オリンピック組織の末期症状

 組織や制度は、いつかは機能しなくなったり、崩壊したりする。そして、崩壊が近くなると、何故こんなことが起きるのかというような不可解なことを、そのなかのひとたちはやってしまう。それは、決して組織を担うひとたちが愚かだというわけではなく、彼らにのしかかる事態が、判断を狂わせ、実行が困難になり、そして、ますます難しい課題が生じて、どうにもならなくなってしまうのだろう。
 徳川幕府の末期、何度も改革しても、幕府という軍事政権では社会に適応できなくなっており、そこに条約制定を迫る外国勢力と、幕府打倒を目指した勢力との圧力を受け、幕府は有効な対応をとれずに瓦解していく。決して、当時の幕府を担った人材が無能だったわけではない。やはり抗し得ない力が働いたというべきだろう。その力を活用した倒幕派が勝利し、外国勢力が得をした。
 規模と状況は違うが、現在のオリンピック組織委員会は、似たような状況ではないだろうか。

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「日本的学校教育」中教審答申の検討7 高校教育3

 多様性の実施は、進学制度にかかっているとすれば、ではどんな進学制度が望ましいのか。とりあえず、アメリカの総合制高校も含めて、後期中等教育まで、前期中等教育のように「共通課程」で一貫させるという考えは、私の知る限りほとんどないので、後期中等教育では多様なカリキュラムやコースが提供されるという前提で考える必要がある。
 まず最初に考えねばならないことは、義務教育年齢である。答申では、高校も事実上義務教育に近い進学率であることを指摘しているが、だからといって、義務教育にすべきであるとはまったく書いていない。あくまでも、中学までを義務教育とする立場である。では、義務教育にすると何が変わるのか。大きくふたつある。
 第一に、高校を義務教育にすると、入試がなくなる点である。現行制度では、中高一貫校では、中学で、それ以外は高校で入試がある。ところが、義務教育ではかならず行かなければならないのだから、少なくとも競争的で振り落とされる入学試験はできない。日本の公立中学には入試がないことでわかる。アメリカは高校の途中まで義務教育になっているので、高校の入試はない。そのために、アメリカの典型的な高校は地域総合制高校となっていて、地域の高校生は同じ高校に通い、そこには実にたくさんの、多様な授業が用意されている。そこで選択して履修するわけだ。もちろん市街地の高校はより小規模なものもあるが、郊外では地域総合制が標準的である。

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「日本的学校教育」中教審答申の検討6 高校教育2

 今回は、前回の紹介と簡単なコメントを踏まえて、中等教育制度の何をどう考える必要があるのかを試みたい。
 私は修士論文で、「学校生徒の多様化と統一化の問題」というテーマで、統一学校運動の研究を行い、それで博士論文も書いたが、現在でも「多様化と統一化」を研究の中心テーマにしている。時代や対象を広げた形なのだが。そして、そのテーマの中心対象が中等教育であることは、ずっと同じである。中等教育の性質上、これが制度論としては中心的課題になるわけだ。
 多様化は、社会が分業化していることから、労働者を適切に分業体制に選別していくという側面と、個々人にとってみれば、能力や資質、好みが多様であるので、社会のなかに適切な場所を選択していくという側面がある。「統一化」は、国家や社会は、秩序を保持していくためには、共通の規範や規則が必要であり、それを国民(市民)が、受容して守っていく必要があり、そういう姿勢と意識を形成することが目的である。統一の方法についても、いくつかの型があるが、ここでは、多様化の問題を主に考えることにする。

