、カイロ大学や大使館に働きかけたはずである。その結果、カイロ大学から、卒業証書は正式のものであるという声明を、在日エジプト大使館から出させることに成功した。ほぼこれで、公職選挙法の学歴詐称という罪は逃れると踏んだのではないか。だから、卒業証書を公開した。 “小池百合子氏が卒業証書を公開 さて?” の続きを読む
教育学を考える6 教師側の選択と主体性
学ぶ側の選択と主体性について前回考えた。では、教える側の教師にとってはどうなのか。教師は、学習者の意志、発達段階等によって拘束されるが、しかし、教師の職務を果たすためには、やはり、選択と主体性が保障されなければならない。教師も、当然学ばなければならないからである。
では日本の教師は、こうした点からみて、どのような状況におかれているのか。
私立学校は別として、公立学校は、勤務校を選ぶことができない。欧米は多くの場合、個別の学校の募集に応募して採用試験を受ける。もちろん合格しなければならないが、自分が働きたい学校を選択できる。日本では、県単位の採用試験を受けて、合格すれば教育委員会が配属を決める。つまり県単位の選択しかできない。基本的には移動に関しても同様である。
教師としての学びはどうか。
まず新任で最初にかかわる研修についてみよう。
法令で教育委員会が教師のための研修を提供しなければならないと規定されているが、その研修は、10年研修以外は、ほとんど教師の主体性は認められていない。10年研修は、テーマ等を教師自身が決めることができる場合が多いようだが、そもそも10年目にそうした研修を義務付けられていること自体が、完全な自由ではないことを示している。更に10年毎に免許の更新講習を受けて試験に合格することも義務付けられている。 “教育学を考える6 教師側の選択と主体性” の続きを読む
矢内原忠雄「近代における宗教と民主主義」を読む
この著作(論文といったほうがよい、短いものだ)は、1948.5.25に英文で出版され、1949.4.15に日本語で日本太平洋問題調査会編『日本社会の根本問題』として出版されたなかに含まれていた。著者は、実際に、キリスト教徒及び植民政策学の専門家として、満州事変や日中戦争に対する正面からの批判を行ったために、東大教授の辞任に追い込まれたという、まさしく宗教と民主主義・国家という関係性を体験した人であり、この問題を論ずるのに、戦後間もなくという時期には、最も適した論客だったろう。(本著作は、矢内原忠雄全集18巻に入っている。)
まず最初に、国家と宗教の分離は近世民主主義国家の一大原則であって、数世紀にわたる闘争の結果勝ち取った「寛容の精神」の結晶であるとする。そして、ふたつの主要点がある。
1 国家はいかなる宗教にも、特別の援助を与えず、制限を加えない。国家はすべての宗教に中立である。
2 国家は国民に宗教を信じるかどうかに干渉してはならない。信じる・信じない、いかなる宗教を信じるかは個人の自由であり、国民の私事である。(p357)
日本国憲法の国家と宗教の分離規定は、国際的にみてもかなり徹底しているもので、欧米諸国は、日本ほど国家と宗教の分離が明確ではない。北欧では、牧師に国家が給与を支払っている国があるし、欧米国家は、概して、キリスト教的風習を公的組織が行うことがある。また、キリスト教育の原理で国家が建設されていることを謳っている場合が少なくない。イギリスの王は、いまでもイギリス国教会の主である。 “矢内原忠雄「近代における宗教と民主主義」を読む” の続きを読む
無駄を省こう プロ野球 ブロックサインと応援
私は野球少年だったので、大学院くらいまで野球をやっていた。もっとも野球部に入ったことはなく、草野球だったのだが。私の少年時代には、リトルリーグなどはなかったので、みんなまず草野球から入って、本格的にやるのは中学の野球部からが多かった。近くに駒沢球場があり、オリンピックの工事で廃止されるまでは、友達とよく見に行った。後楽園などもずいぶん見に行ったものだ。長島や王、金田の全盛時代である。野球場にいくのは、子どもが小学生くらいまでで、その後はぷっつり行かなくなってしまった。忙しくなったというのもあるが、球場での野球観戦が嫌になったこと、野球の試合時間が延びて、仕事が忙しくなると、自然に足が遠のいていったわけだ。
スポーツが多様になったためでもあるが、野球の人気はかなり低下してきて、少子化も重なって、子どもたちの野球人口が非常に少なくなっているのだそうだ。一般的な意味での人気低下と、私の感覚が同じだとは思わないが、他人のことはわからないので、私が感じているプロ野球の魅力をなくしている要因と解決のいくつかを書いてみたい。 “無駄を省こう プロ野球 ブロックサインと応援” の続きを読む