この本を読みたいと思った最大の理由は、やはりカラヤンの録音エピソードが豊富にあるということだった。確かにたくさん出てきて面白い。ただ、カラヤンのものすごい音楽的・指揮能力を認めつつも、かなり皮肉を交えている。例えば、カラヤンはオーケストラを自由に操れるので、気に入った歌手には、歌いやすくバックアップするのだが、気に入らない歌手の場合には、(とりあえず練習中のこととして書かれているので、本番でもそうしたかはわからないだが)オケを大きく鳴らして声を聞こえにくくしたり、あるいはブレスをする必要があるところ、あまりその間をとらずに先にいってしまったりするというのだ。つまりいじわるをする。カラヤンに気にいられている歌手たちのインタビューで共通に語られているのは、カラヤンの指揮だと本当に歌いやすいということだが、こういうこまかい配慮をきちんとやってくれるからなのだろう。昔のテレビ番組で、日本の代表的な指揮者の一人である岩城宏之氏が、カラヤンの指揮テクニックはプロからみてもすごいといっていたが、そうなのだろう。ライブの「トロバトーレ」を聴いていると、歌手たちがゆっくりしたり、あるいは思い切り延ばしているのに、しっかりとオケを合わせていく。ところがある歌手に対して、オケの音を抑えずに進めていたのに対して、カルショーは、カラヤンはあの声が嫌いなのだと断定している。残念ながらその歌手が誰であるかは書いていない。
最も知りたかったのは、オテロの録音で、有名なバスティアニーニ降ろしの件だった。当初予定されていた、当時最も有名なイタリアのバリトンであるバスティアニーニが、途中で降ろされてしまったことの、駆け引きが面白いと、この本の書評に書かれていたからだ。しかし、実際に読んでみると、そんな駆け引きというようなものではなかった。バスティアニーニは、それまでこのイアーゴ(オテロを貶める罠をしかける人物)を歌ったことがなかったことは、最初から分かっていた。しかし、オペラの録音では決して珍しいことではない。実際にカラヤンの録音でも、蝶々夫人を歌ったマリア・カラスと、ミレルラ・フレーニは実際に歌ったことがないし、カルメンを歌ったレオタイン・プライスもまったく経験がなかった。しかし、これらの録音は、いずれも超弩級の名演である。このくらいの名歌手になれば、自分の声にあった、あるいは過度の負担をかけないものを、実際の舞台では選ぶわけで、負担の問題については、録音では軽減されるから、歌ったことがない曲でも録音することは問題ないわけだ。それで、バスティアニーニも大丈夫だろうと思っていたのだろう。しかし、一流の歌手であれば、舞台で歌ったことはなくても、勉強したことはあるだろうし、また、録音前にしっかりと勉強してくる。1年くらいの期間はあるのだから。ところが、バスティアニーニはほとんど勉強もせずに、録音に臨み、リハーサルで何度やっても合わなかったのだそうだ。それでは、カラヤンならずとも使うことはできないだろう。誰がみても無理な状態だったようだ。それで急遽ウィーンにいるプロッティを起用したという。プロッティは、モノラル盤のオテロ(エレーデ指揮)でもイアーゴを歌っていたので、問題はなかった。ただし、やはり、バスティアニーニほどの実力者ではないので、もう少しバスティアニーニがまじめに取り組んでいて、録音に参加してほしかったと思う人は多数いるに違いない。彼はイアーゴには声の質としてむかないという人もいるが、私はそんなことはないと思う。
カラヤンに降ろされてしまったので、その後カラヤンは彼をまったく使わなかったのかというと、実は翌年のザルツブルグ音楽祭での有名なトロバトーレで歌っており、そのライブ録音はいまだに人気がある。カラヤンは、そういう感情的なことに左右される人ではなかったということだろう。実力があれば、割り切って使ったのだ。
カラヤンとデッカの契約の推移も興味深かった。1960年くらいまでは、カラヤンは完全にEMIの独占状態だった。フィルハーモニアとの一連の録音は、いまでも優れたものとして残っている。バラの騎士などもステレオで録音しているが、さすがに、フィルハーモニアとはワーグナーなどは全曲録音をしていない。やはりウィーンでやりたいと思っていたのだろう。1960年でEMIとの独占契約がきれるということで、デッカがカラヤンと契約でき、ウィーン・フィルも狂喜したという。そして、今でも名演とされるいくつかの録音がなされたが、やはり、ワーグナーはなされていない。これは、既にデッカがショルティでワーグナーを録音する計画が進行していたからだ。このことが、その後カラヤンかドイツグラモフォンの独占契約に進んで、ワーグナーの指輪をグラモフォンに録音することになっていく。デッカとは70年代以降オペラ録音が復活するが、ほとんどイタリアものである。(ボエーム、蝶々夫人)ショルティがウィーンで「指輪」の録音を始めたときに、ウィーン国立歌劇場のボスはカラヤンだったのだから、契約関係の問題がなければ、ショルティの仕事の多くはカラヤンがやっていたはずである。カラヤン自身、なぜ俺じゃないのかという気持ちをもっていたようなことを、カルショーは書いている。しかし、それは契約で縛られていたのだから、仕方ないことだったわけだ。残念ながら、カラヤンのベルリンとの「指輪」は、歌手のレベルがショルティよりは落ちるというのが、一般的な評価だ。優秀な歌手はそんなにいないのだから、仕方ないのだろう。「ニーベルンクの指輪」ですら、ライブで短期間に収録してしまう現在とは違って、まったく制約の多い時代だった。
カラヤンがデッカをやめて、ドイツ・グラモフォンに移ってしまったのは、お金だったと、カルショーは残念だが、いまいましい調子で書いている。私には、デッカ、EMI、ドイツグラモフォンは、同じような大きなレコード会社のようなイメージだったが、カルショーは、デッカは弱小な会社であるような書き方なのが意外だった。しかし、今はこれらのクラシックの名門企業はすべて他企業(ワーナーとユニバーサル)に買収されてしまっているのも、厳しさを感じる。本書はカルショーの死によって、中途半端に終わっているので、カラヤンのボエームの録音事情(なぜウィーン・フィルからベルリンフィルに変わったのか等)を知りたかったが、それは書かれていないのが残念だった。