読書ノート『レコードはまっすぐに』ジョン・カルショー

 かつてのレコード会社デッカの伝説的な名プロデューサーのジョン・カルショーの自伝『レコードはまっすぐに』を大急ぎで読んだ。レコード会社内の複雑な人間関係や、制作をめぐる経営者との駆け引きなどが、生々しく書かれているが、そういう点にはあまり興味がないので、私のように音楽に興味をもって読む人間には、同じようなドタバタが繰り返されているような印象しか残らない。興味をもって読んだのは、有名な音楽家のレコーディングの様子やそこでの「事件」だった。特に、印象的なものを記しておきたい。
 今は比較的注目されていれば、国際的に有名ではなくても、CD録音されて市販されるが、LPレコードのころまでは、やはり、相当な知名度がないとレコーディングの機会はなかった。だから、1970年代くらいまでに録音され、かつ今でも現役のCDとして市場に出ているような音楽家は、本当に優れたひとたちだったといえる。そして、そういうひとたちの録音にかける意気込みは、非常に厳しいものがあると、まず感じる。もちろん、カルショーはそれを常に積極的に評価しているわけではなく、かなり皮肉を込めて書いている場面もある。

オランダ留学記5 ライデン大学での講義

 オランダ留学といっても、大学教師としての留学なので、特別なノルマなどはない。好きなようにやっていいわけだ。漱石は大学の講義に出ても得るところはないということで、家で勉強していたようだし、矢内原忠雄も、場末を歩き回って、地域の状況を知ることに努めていたという。私は、もちろん二人のような人物ではないが、留学の目的は、子どもを現地校にいれて、現地校をできるだけなかから知ることと、子どもたちの変化を見ることにおいていたので、ライデン大学の講義は、私を招待してくれたラケト教授の日本近代史のみ聴講した。この講義に関しては、私が親しくして、いろいろと教えてもらっていた学生が、この講義をとっていて、この講義の試験勉強に関して、質問に答えてあげたら、それがずいぶんと役に立ったらしく、成績優秀者として張り出されたと喜んでいたというようなこともあった。やはり、大学の講義といっても、予備知識のない段階で聞くわけだから、表面的な理解に留まっており、何の問題であったかは忘れてしまったが、多面的に考えるように、具体的なことを提示して教えてあげたことが、偶然問題に出て、いい答案を書けたようだ。

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オリンピックののたれ死にが現実的になってきた

 東京が緊急事態宣言を考慮し始めているということだ。政府は、できるだけ避けたいようだが、このままコロナの感染が進んでいけば、緊急事態宣言をせざるをえないに違いない。できるだけ短くしようとしても、現在の緊急事態宣言などは、それほど効果を望めないから、1月は継続するに違いない。それでもなお、オリンピックを開催するのか。
 菅首相は、依怙地になっているような様相すらある。アメリカで、ニューズウィークの取材に対して、中止という選択肢はないと言い切っている。そして、バイデン大統領からは、菅首相の開催への努力を支持するという言葉引き出して、勇気をえたようなことを言っている。しかし、段選手団の派遣の約束と、バイデン大統領の開会式への出席の約束を得ることはできなかった。自民党内からも、感染がコントロールできなくなったら、オリンピック中止をすぱっと決めるべきという声も出された。
 他方、IOCからは、オリンピックを開催して、感染拡大などが起きたら、それは日本政府の責任であるとの表明があったという。以下のような記事で紹介されている。

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原発処理水、素人はだまっていろという細野・野村氏の圧力発言

 福島原発事故によって、日々大量に発生している汚染水の処理に関して、先日政府から「決定」がなされ、ALPSという放射性物質を処理・除去するシステムによって処理された「処理水」を海に放出する決定がなされた。当然、様々な議論が起きているが、日曜日の「サンデーモーニング」の特に目加田教授の発言にクレームをつける記事が目立った。民主党政権時代の原発事故担当大臣だった細野豪志氏と、最近テレビでキャスターを始めた中央大学教授の野村修氏である。二人の主張に共通しているのは、「素人は黙っていろ」ということだ。こういうことは、絶対に「識者」なるひとたち、そして当然政治家は言ってはならない。そして、専門家もである。素人でも、きちんと調べた上で、どんどんもの申すべきなのであるし、それが許され、かつ、丁寧な対応がなされるのが、民主主義社会というものだ。
 まず細野氏の主張をみてみよう。東スポに掲載された文章である。