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「日本的学校教育」中教審答申の検討5 高校教育1

 4月17日の「オランダの新しい学校教育をめぐる問題」のところで書いたように、初等教育と高等教育は「制度論」としては、ほぼ社会的なコンセンサスができているか、中等教育については、多くの国で論争的な課題をたくさん残している。初等教育は、国民として、人間として、社会で生きていく上で、不可欠で基本となる知識やスキルを学ぶところであり、高等教育は専門分化した領域を学ぶところであるが、中等教育は、その間にあって、高等教育や社会につなげる位置にあるために、内容だけではなく、分化・選別という課題が入ってくる。分化・選別は高等教育にもあるが、専門分野が定まっている一方、中等教育では、個々人が分化を自分の人生選択として決めなければならないし、また、個人の選択と社会としての選別が絡み合う領域となっている。日本の基本的な学校制度は、6・3・3・4が骨組みとなっており、その組み合わせは様々あるとしても、区切りをまったく変えている学校はない。そして、中学と高校は、どのような教育を行おうとも、上級学校への接続に関しては、平等である。この枠組みを変えようという提言は、これまで中教審や臨教審でもなされたことはなかった。従って、同一学校種のなかで、特に高校をどのように、社会の多様なニーズに対応するために、「多様化」するかが、ずっと問題になってきた。いわゆる「多様化路線」である。今回の答申も、その範囲内での提言になっており、高校教育の根底的な変革を意図したものにはなっていない。

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読書ノート『レコードはまっすぐに』ジョン・カルショー(続き)

 この本を読みたいと思った最大の理由は、やはりカラヤンの録音エピソードが豊富にあるということだった。確かにたくさん出てきて面白い。ただ、カラヤンのものすごい音楽的・指揮能力を認めつつも、かなり皮肉を交えている。例えば、カラヤンはオーケストラを自由に操れるので、気に入った歌手には、歌いやすくバックアップするのだが、気に入らない歌手の場合には、(とりあえず練習中のこととして書かれているので、本番でもそうしたかはわからないだが)オケを大きく鳴らして声を聞こえにくくしたり、あるいはブレスをする必要があるところ、あまりその間をとらずに先にいってしまったりするというのだ。つまりいじわるをする。カラヤンに気にいられている歌手たちのインタビューで共通に語られているのは、カラヤンの指揮だと本当に歌いやすいということだが、こういうこまかい配慮をきちんとやってくれるからなのだろう。昔のテレビ番組で、日本の代表的な指揮者の一人である岩城宏之氏が、カラヤンの指揮テクニックはプロからみてもすごいといっていたが、そうなのだろう。ライブの「トロバトーレ」を聴いていると、歌手たちがゆっくりしたり、あるいは思い切り延ばしているのに、しっかりとオケを合わせていく。ところがある歌手に対して、オケの音を抑えずに進めていたのに対して、カルショーは、カラヤンはあの声が嫌いなのだと断定している。残念ながらその歌手が誰であるかは書いていない。

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読書ノート『レコードはまっすぐに』ジョン・カルショー

 かつてのレコード会社デッカの伝説的な名プロデューサーのジョン・カルショーの自伝『レコードはまっすぐに』を大急ぎで読んだ。レコード会社内の複雑な人間関係や、制作をめぐる経営者との駆け引きなどが、生々しく書かれているが、そういう点にはあまり興味がないので、私のように音楽に興味をもって読む人間には、同じようなドタバタが繰り返されているような印象しか残らない。興味をもって読んだのは、有名な音楽家のレコーディングの様子やそこでの「事件」だった。特に、印象的なものを記しておきたい。
 今は比較的注目されていれば、国際的に有名ではなくても、CD録音されて市販されるが、LPレコードのころまでは、やはり、相当な知名度がないとレコーディングの機会はなかった。だから、1970年代くらいまでに録音され、かつ今でも現役のCDとして市場に出ているような音楽家は、本当に優れたひとたちだったといえる。そして、そういうひとたちの録音にかける意気込みは、非常に厳しいものがあると、まず感じる。もちろん、カルショーはそれを常に積極的に評価しているわけではなく、かなり皮肉を込めて書いている場面もある。

