『教育』2020.12号を読む 佐藤広美「優生思想をこえる教育思想」

 『教育』という教育科学研究会の機関誌の巻頭論文が担う役割とは何だろうか。私は、『教育』の読者としては永いが、教科研に入会したばかりであり、そのようなことを述べるのは僣越かも知れない。しかし、ここ数年の『教育』を読み続けているが、どうしても、不満が残るのである。今月号の特集1は、やまゆり園事件の判決が出たことをきっかけにして、「優生思想」を克服することを目的としている。優生思想を論じるのではなく、克服するのだから、優生思想をもっている人たちに、優生思想の間違いを自覚させ、正しい思想的在り方を提示することが目的となるはずである。『教育』を熱心に読んでいる人のなかで、優生思想を信望している人がいるとは思えない。だから、優生思想は間違っている、事件を起こした植松の考えはおかしいと、繰り返し述べる必要はない。もちろん、確認のため必要だろうが、『教育』の読者が、優生思想の人たちと議論をして、間違いに気づいてもらうための「理論」を提示することがなければ、結局、同じ価値観をもつ人たちの「相槌」に留まるのではないか。それでは、「克服」することにならない。『教育』の読者で、植松に共感している人は、おそらくほぼ皆無だろうが、世の中には共感する人は少なくない。SNSには、植松の考えがわかるという表明が多数あるようだ。植松はトランプを信奉していたようだが、トランプの支持者はアメリカの半数近く存在するのだ。植松は何故、あのような考えをもつに至ったのか、そして、考えをもったことから実行に至る過程で何があったのか、植松に共感する人は、何故なのか、そして、彼等を変えるためには、どんな論理が有効なのか。それを提示することが、特集全体の課題でなければならないはずである。そして、巻頭論文は、そのための理論的課題の整理が必要だろう。それはなされているだろうか。

 巻頭論文は、教科研委員長の佐藤広美氏によって書かれている。特集の意気込みが示されている。題は「優生思想をこえる教育の思想--新しい人間像の創出へ」となっている。この特集全体が、やまゆり園の事件の判決をきっかけとしているので、佐藤氏もまず植松批判から始めている。
 佐藤氏は、植松の間違いを最初に指摘する。
 第一に、生産性のない人間を抹殺したほうが世界経済の活性化のためになるという論理は、典型的な優生思想であるが、植松はそこに至る苦悩や苦い経験がなく、障害者の苦悩も理解していない。
 第二に、この事件の根底には、社会の差別の排除の思想の浸透がある。
 では、どうやってこうした考えを克服していくのか。それには、「ひとはつながることで生きる意味をみいだせる」という視点が重要だという柳田邦男の主張、大江健三郎が障害をもった子どもを育てた過程、そして、重症心身障害児施設びわこ学園の実践を紹介して、「高い能力レベルへ進まない場合でも、諸能力を豊富化する可能性はひらけるし、限界はない」という茂木俊彦氏の言葉をひいて、ここに、優生思想をこえる手がかりがありうると結んでいる。
 しかし、端的にいえば、大江やびわこ学園の実践を、植松や、彼に共感する人たちに示しても、彼等が変わるとは、私には思えないのである。なぜならば、植松は、曲がりなりにも、最初は、びわこ学園のような重度の障害者を扱っているやまゆり園に勤めて、介護の仕事に携わっていたのである。そして、辞める少し前までは、それほど問題も起こさずに仕事をしていたわけであり、ところが、その途中から、その仕事に疑問をもつようになった。当初は、植松だって、「教育によって命が輝く」ことを願って、仕事についたのだろうが、仕事をするなかで、彼等は生きている価値や意味があるのか、と思い出した。柳田、大江、茂木氏を示しても、最初は自分もそう思っていたけど、そんなの間違いだとわかったのだ、と植松は言い張るのではないだろうか。
 