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岡崎城西高校チアリーディング部の事故と訴訟 部活の形態に無理がある 社会体育への移行を考えよう

 2021年4月19日、愛知県岡崎城西高校チアリーディング部の活動中に、不適切な指導で、下半身付随になったと、高校に損害賠償訴訟が起こされたという記事が多数でている。毎日新聞の記事によると、以下のようなことのようだ。
 
 「提訴は2月15日付。訴状によると、元女子部員は1年生だった2018年7月、低い場所での宙返りも完全に習得できていないにもかかわらず、より高度な技術が必要な、2人の先輩に両足を握られて肩の高さまで持ち上げられた状態から前方宙返りをして飛び降りる練習を体育館でした際、前方のマットに首から落ちた。その結果、脊髄(せきずい)損傷などで下半身が動かなくなり、排せつも自力でできなくなるなど後遺症が残ったとしている。
 部の男性顧問は部活に姿を見せることは少なく、外部の女性コーチが技術指導をしていたが、事故時は2人とも不在だった。けがを避けるために技の練習で必要な補助者もなく、マットを敷くだけだったという。元女子部員側は「顧問とコーチは、練習による危険から生徒を保護すべき注意義務をおこたり、習熟度に見合わない練習をさせ、事故に至った」などと主張している。」https://mainichi.jp/articles/20210418/k00/00m/040/183000c

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日本人のワクチン観のせいで遅れるのか?

 日本でのワクチン接種の遅れに対して、日本人のワクチンに対するネガティブな感情が強調されることがある。日本人のゼロリスク志向が、素早いワクチンの普及や研究を阻害しているのだというような見解だ。何か、ワクチン研究開発や調達の遅れを、日本人の感性のせいにしている感がぬぐえない。しかし、何故そういう感情が起きたのかを考える必要がある。
 私が子どものころの、予防接種はBCGが代表的なものだった。私は、幸か不幸か父親が結核患者だったので、小さいころに感染しており、ツベルクリン反応が常に最大の強で、BCGを打ったことがない。ただ、BCGに否定的な対応というのは、なかったのではないだろうか。むしろ、日本人は、医学や薬に対して、積極的な姿勢をもっていたように思う。医者への尊敬の念も高かった。
 その風向きが変わったのは、何度か起きた薬害と、ワクチンの副反応だったが、私の見る限り、薬害や副反応自体よりは、その後の政府や企業の対応だったのではないか。それは公害でも同様である。水俣病は、科学的研究によって、その原因物質と排出企業が特定されていたにもかかわらず、本当に長い間、それを政府も企業も認めることがなかった。その間にも、どんどん被害が大きくなったのである。

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オランダの学校教育をめぐる新しい問題1

 学校制度論の領域では、初等教育と高等教育では、原則的な分岐に関しては、今のところ決着がついている。初等教育は、単一の制度で、高等教育は専門的な領域で分化するというように。しかし、中等教育では、この問題は国民教育制度が成立して以降、ずっと問題として論争し続けられてきた。そして、おそらくPISAの影響が大きいと思われるが、先進国で新たな論争や制度改革が起きている。
 簡単に大雑把な整理をしておくと、教育制度はまず大学がつくられ、大学に入るための予備門が形成される。これが中等教育と高等教育である。大体において、社会の管理層になるひとたちが学ぶ場であった。それに対して、一般庶民にも教育の必要が生じると、簡単な読み書きから始まり、社会の発展の程度に従って、多少専門的なことも学ぶ学校が成立する。これが初等教育である。つまり、成立の契機はまったく異なる。
 19世紀の末頃に、先進国で義務教育制度が成立すると、予備門としての初等教育の年齢段階の学校と、純粋な初等学校(小学校)との統一を求める運動が起き、第二次大戦前後には、ほぼ小学校段階は統一的な制度になる。ところが、中等教育をどのように編成するかは、国によって異なる歩みを示した。従来の初等教育の延長と、中等教育を別々の制度として温存するタイプと中等教育も単一に編成するタイプに分かれる。同一の国のなかに、ふたつのタイプが同居する国もあった。

