メディアが、オリンピック開催への疑問をかなぐり捨て、開催歓迎へのハンドルをきったという。党首討論で、枝野立憲民主党の党首が、えらくさえない質疑に終始したのも、国民の雰囲気が変化しつつあると感じたからだという解説があった。こういうのを、「日和見主義」というのだ。野党第一党の党首がこんなだから、政権交代の期待も湧き出てこないのだ。
メディアの変質は、今回がはじめてではない。そもそも、石原知事が東京オリンピック招致の活動を始め、それが猪瀬知事に引き継がれたのだが、石原時代に、招致が実現しなかった最大の理由は、国民の支持が低いからだったのだ。このことは、いくら強調してもしすぎることはない。そして、オリンピック招致への反対は、招致が決まったあとも、決してそれほど低くはならなかったのである。しかし、表面的には、オリンピック招致賛成の世論が大きくなったことは事実だ。少なくとも世論調査の数値としては。しかし、それは、メディアの大規模な世論操作があったからである。とにかく、新聞やテレビで、オリンピック招致の機運をもりあげようという番組がたくさんあり、そうして雰囲気をつくっていったのである。それに、世論調査などは、質問項目の設定の仕方で、かなり意図する結果をだせるものだ。そうやって、メディアが、世論の賛否を逆転させたのだが、それの恩賞なのか、大手メディアがこぞって、オリンピックのスポンサーになったわけである。つまり、オリンピックを支援しつつ儲けようというわけだ。しかし、メディアは、こうした催しのスポンサーには従来ならなかったし、また、スポンサー自体が、同一業種一社という原則だったが、新聞社は5つもスポンサーになっているのだ。メディアが、スポンサーにならないのは、公正で客観的な報道が使命だからである。逆にいえば、スポンサーになっている日本の新聞社は、メディアの使命を放棄しているのである。