多様性の実施は、進学制度にかかっているとすれば、ではどんな進学制度が望ましいのか。とりあえず、アメリカの総合制高校も含めて、後期中等教育まで、前期中等教育のように「共通課程」で一貫させるという考えは、私の知る限りほとんどないので、後期中等教育では多様なカリキュラムやコースが提供されるという前提で考える必要がある。
まず最初に考えねばならないことは、義務教育年齢である。答申では、高校も事実上義務教育に近い進学率であることを指摘しているが、だからといって、義務教育にすべきであるとはまったく書いていない。あくまでも、中学までを義務教育とする立場である。では、義務教育にすると何が変わるのか。大きくふたつある。
第一に、高校を義務教育にすると、入試がなくなる点である。現行制度では、中高一貫校では、中学で、それ以外は高校で入試がある。ところが、義務教育ではかならず行かなければならないのだから、少なくとも競争的で振り落とされる入学試験はできない。日本の公立中学には入試がないことでわかる。アメリカは高校の途中まで義務教育になっているので、高校の入試はない。そのために、アメリカの典型的な高校は地域総合制高校となっていて、地域の高校生は同じ高校に通い、そこには実にたくさんの、多様な授業が用意されている。そこで選択して履修するわけだ。もちろん市街地の高校はより小規模なものもあるが、郊外では地域総合制が標準的である。
答申は、総合制高校の推進を提言しているが、それを標準とするわけでもなく、当然入試を前提にしている。現在でも規模の大きな総合制高校はあるが、アメリカほどに多様なカリキュラムが用意されているところは、ほとんどないようだ。
第二に、義務教育になれば、自治体が学校を、学齢生徒を収容できるように設置しなければならないことだ。中学から私立が増え始めるが、高校では私立の割合が高まり、大学になると多数が私立である。そして、授業料を徴収することかできなくなる。つまり、財政負担が各段に増すことになる。
競争によって学習を促すこと、そして、できる限り財政負担を回避すること、これが高校教育義務化を提言しない理由だといってよいだろう。もっとも、事実上の義務教育になっているのだから、義務化しても、大きな相違はないということも、まったくの間違いとはいえない。
そこで、義務教育にはならないという前提で考えていこう。
個人の資質や能力と社会の要請とが、ミスマッチをしないための原則は、社会の側がアドバイスに留め、最終の選択は個々人が行うことである。社会の側が、自らの枠を前提に選抜をすれば、必ず競争的な選抜となり、能力や資質と無関係な選択な行われたり(偏差値学力が高い故に、希望しないにもかかわらず医学部を受験するなど)、当然、資質や希望があるのに落とされたりすることが頻発し、ミスマッチが多く発生する。しかも、不要な差別意識を生んでしまう危険性もある。
ここから、単純ではあるが、結論は、高校入試も大学入試も、現在のように「競争試験」と「上級学校が実施する」という二点をやめるべきでる。ドイツやオランダのように、進路先で中等学校も別になっている場合は別であるが、日本のように、高校として法的資格に差をわざわざつけることもないだろう。
そうすると、受けいれ側は、まったく能力・学力・資質の確認をするべきでない、あるいはしてはならないのだろうか。
第一に考えられることは、受けいれ側ではどのような教育をしており、どのようなレベルの学習が求められるかを、明確にすること(ポリシーの公表)、それを測る方法を提示することだろう。応募する側は、それを十分に考慮して、最終的に選択する権利があるとする。
こうしたことについては、学習の到達について、現在よりも厳格に評定する必要がある。中学は、卒業資格をしっかりと定め、それに応じて認定する。進学したいと考える上級学校の求めるものを援助する。そうして、進学したい学校を自由に選べるようにするのである。
大学の場合も同様である。
それでは、定員の問題はどうなるのか。東大抽選選抜論などがでたことかあったし、また、同じように資格試験化提案もあったが、そういうときに必ず問題になったのは、定員の問題である。これまでは確かに、受けいれキャパシティという壁があったが、コロナ禍でのオンライン教育によって、それは絶対的な壁ではなくなったのではないだろうか。そもそも、ひとつの学校にのみ在籍するという形式をずっと維持する必要があるだろうか。また、教育も、複数の大学が、あるいはより自由な提携の形で教育することは、簡単にできるようになった。どうしても必要な定員振り分けを行うことは合理的だが、それでも、他大学の講義を自由に受けられるようにすれば、ミスマッチは事実上マッチする形になりうるのである。
当然、演習や実習、実験のように、対面ないし人数制限が必要な科目もある。それは、学内選抜をすればよい。専門を学ぶ上でのかぎられた枠のための選考試験は、通常の入学試験のような弊害があるとは思えない。ICTを活用した、新しい大学教育の在り方を模索することで、競争試験による剥落必至の受験学力ではなく、興味関心によって深く学べる、資質にあわせた学習を保証することかできるようになってきたのだ。
それを柔軟、かつ最大限活用すれば、定員による制限などは突破できるし、そうして学習意欲を満足させた国民が社会に出て行くようになれば、停滞した日本社会を長期的に活性化させることができるように思われるのである。