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原発汚染水放出への疑問(再)

 この問題については、ごく素人的初歩的なことを書いたが、やはり、まだ疑問が残る。こうした問題は、やはり、きちんと考えている限りは、素人にも十分納得ができるような説明が必要であると考えるのだ。前回から、新しいことが起きた。それは、中国外務省の趙立堅副報道局長が14日の定例記者会見で、東京電力福島第1原発の処理水について「飲めるというなら飲んでみてほしい」と述べたことだ。これは麻生財務相が、汚染水の水は、水道の水よりも安全で飲める、と発言したことに対して述べたものだ。いかにも、挑発的な発言だが、やはり麻生氏の言い方に大きな問題を感じるし、それは政府全体の問題でもあるのだ。
 はっきりいえば、麻生氏の発言は、日本国民をも馬鹿にしたようなものだ。でたらめを述べているからだ。もし、本当に水道の水よりも安全で飲めるならば、なぜ海に放出する必要があるのか。むしろ、それこそ飲み水として、水道に使えばいいではないか。何故そうしないのか。答えは明らかだろう。水道水より安全だなどということは、全くなく、飲めるはずないからだ。本当に、飲めるのならば、自分で言ったことなのだから、麻生氏自身が、絶対に「これは汚染水である」ということかわかる水を、公開の場で飲んでみせるべきだ。それができないなら、日本国民だけではなく、世界に対して嘘をついたことになる。冗談に決まっているだろう、などというとしたら、こうした深刻な問題をちゃかして、でたらめを平気でいうということだ。そんな財務大臣を信用できるか。

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オランダ留学記5 学校選択2

 オランダでの生活も順調に進み、子どももオランダの学校に慣れてきた時期のことである。いくつもの学校を訪問して、確かに、オランダにはいろいろな種類のが教育スタイルがあるのだということを実感していった。しかし、制度というものは、100%すばらしく機能するということはない。制度も悪用すれば、まずい結果が生じるし、多様な教育に応じるといっても、完全に要求に則した多様な学校を設立できるわけでもない。また、多様な教育に分かれていては、国民的なまとまりが形成できないではないかという、選択に否定的な意見だってある。「教育の自由」や「学校選択」について、国民のほとんどは賛成しているが、具体的に問題が生じることもあるし、また、意見か分かれることもある。そうした紛争ともいうべき事態を紹介した文章である。
 
----(以下通信)
23 学校選択をめぐる紛争
                                            93.4.1
 
 確か昨年の秋に、義務教育に関する論争がここであったと思います。実はそのログは、丁度そのとき日本に一時帰国したので、日本でとり、こちらに持ってきていないので、内容を確認することができないのですが、なにかまだ中途半端で終わった感じがしています。何人か書いていたと思うので、出来たら続きをしてほしいと思っています。

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大学の男女別定員枠はまちがいだ

   森元東京オリンピック組織委員会会長の女性差別発言以来、日本の女性差別が酷いことが度々問題にされるようになってきた。そして、大学入試が終わり、進学年度が開始されたからだろうか、大学という世界における女性の比率が低いことが話題になっている。そしてその極端な例として、東大では、教員の9割、学生の8割が男性であることが議論となっている。東大としても、とくに管理職などで女性を積極的に登用する動きが顕著になっているようで、それはそれでいいことだろう。
 ただし、教師や学生を、意図的に増やすということにまで進むと、むしろ逆の問題を生じさせる可能性がある。現在でも、助教を女性に限って募集されるようなことがけっこうある。研究職だから、当然実力がある人を雇うべきであり、募集そのものを女性に限るというのは、あまり賛成できない。しかし、広範囲に行われているわけではなく、限られたポストでのことだから、女性研究者にインセンティブを与えるという意味では、効果があるかも知れない。

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