 佐藤氏は、「生産性のない人間は始末して構わない」という理由で、植松が殺傷事件を起こしたとしているが、植松が生きるかちがないとしているのは、「生産性のない人間」ではなく、「心失者」であり、「構わない」ではなく、「まわりを幸福にする」からである。つまり、「心失者」を殺せば、余計な負担を周囲にかけなくなり、みんなが幸福になれるということなのだ。「殺す」も正確には、「安楽死させる」ことだが、実際には安楽死ではなかったので、それは申し訳ないなどと謝罪している。
 ここに、この事件の本質があると思っている。つまり、心失者という概念は、植松が自分で作り出したようで、「まわりと意思疎通ができない人」、もっと厳密にいうと、「自分の名前、住所をいえない人」ということだ。だから、植松は、殺害を実行する際に、おそらく名前や住所を言わせ、言えた人は殺さなかったのだと思われる。そういう意味では、彼なりの選別をしている。従って、「生産性のない」と判断した人間を直ちにに殺害したわけではないので、このような理由で、彼を批判しても、少なくとも同調者たちは、納得しないに違いない。
 私がいうここでの「本質」とは、殺害された人たちは、本当に意思疎通のできない人であったのかという点なのだ。植松は、やまゆり園の仕事は、楽だったといっている。見守るだけでよかったからだと。彼は、やまゆり園の障害者たちを、単に「見守っていた」のであって、積極的にコミュニケーションをとろうとはしなかったに違いない。意思疎通を試みてもいなかったのではないだろうか。
 本当に重度の障害者は意思疎通ができないのだろうか。また、彼等は意志をもっていないのか。正確なところはわかっていないと思うし、現状では、意思疎通の方法は十分に発見されていない。しかし、私は、重度の脳性麻痺者でも、言語を獲得し、内面で思考していると思っている。
 私のゼミでこういうことがあった。
 極めて優秀な学生の弟が双子の重度の脳性麻痺者で、当時高校生の年齢だった。ずっと病院に敷設された特別支援学校に在籍して,病院から通学するという形だった。時々帰宅もしたようだが、言語能力はほとんどない。私は直接見たことはないので、その学生から様子を聞くだけだったが、家族は、彼等が何かを思ったり、感じたりしていること、そして、ときどき独自の方法で、それを表現すると考えていた。テレビなどで、面白いと体を揺すったりするという。
 そこで、私は、その学生に、卒論では弟たちとのコミュニケーション、あるいは弟の思考について研究したらどうか、そして、病院の医師たちと協力して、彼等が心のなかで何かを思っているのか、それはどのようなものなのか、そして、それを彼等が何らかの形で表現しているのかを究明したらどうか、と提案した。本人も大いに賛同して、親と相談した結果、親が絶対にそんなことは許さないという。子どもを研究材料にしてほしくないということだ。それは理解できることだった。
 結局、卒論のテーマにすることは諦めてしまったのだが、いまでも非常に残念に思っている。その学生が研究してくれれば、専門家がやるよりも、ずっと成果があがっていた可能性がある。というのは、重度の脳性麻痺者というのは、外部からは、心のなかはほとんど分からないわけで、それをほんのわずかな徴候で探っていくのは、家族のように長時間一緒に過ごしている人間以外には難しいと思うからだ。その学生は非常に優秀だったし、また、将来の専門職業として障害者問題を選んでいたから、これほど適任な事例は滅多にない。
 そのとき私が考えたのは、彼等は、言語を獲得しているのではないかということ。自分では話さなくても、言語環境のなかで生きているのだから、当然言語を修得していてもおかしくない。言語があれば、当然思考が可能になる。だから、心のなかではいろいろと考えているのではないか。しかし、それを通常の形では表現することができない。しかし、別の形で表現はしているのではないか。それをまわりが感知できないだけなのではないか。それを感知して、そのやりとりに習熟していけば、通常の言語コミュニケーションとは違うかも知れないが、基本的には同等のコミュニケーションが成立するのではないか。個々の脳性麻痺者の発する方法は多様に違いないが、そこに共通化できたり、あるいは、ある種の共通性があることを発見すれば、ひとつのコミュニケーション方法となるのではないか。
 そういうことを考えた。いまでも、だれかがやってほしいと思っているが、とにかく、重度脳性麻痺者といえども、意思疎通ができないのではなく、現時点で、健常者が彼等の意志表現を把握していないだけなのだ、と考えべきだろう。
 もし、植松を説得できるとしたら、「ほら、こうやって、意思疎通が可能なんだよ。彼等は決して心失者ではないんだ」と示すことが必要だと思う。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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