オランダ留学記5 ライデン大学での講義

 オランダ留学といっても、大学教師としての留学なので、特別なノルマなどはない。好きなようにやっていいわけだ。漱石は大学の講義に出ても得るところはないということで、家で勉強していたようだし、矢内原忠雄も、場末を歩き回って、地域の状況を知ることに努めていたという。私は、もちろん二人のような人物ではないが、留学の目的は、子どもを現地校にいれて、現地校をできるだけなかから知ることと、子どもたちの変化を見ることにおいていたので、ライデン大学の講義は、私を招待してくれたラケト教授の日本近代史のみ聴講した。この講義に関しては、私が親しくして、いろいろと教えてもらっていた学生が、この講義をとっていて、この講義の試験勉強に関して、質問に答えてあげたら、それがずいぶんと役に立ったらしく、成績優秀者として張り出されたと喜んでいたというようなこともあった。やはり、大学の講義といっても、予備知識のない段階で聞くわけだから、表面的な理解に留まっており、何の問題であったかは忘れてしまったが、多面的に考えるように、具体的なことを提示して教えてあげたことが、偶然問題に出て、いい答案を書けたようだ。

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オリンピックののたれ死にが現実的になってきた

 東京が緊急事態宣言を考慮し始めているということだ。政府は、できるだけ避けたいようだが、このままコロナの感染が進んでいけば、緊急事態宣言をせざるをえないに違いない。できるだけ短くしようとしても、現在の緊急事態宣言などは、それほど効果を望めないから、1月は継続するに違いない。それでもなお、オリンピックを開催するのか。
 菅首相は、依怙地になっているような様相すらある。アメリカで、ニューズウィークの取材に対して、中止という選択肢はないと言い切っている。そして、バイデン大統領からは、菅首相の開催への努力を支持するという言葉引き出して、勇気をえたようなことを言っている。しかし、段選手団の派遣の約束と、バイデン大統領の開会式への出席の約束を得ることはできなかった。自民党内からも、感染がコントロールできなくなったら、オリンピック中止をすぱっと決めるべきという声も出された。
 他方、IOCからは、オリンピックを開催して、感染拡大などが起きたら、それは日本政府の責任であるとの表明があったという。以下のような記事で紹介されている。

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原発処理水、素人はだまっていろという細野・野村氏の圧力発言

 福島原発事故によって、日々大量に発生している汚染水の処理に関して、先日政府から「決定」がなされ、ALPSという放射性物質を処理・除去するシステムによって処理された「処理水」を海に放出する決定がなされた。当然、様々な議論が起きているが、日曜日の「サンデーモーニング」の特に目加田教授の発言にクレームをつける記事が目立った。民主党政権時代の原発事故担当大臣だった細野豪志氏と、最近テレビでキャスターを始めた中央大学教授の野村修氏である。二人の主張に共通しているのは、「素人は黙っていろ」ということだ。こういうことは、絶対に「識者」なるひとたち、そして当然政治家は言ってはならない。そして、専門家もである。素人でも、きちんと調べた上で、どんどんもの申すべきなのであるし、それが許され、かつ、丁寧な対応がなされるのが、民主主義社会というものだ。
 まず細野氏の主張をみてみよう。東スポに掲載された文章である。

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岡崎城西高校チアリーディング部の事故と訴訟 部活の形態に無理がある 社会体育への移行を考えよう

 2021年4月19日、愛知県岡崎城西高校チアリーディング部の活動中に、不適切な指導で、下半身付随になったと、高校に損害賠償訴訟が起こされたという記事が多数でている。毎日新聞の記事によると、以下のようなことのようだ。
 
 「提訴は2月15日付。訴状によると、元女子部員は1年生だった2018年7月、低い場所での宙返りも完全に習得できていないにもかかわらず、より高度な技術が必要な、2人の先輩に両足を握られて肩の高さまで持ち上げられた状態から前方宙返りをして飛び降りる練習を体育館でした際、前方のマットに首から落ちた。その結果、脊髄(せきずい)損傷などで下半身が動かなくなり、排せつも自力でできなくなるなど後遺症が残ったとしている。
 部の男性顧問は部活に姿を見せることは少なく、外部の女性コーチが技術指導をしていたが、事故時は2人とも不在だった。けがを避けるために技の練習で必要な補助者もなく、マットを敷くだけだったという。元女子部員側は「顧問とコーチは、練習による危険から生徒を保護すべき注意義務をおこたり、習熟度に見合わない練習をさせ、事故に至った」などと主張している。」https://mainichi.jp/articles/20210418/k00/00m/040/183000c

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